― 深き薫陶を賜える恩師アンダスン先生に捧ぐ
先生をお送りする歌
六年間も住みなれた
郡山からアメリカへ
皈國(きこく)なされる先生は
お心どんなにつらいでしよ。
尊い救ひのイエスさまの
十字架負って先生は
日本のお國へはるばると
渡って福音(みことば)宣べました。
桜咲く國うつくしい
こころをもった日本の
子供のすきな先生は
淋しくおもひなさるでしよ。
燕はきっと來年も
お家の軒端にかへります
丁度いまごろ先生の
元氣なお聲がきゝたいな。
横濱みなとを船出して
星のお國へ海の旅
信仰あつい先生を
神さまみちびきなさるでしよ。
バイブルクラス 右外壁に沿って前から三番目が太田 奥にアンダーソン 昭和10年頃
バイブルクラス 猪苗代湖畔 昭和30年
童謡詩の形をとったため、各漢字には全て幼児向けにふりがなが付されている。敵性国家の女性に献詩を捧げることは当時は極めて危険な行為であり、日記に密かに記された。アイリーン・アンダーソン宣教師は日米開戦の不安が高まる中、米国政府からの退避勧告に従い任務途中ではあったがやむを得ず、昭和16年7月上旬に横浜からアメリカに帰国した。翌17年1月太田博は現役入隊となり、恩師の母国と闘う苛酷な運命を背負うこととなった。アンダーソン宣教師は戦後再度日本に赴任したが、「先生をお送りする歌」を知ることはなかった。
退任後故郷のイリノイス州で104歳の天寿を全うした。墓石には双子の姉 Inez、Ireneが並んで記されている。