研究紹介

一般の方や学生に向けて、研究をざっくばらんに説明しています。詳しい内容については関連成果の論文をご覧ください。

物理ダイナミクスによる情報処理

「どういった研究をされているのですか?」

研究者はグラスをくゆらせこう答えた。

「This is a computer!」

 これは私の先生や共同研究者(そして私)がよく使う、一般の方に向けての研究の導入です。流体を揺らすと、その瞬間複雑な波面が形成され、やがて静かな水面に戻ります。このようなダイナミクス(動き)は流体の運動法則に則って振る舞い、コンピュータでその法則を計算すれば、流体のダイナミクスをシミュレートすることができます。ここからわかることはコンピュータの記憶や四則演算という計算能力が、流体のダイナミクスに変換できるということです。では、逆に、流体のダイナミクスを計算に変換することはできないでしょうか?このような発想にアプローチするものがLiquid state machineやEcho state networkと呼ばれる 計算手法で、今日ではリザバー計算と総称されます。流体を揺らし(入力を与え)、そのダイナミクスを観測(出力を得る)したときの、入出力変換に機械学習の手を加えることで、流体に限らない、ロボットの身体・光・量子・スピントロニクス・生態系・化学反応・培養細胞などの多種多様なダイナミクスを計算に活用することができます。そして、機械学習の手を借りずとも、乱数を生成するサイコロや、運動を生成する動物の身体、そもそものコンピュータ、そして脳、計算の実体は遍く物理ダイナミクスであるということにも気付くことができます。このような物理ダイナミクスによる情報処理とその周辺が私の研究テーマです。

 これまでに、カオスといった複雑なダイナミクスによる乱数生成、脳のような計算機の考案、ロボットの複雑ダイナミクスの解析と予測といった具体的な研究テーマに着手してきました。関係する研究・学問領域は非常に広範で、例えばダイナミクスを記述するための数学や、その特徴を解析するための物理学、情報処理の理論を取り扱うための情報工学、デバイスを理解するためのロボット工学、材料工学、そして生物学までもを含みます。実際にこれらの研究は、数学系・物理系・情報系などの複数分野の研究者や、デバイスやロボットの実機を取り扱う研究機関や企業の共同研究者と協力することで推進できています

 乱数は現代において欠かせないもので、セキュリティ用途や公平性の担保、様々な数値計算アルゴリズムなどに使われています。乱数を生成する方法、つまり乱数生成には様々な方法がありますが、コンピュータにより生成した乱数は疑似乱数と呼ばれ、予測不可能性や再現不可能性といった乱数として理想的な性質を厳密には持ち合わせていません。そのため、物理デバイスによる乱数生成、物理乱数生成というものが提案されています。しかし、これら物理乱数は乱数として理想的な性質を有しているかの理論的な検証が困難で、ある種の統計検定によりその乱数性を評価するといったことに制限されています。我々の研究では、力学系において古くから研究されているアノソフ系(Anosov system)に着目しています。アノソフ系はエルゴード性や位相混合性といった数学的に強い性質を示すことのできるカオス力学系のクラスで、対応する物理系の存在としてトリプルリンケージ(Triple linkage)と呼ばれる平面リンク機構が発見されています。このトリプルリンケージを乱数生成器として使うことで、物理系でありながらその乱数性を数学的に厳密に証明することが可能になります。これらの研究は、乱数生成の理論的な理解の前進や、より信頼性の高い物理乱数生成器の開発に貢献することを期待されます。

関連成果

2. 歩行力学系のフラクタル性解析

 二足歩行のような環境と相互作用を行う動作生成は、一般に精密な制御が必要なものと考えられています。しかし、受動歩行機(Passive dynamic walker)と呼ばれる二脚ロボットは、坂道に接地するだけで、驚くべきことに全く制御を必要とせずに滑らかな二足歩行を達成します。これには身体性(Embobiment)と呼ばれるロボット工学に端を発する概念が関わっています。身体性とは、ロボットを制御するときに、制御器単体ではなく、制御器-身体-環境の相互作用系全体を考慮する必要があるという概念です。すなわち、受動歩行機は、身体と環境を適切に設計することで、二足歩行に必要な制御を全て制御器から身体と環境に外注することができるということを示しています。身体性を説明する上でのある種ミニマルセットともいえる受動歩行機ですが、その身体-環境の相互作用ダイナミクスは非線形力学の観点で非常に豊潤な構造を有していることが明らかにされています。例えば、ロボットの身体を固定していたとしても坂の傾きを変えるだけで、ありとあらゆる周期の周期歩容やカオスといった予測困難で複雑な歩容が現れます。そして、ある坂の傾きにおいては、初期姿勢をほんのわずかに変えるだけで、その後歩き続けられるか転倒してしまうかといった最終状態切り替わってしまう、フラクタル(自己相似)構造が現れます。つまりこの状況下ではどれだけ精密に初期姿勢を制御してもその後の状態が予測できず、二足歩行があたかもサイコロ投げやコイントスのように振舞っているといえます。このような歩行の力学系的性質を数値解析と理論解析の両面から解析しています。

関連成果

3. スピントロニクスデバイスのダイナミクス解析と脳型計算

 機械学習分野の発展によって、コンピュータに対する計算要求は年々高まっています。つまり、ソフトウェアである機械学習の劇的で急速な発展に対応するように、対になるハードウェアである計算機デバイスの抜本的な発展が求められています。近年では画像・音声といった認知的な処理やゲームなどの様々な分野で人工知能は人間を凌ぐパフォーマンスを発揮していますが、その時間・エネルギー的な効率を考えると人間の方がはるかに優れていると捉えることもできます。そのため、脳の神経回路網を真似た計算機として脳型計算機(Neuromorphic computing)が次世代のコンピュータとして研究・開発が進められています。スピントロニクスデバイスと呼ばれる電子のスピンのダイナミクスを利用した電磁気デバイスは、高速・小型・高エネルギー効率といった利点から、この脳型計算機の有力な候補として注目されています。中でもスピントルク発振器(Spin-torque oscillator)と呼ばれる種類のスピントロニクスデバイスは高周波数の発振やスイッチング、そしてカオスといった非常に複雑なダイナミクスを呈すことがわかっています。スピントルク発振器のダイナミクスは物理リザバー計算(Physical reservoir computing)と呼ばれる手法により機械学習の計算資源として活用できることが示されています。我々の研究は、スピントルク発振器のダイナミクスを数値シミュレーションと非線形力学の理論により解析することで、脳型計算機における情報処理能力との関係やより効果的な利用方法を探索するものです。

関連成果

4. 空気圧人工筋肉に対する非接触センシング

 現代的には、ロボットといえば固いもの、というのが一般的です。しかし、柔軟性・安全性・環境への適応性といった観点を考えると柔らかい方が適していることが考えられます。このような柔らかいロボットを考える研究分野はソフトロボティクスと呼ばれ、ロボット工学の中でも比較的新しい研究分野です。このような柔らかいロボットに搭載する駆動部材(アクチュエータ)としての代表例にMcKibben型空気圧人工筋肉(Pneumatic artificial muscle)と呼ばれる部材があります。McKibben型空気圧人工筋肉はブリヂストンによ発明されたゴムと網紐からなるチューブ状の部材で、チューブ内に空気を印可することで、伸縮や曲げの動作を実現し、柔軟性・高出力・製造コストに優れるといった利点を備えています。一方で柔らかいロボットにはその柔らかさゆえの難しさがあります。例えば、柔らかさを実現する非線形で高次元の身体は、その動きを予測しづらく、従来の固いロボットに対する制御方法はほとんど使えません。空気圧人工筋肉も例外ではなく、その動作予測は困難でレーザーセンサーを搭載することで動きをセンシングするというのが主流です。しかし、このようなレーザーセンサーは固い部材であり、空気圧人工筋肉の利点である柔らかさを損なってしまいます。我々の研究ではリザバー計算(reservoir computing)と呼ばれるニューラルネットワークの学習手法により他のセンサー値を組み合わせることで、このレーザーセンサーを高精度でエミュレートする非接触センシング手法を提案しています。

関連成果