研究者としての歩み
牛小屋からスピングラスへ、そして量子アニーリングへ
牛小屋からスピングラスへ、そして量子アニーリングへ
本ページでは、私の子供のころから現在に至るまでの歩みを振り返ります。高知での幼少期から、スピングラスの厳密解の発見、そして量子アニーリングから現在に至るまでの過程を、多くの試行錯誤も含めて記録しています。
本ページは、YouTube「ヨビノリ」での対談の内容に大幅な加筆訂正をして、構成したものです。対談の企画、実施、編集、公開を行ってくださったヨビノリたくみさん、ヨビノリやすさんに深く感謝いたします。
第1章 序章 ― 研究者としての半世紀
私は高知市の出身で、高校までを市内で過ごしました。幼少期は郊外の農家の牛小屋の二階に住んでおり、それが最初の記憶です。その後、両親が建てた家に移りました。周囲は田んぼに囲まれ、自然の中で遊ぶ日々でした。特別に科学を志したわけではありませんが、算数や数学への関心は早くから芽生えていたように思います。父が工業高校で電気を教えていたこともあり、技術的なことへの抵抗感はありませんでした。
中学・高校を通じて数学への興味が強まりました。定義から論理を積み上げていくその構造に美しさを感じていました。一方で当時の物理は、法則を与えられて使うものという印象が強く、数学ほどの魅力は感じていませんでした。
その後、東京大学に進学しました。入学当初は周囲の雰囲気に多少の違和感を覚えましたが、勉強を続けるうちに物理の見方が変わりました。大学の物理は少数の原理から多くを導く体系的な学問であり、むしろ高校の数学に近いと感じるようになりました。この理解の変化により物理への関心が高まり、逆に数学は抽象的になりすぎて自分の興味から離れていきました。
3年次には統計力学や量子力学などを学びましたが、特に統計力学に強く惹かれました。鈴木増雄先生の講義の影響を大きく受け、4年次に彼の研究室に入って初めて研究に取り組みました。当初与えられた問題は容易ではなく、試行錯誤の末に問題設定を変えることで突破口が開けました。この経験はその後の研究姿勢に大きな影響を与えました。
大学院では、世界的に盛んになっていたスピングラス研究に関心を持ち、双対性の考え方を応用することで厳密解に到達しました。この結果は、難問の解としてはあまりに単純に見えたため当初はなかなか受け入れられませんでしたが、後に幅広い分野で重要な意味を持つことが明らかになりました。
博士課程修了後は、カーネギー・メロン大学やラトガース大学でポスドクとして研究を行い、その後東京工業大学に着任しました。助手から助教授、教授へと進み、長年にわたり教育と研究に携わるとともに、理学系長・理学部長や評議員などの役職も務めました。その間、スピングラスに加えて、量子スピン系の大規模数値計算や量子アニーリングなどの研究を学生たちとともに進めてきました。
2020年3月に定年退職した後も、東京科学大学で特任教授として研究を続けています。大学院時代から数えると、半世紀近くにわたり統計物理の研究に関わってきたことになります。振り返ると、第2章以下で述べる多くの経験が積み重なって現在につながっていると感じています。
2歳の誕生日に
第2章 牛小屋の2階から始まる記憶 — 田んぼと洪水の記憶、そして数への親しみ
小学校1年生のころまでは、高知市郊外の農家の牛小屋の2階に住んでいたことを覚えています。比較的広い農家で、母屋から庭を隔てて数頭の牛を飼っている建物があって、その2階に間借りしていました。牛と言っても、乳牛ではなく、田畑を耕したりするための労働力としての牛です。昭和30年代前半は高度成長期の前で、トラクターはほとんど普及していませんでした。
小学校2年に上がるころ、その農家からあまり遠くないところに両親が家を建て、引っ越しました。そのあたりは、今はすっかり住宅街になっていますが、当時は、家の周りはほぼ一面の田んぼでした。秋の借り入れから春の田植えまでの間は、田んぼは切り株だけが残る広場のようになっていて、弟や近所の子と、切り株を引き抜いては投げ合ったりして遊んだりしていました。用水路にはメダカやフナがいて、夏の夕暮れ時には、用水路付近の草むらのあたりには無数の蛍が飛び交っていました。
高知は台風の多い地域で、夏になるとたびたび強い風雨に見舞われます。しかし当時は河川の整備も十分ではなく、台風が来ると川が氾濫することがありました。実際、私の家も何度か洪水にあっています。ある時には、二階のすぐ下まで水が押し寄せ、家の周囲は一面の濁流になりました。二階から外を眺めると、普段見慣れた景色はすっかり姿を消し、まるで巨大な川か湖のように泥水が流れていました。その光景を、呆然と見ていたことをよく覚えています。
子供の頃に何か特別なきっかけがあって科学の道を志した、というわけではありません。ただ、算数や数学に対する関心は比較的早い段階から自然に芽生えていました。
洪水でも流されずに残っていたアルバムの中に、二歳の誕生日の頃の写真があり、その横に「九九の二の段が言えるようになりました。」と書かれています。自分で記憶しているわけではありませんが、少なくとも数字に対する親しみのようなものは早くからあったのかもしれません。
家庭環境も多少は影響していたのかもしれません。父は工業高校で電気を教えていて、自宅の電気配線なども自分でやっていました。屋根裏に上がって配線作業をしている姿を見て、それが特別なことだとは思わず、どこの家庭でも同じようにしているものだと思っていました。しかし後になって、それが決して一般的ではないと知り、少なからず驚いた記憶があります。
そうした経験が、無意識のうちに何らかの影響を与えていたのかもしれません。実際には、当時の私にとっては、理科よりも、むしろ算数・数学の方に魅力を感じていました。
第3章 中学、高校時代と数学への傾斜 — 独学と論理の世界
小学校の頃から算数は好きでしたし、中学校に入ると数学がさらに面白いと感じるようになりました。また、中学時代には英語にも興味を持つようになりました。中学の先生の指導が優れていたのでしょう。当時はテープレコーダーが使われていて、ネイティブの発音が録音されたテープを希望者に貸してくれました。それを自宅に持ち帰って何度も聞いているうちに、英語を日本語に訳してから話すのではなく、英語のまま自然に口に出す感覚が身についていきました。英語や、もっと広く言えば異文化に対する心理的なハードルが下がったという意味では、後の研究生活にも少なからず影響しているかもしれません。
英語の教科書の一節を今でも覚えています。「Work hard and love God, and you will be a great man.」今考えてみると、古きよきアメリカ人の精神的基盤を端的に表しています。
いずれにせよ、このころは理科に特別強い関心があったわけではありません。嫌いではありませんでしたが、強く惹かれるというほどでもありませんでした。
高校に入ると、物理の内容は中学までよりも体系的になり、より整理された形で学ぶようになります。しかし当時の私には、物理はやはりどこか「上から与えられるもの」という感じを持っていました。たとえばニュートンの法則やオームの法則といったさまざまな法則や公式が天下り的に与えられて、それらを覚えて問題に適用していく。もちろんそれによって自然現象を説明できるのですが、当時は「いろいろな公式や法則を覚えて使うもの」という受け取り方が強かったように記憶しています。
それに比べると、数学はより論理的で、一貫した美しさを感じました。基本となる定義さえ理解していれば、あとはすべて、それをもとに論理を積み上げていくことで全体像が構築できる。例えば、三角関数の定義などをしっかり押さえていれば、公式を忘れてしまってもすべて自分で導ける。その点で、数学の方が「美しくて面白い」と感じており、自然とそちらにのめり込んでいきました。
高校時代は、勉強だけに偏った生活をしていました。部活もせず、塾や予備校に通うこともなく、参考書や問題集を自分で選んで購入し、自宅で問題を片端から解いていくという生活をしていました。授業は真面目に聞いていましたが、現実にはほぼ独学で、自分の中で完結する世界で過ごしていました。
通っていた高校は、主に自宅から近いという理由で選びました。当時は学生運動などが盛んな時期で、その影響を受けて、多少なりとも反抗的な気分に染まっていた私は、いわゆる「トップ校」、特に私立高校に進学するのには抵抗感を抱いていました。高知県は、地方にはやや珍しく、公立高校より一部の私立高校の方が進学実績が高かったのです。実際に通った高校は、県内ではそれなりのレベルではありましたが、大都市の有名進学校のように難関大学の受験を意識した生徒たちが集まっているという場所ではありませんでした。しかし、比較的穏やかな雰囲気の学校で、かなり変わった生徒だった私も、それなりに級友や先生に恵まれ、それほど違和感なく過ごすことができたのは大変幸いでした。
第4章 東京大学へ — 期待と現実のギャップ
そのような高校生活を過ごした後、東京大学に入学しました。若いころは自分のことだけで頭がいっぱいで考えが及びませんでしたが、大学進学率が全国平均で30%足らずの当時、高知から東京に出してくれた両親には感謝しかありません。
入学してしばらくすると、少し意外な感じを抱きました。東京大学というと、学問への強い情熱や突出した能力を持った人ばかりが集まっているのではないかと想像していたのですが、周囲を見渡してみると、必ずしもそうではないという印象を受けました。
もちろん基本的な学力は高いのですが、普段はサークルなど勉強以外に力を注ぎ、試験の前になるとさっと切り替えて過去問をよく研究し、うまく乗り切っているように見えました。特に印象に残っているのは、入学して間もない頃に、自分たちが受けた今年の入試問題の「傾向と対策」について話している人がいたことです。私はそのような考え方で勉強してきたことがなかったので、正直なところ「傾向と対策」とは何なのかよく分かりませんでした。私はただ、手に入る問題集を片端から解いていただけで、受験に向けた特定の戦略や対策を意識したことはほとんどありませんでした。
授業では、印象に残っている場面があります。1年生の物理の最初の授業で、担当の先生が「こんなところに来ていないで、自分で勉強しなさい。」と言ったのです。当時の私にはその意図がすぐには理解できませんでした。
後になって考えてみると、「勉強は本来自分でするものだ。」ということを伝えたかったのでしょう。しかし、正直なところ、その先生は、熱意のある授業で学生の意欲をかき立てるというというタイプではありませんでした。総じて、学生の反応や理解の度合いは気にせずに、自分のペースで一方的に話している先生が多かったように思います。
第5章 数学から物理へ — 興味の転換
そうして自分で学んでいくうちに、高校までに抱いていた物理への見方が大きく変わっていきました。高校の物理は、天下り的に与えられた法則や公式を覚えて適用するものと思いがちでしたが、大学の物理はもっと体系的で論理的な学問であることが次第に分かってきました。ごく少数の出発点からほとんどすべてが導けるという意味で、むしろ、高校数学の延長線上にあるのが大学の物理ではないか、という感覚を持つようになり、物理に対して強い興味を感じるようになりました。
一方で、大学の数学には少し違う感じを受けました。高校までの数学とは異なり、定理の証明を重ねていく抽象的な論理の世界へと変わっていました。私自身は定理や証明より計算に面白さを感じるタイプだったので、そのような方向性には距離を置くようになりました。
周囲には非常に優れた数学の才能を持つ学生も何人かいて、彼らのことは強く心に残っています。一度、その一人の下宿を訪ねたことがあります。夜遅くまで話をした後、私はそのまま寝てしまったのですが、彼はその後もずっと数学の勉強を続けていました。翌朝、よくあんなに続けられるねと聞いたら、「やめる理由がない。」と言っていました。まるで遊びのように、楽しみながら数学に接している様子が印象的でした。子供がゲームに夢中になるのと同じような感覚で、数学に向き合っていました。
そうした経験も通じて、自分が進むべき道は数学ではなく物理だと、自然に思うようになりました。
第6章 統計力学との出会い — 熱意ある講義
当時、物理の中でも素粒子や宇宙の研究は「最先端」というイメージが強く、私自身もどこかで憧れのような気持ちを持っていました。その一方で、授業を受けていく中で、統計力学に対する興味が徐々に強くなっていきました。特に記憶に残っているのは、鈴木増雄先生の講義です。とにかく、統計力学を楽しんでいることがひしひしと伝わるような話し方をされる方で、その様子から、統計力学そのものが非常に面白い学問なのではないかと感じるようになりました。
鈴木先生の授業で、あるとき、平均場近似を説明した後、それを拡張したベーテ近似の話をして、「ベーテ近似などは誰でも思いつきますね。」とおっしゃり、これはすごい人だと思ったことをよく覚えています。授業だけで内容を完全に理解できていたわけではありませんが、「面白そうだから自分もこの学問をやってみたい。」と思わせる力がありました。
内容の分かりやすさというよりも、むしろ「この分野は面白い、自分も心から楽しんでいる。」という熱意を伝えてくれることが、学生にとっては大きな意味を持つのでしょう。その点で、鈴木先生の講義は非常に特徴的でした。
一方で、量子力学の授業も深く記憶に刻まれています。担当されていたのは、後に東大総長や文部大臣を務められた有馬朗人先生でした。当時、新進気鋭の助教授だった有馬先生の授業は、話し方も論理も非常に明快で、きちんとノートを取ってそれを復習するだけで内容がほとんどすべて理解できる、いわゆる非常に「授業のうまい」講義でした。量子力学という学問自体も、不思議さと美しさを兼ね備えた体系として強く惹かれるものがありました。
ただ、あるとき、有馬先生が「自分は大した研究はしていない。」といった趣旨のことをぼそっと口にされたことがありました。当時の私はそれをそのまま受け取ってしまい、「この人は、研究者としては大したことがないのか。」と捉えてしまいました。今から思えば、明らかに謙遜だったのですが、当時はそのような背景を理解することができませんでした。何も知らない若い学生の前で必要以上に謙遜するのは、考えものかもしれません。
結果として、量子力学という学問自体には強い魅力を感じながらも、研究の方向としては選びませんでした。それに対して統計力学は、量子力学のように整然とした美しい体系というよりも、むしろ少し雑然とした印象がありましたが、その中に独特の面白さがあるように感じていました。また、一般相対性理論も自分で勉強して、その見事な論理体系に圧倒されました。あまりに完璧に見えたので、「この分野で、自分が付け加えられることは何もない。」と思い、研究対象からは外しました。
こうして統計力学への関心が固まり、四年生のときに鈴木増雄先生の研究室に所属することになりました。当時の東京大学の物理学科では卒業研究というものはなく、四年生になると半年ごとに異なる研究室に所属し、研究入門的な活動を経験する制度になっていました。少なくとも半年は実験の研究室で過ごすことになっていて、私は前半に統計力学の理論研究室、後半に原子核の実験研究室に所属しました。
実験の研究室では実際に手を動かす経験もしましたが、やはり自分には理論の方が向いていると改めて感じました。統計力学の研究室で計算に没頭している方が、はるかに心地よかったのです。
鈴木増雄先生と
第7章 初めての研究と双対性 — 手探りでの出発
当時、統計力学の研究室は鈴木先生のところだけではなく、久保亮五先生や和田靖先生の研究室とコロキウムと称する合同セミナーを行っていて、メンバーの数も大変多く、非常に活気のある環境でした。各学年に5,6人の学生がいて、多くがそのまま大学院の修士課程から博士課程に進学していくという流れができていました。
そうした雰囲気の中で、自分もこの分野でずっとやっていこうという気持ちが、自然に出来ていきました。
研究室の雰囲気はかなりフラットで、学生同士が自由に議論し、コロキウムでも遠慮なく質問が飛び交っていました。先生方ももちろん発言されますが、学生も積極的に議論に参加していて、今振り返ってみても稀有な恵まれた環境でした。
もっとも、久保亮五先生はときどき率直に厳しいことをおっしゃることもありました。私が初めて国際会議で発表することになったとき、英語での発表練習をしたのですが、その際に「英語がもっと上手ければ、言っていることが分かるのに。」と言われたことがあります。その言葉は今でもよく覚えています。英語というのは、やはり出たとこ勝負ではだめで、十分訓練しなければ身につかないものだと、そのとき改めて感じました。
久保先生に関しては、もう一つ思い出があります。コロキウムの最中に居眠りをされることがあり、当初は驚きましたが、次第にそれが日常的な光景であることに気づきました。そして発表の終盤になると目を覚まし、「寝てしまったので、さっきのところをもう一度説明して。」とおっしゃることがありました。学生としては戸惑う場面でしたが、それもまたこの研究室の雰囲気の一部でした。
鈴木先生の研究室で、初めて研究らしきものに取り組みました。所属する学生が呼ばれて、テーマの候補がいくつか提示され、その中から一つを選ぶ形でした。私はその中の一つに取り組むことになりましたが、今思い返すと、それは簡単に解けるような問題ではありませんでした。
研究というものは、すぐに答えが出るものではないということを、このとき初めて実感しました。最初に与えられたキーワードの一つが「双対性」でしたが、その概念についての先生からの説明はなく、自分で調べ、考えるしかありませんでした。分からないことがあれば自分で調べるものだと思っていたので、そのまま手探りで取り組み始めました。
与えられた課題は、ハイゼンベルク模型の一種における双対性を定式化して、その性質を調べよというものでした。しかし、どう取り組めばよいのか全く分からず、まず、双対性の概念を一通り理解したあとは、長い間考え続けることになります。当時は若さもあって集中力があり、朝から晩まで、電車の中でも食事のときでも、その問題のことを考え続けていました。それでも突破口は見えませんでした。
何か月も試行錯誤を続けた末に、問題設定を少し変えることで道が開けるのではないかと気づきました。具体的には、ハイゼンベルク模型ではなく、より扱いやすい模型に置き換えることで、双対性に関連する構造が見えてきたのです。現在でいう Zq 模型という、より単純化された系を取り扱うことで、問題の本質に近づくことが出来ました。
それまで何も進展がなかった状態から、ようやく手がかりが見え始めた瞬間でした。当初与えられた問題は、今考えると解けない問題でしたが、最初から双対性についての完全な知識を持っていたら、「これは解けない問題です。」と鈴木先生に報告して、終わりになっていたはずです。何も知らないところから始めて、手探りで解決の道を探っていったことにより、別の視点に到達することが出来ました。
第8章 初めての成果と研究スタイルの形成 — 視点を変えるという方法
この経験は、その後の研究の方向性に大きな影響を与えました。与えられた問題をそのまま解こうとするのではなく、別の視点から取り組むことで本質に迫るというアプローチは、その後もよく採用しました。この経験を、いわば微分方程式の初期条件として、その後の研究の流れが決まったと言ってもよいかもしれません。
このときに得られた結果の中には、自分でも驚くような性質が含まれていました。例えば、一次元で比熱を計算したところ、通常は温度の関数として一つのピークを持つはずの比熱が、二つのピークを持つという結果が現れました。温度を絶対零度から上げていくと比熱が一度増加してから減少し、さらにもう一度増加してから再び減少するという、かなり変わった振る舞いです。
このような結果は当時の私にとって非常に印象的で、「何か面白いことが起きている」という実感を初めて持つことができた経験でした。後になってみると、そのモデル自体は以前から知られていたものでしたが、そのときは自力で見つけたので、研究の面白さを実感するきっかけになりました。
すでになされている研究を徹底的に調べ、それを土台にして何を付け加えられるかを考えるというよりも、問題の本質をざっと理解したら、自分の中でその問題に向き合い、独自に考え続けるというスタイルで研究を遂行した最初の経験でした。
第9章 双対性とスピングラスの出会い — 西森ラインの誕生
大学院に入った頃は1970年代後半で、スピングラスの研究が非常に盛り上がっていた時期でした。シェリントン・カークパトリック模型の出現をきっかけに、スピングラスが持つ奇妙な性質をめぐって世界中で爆発的に研究が活性化していて、日本でも多くの研究者がこの問題に取り組んでいました。
スピングラスとは、磁性体の中のスピンの向きがランダムに固まった状態のことです。通常の結晶のように規則正しく並ぶのではなく、場所ごとに、つまり空間的にはランダムでありながら、時間的にはその状態が固定されているという、不思議な状態を指します。このような現象が理論的にも実験的にも注目され始めたのが1970年代半ばごろで、まさに私が大学院に進学した頃からしばらくの間がその研究のピークでした。
私はそれまで、双対性に関する問題を扱っていましたが、このスピングラスの問題と組み合わせるとどうなるのだろうかと思いつきました。双対性の枠組みをスピングラスに適用するという発想は、それまで誰も手を付けていませんでした。双対性とスピングラスという、一見異なるテーマを組み合わせることで、新しい見方が得られるのではないかと考えたのです。
この試みは結果的にうまくいきました。双対性の考え方を用いることで、スピングラスにおけるフラストレーションの本質が見えてくるようになりました。フラストレーションという概念自体は、当時すでにきちんと定義されてよく知られていましたが、その性質を体系的に理解する研究はまだ十分に進んでいませんでした。
その中で、双対性をうまく使うことで、ある条件のもとではスピングラスの問題が厳密に解けることが分かりました。これまでに自力で開発してきた方法論と、外から入ってきた新しい問題意識とがうまく結びついた結果と言えるかもしれません。
第10章 信じられないほど単純な厳密解 — 常識との闘い
この結果を得たのは、博士課程に入って比較的早い時期、確か一年目の夏頃だったはずです。当時の研究は、ほとんど紙と鉛筆だけで進めていました。膨大な計算を行っていて、ノートやレポート用紙を大量に買う余裕もなかったため、安価な紙をまとめて購入し、細かい字でびっしりと書き込んでいました。一枚の紙の表と裏を使い切るまで計算を書き続け、それが終わるとまた次の紙に移る、ということを繰り返していました。
少し専門的な言葉で言うと、スピングラスで相互作用の符号の分布が違っていても、フラストレーションの分布が同じなら、分配関数は同じになるという事実を、双対性を適用することで発見したのです。今では、これもその後自力で発見したゲージ変換という手法で簡単に導けるのですが、当時は、手探りで双対性をいろいろな例に適用しながら、たどり着きました。これがきっかけとなって、計算が飛躍的に進むようになりました。
膨大な計算の末に得られた結果は、自分でもすぐには信じられないものでした。スピングラスの問題は非常に難しく、単純化された平均場理論でさえ厳密に解くことが大きな課題とされていました。実際、シェリントンとカークパトリックによる平均場理論の最初の解は完全な意味での厳密解ではなく、その後にパリジが提示した奇妙な方法によって、ようやく正しい解が得られることになります。
平均場理論という比較的単純化された問題でさえ厳密に解くことが難しい中で、私が到達した厳密解は、平均場理論を超える適用範囲を持っていました。その解が成立する条件は限定されていましたが、それでも厳密解が得られるという事実は、大きな驚きでした。
特に衝撃的なのは、得られた解の形です。エネルギーEが温度の逆数1/Tのハイパーボリックタンジェントという非常に単純な関数、E=-N_B tanh(J/T)と表されるという結果なのです。複雑な問題の答えとしては、一見、あまりにも簡単すぎて信じがたい式です。
その公式は相転移点を含む範囲に適用できるものでした。通常、エネルギーのような量は相転移点で特異な振る舞いを示すはずですが、導かれた厳密解にはそのような特異性が現れていませんでした。つまり、素直に考えると「そんなはずはない、間違っている。」としか思えないようなものだったのです。
そのため、何度も計算をやり直して検証を続けました。しかし、どれだけ確認しても同じ結果が出てきます。困り切って、それまで経験のなかったコンピュータのプログラミングとモンテカルロ・シミュレーションの基礎を一生懸命勉強して、数値シミュレーションも行ってみましたが、統計誤差の範囲内で正しさが検証される結果になりました。
それで最終的には、この結果を受け入れるしかありませんでした。この経験は、「結果の単純さと問題の難しさは必ずしも一致しない」ということを実感した重要な出来事でした。
第11章 否定、リジェクト、そして承認 — 拒絶から評価へ
こうしてある程度の確信を得た後、物理学会でこの結果を話す機会がありました。もともとは別のテーマで発表する予定でしたが、最後の短い時間を使って、「スピングラスの厳密解が得られました。」と話しました。詳細を説明する時間はなく、結果だけを示した形でした。
すると、発表後すぐに座長の先生が立ち上がり、「あなたの結果は、これまで知られているすべての知識と矛盾していますね。」と宣言されました。要するに、「明らかに間違っている結果を発表するな。」という意味です。その先生の顔と名前は、今でも覚えています。相転移があるのに、その重要な特徴である特異性がないというのは、確かにそれまでの常識とは全く相いれません。その場ではうまく回答することができず、しどろもどろになって冷や汗をかきました。
物理学会の後になって、初めて研究室のコロキウムでもこの詳しく説明しました。それまでは、やはりどこかで「間違っているかもしれない。」という思いがあったので、物理学会以外では誰にも話していませんでした。興奮よりも、むしろ疑念の方が強かったというのが正直なところです。もしこれが間違いだったら、自分の信用はがた落ちになるのではないかという不安もありました。
研究室の反応は、あまり強いとは言えませんでした。計算の詳細を示したので、間違っていないらしいことは納得してもらったはずですが、相転移の存在と特異性の欠如という完全に矛盾しているように見える現象が誰にも理解できず、また、結果の式があまりにも単純なので、どう評価していいのか分からず、「それで?」という雰囲気だったように記憶しています。
しかし、鈴木増雄先生だけは「厳密解は、必ず役に立つから。」と励ましてくださいました。前向きの言葉を口に出して伝えてくれたのは、当時は鈴木先生だけで、勇気づけられたことをはっきり覚えています。
実際、その後、この厳密解とそれを導出する手法は、スピングラス自体の研究はもとより、量子コンピュータの誤り訂正理論や、AIにも関連する統計的推定の理論、量子コンピュータ実機による猫状態の実現など、現代的な課題にも広く応用されるに至っています。「厳密解は必ず役に立つ。」という、鈴木先生の予言が当たった形です。
このころ、別の意味で冷や汗をかく経験をしました。アメリカのコーネル大学やスタンフォード大学の教授たちが、スピングラスにおける双対性とフラストレーションの役割という私と同じ問題意識をもって研究を進め、すでに論文を発表していることに気が付いたのです。彼らは、厳密解の一歩手前まで達していたのですが、彼らの専門分野である素粒子の格子ゲージ理論の枠組みにとらわれすぎていて、統計力学の観点から興味深いエネルギーの厳密解を導くという発想に至っていませんでした。
彼らの論文を見つけたときには、「やられた」と血の気が引きましたが、全体を読んでみると私の方がはるかに先に行っていたので、胸をなでおろしました。もし、私がスピングラスの研究に手を付けた最初に、既存の関連論文を調べ上げて、彼らの論文に行き当たっていたら、彼らを超える発想が出来ず、エネルギーの厳密解には至らなかったかもしれません。ここでも、「傾向と対策」から外れたスタイルで過ごしてきたのが、よかったのかもしれません。
その後、苦労して何とか論文としてまとめて投稿しましたが、投稿した学術誌にリジェクトされてしまいました。今でもそのときのレフェリーレポートをよく覚えています。「The model is artificial and the result is thin to warrant publication.(人為的なモデルで、結果もつまらないから出版不可)」という、1行だけのコメントを記載した2cm×15cmくらいの紙が航空便で届きました。ネットなどはない時代です。
この「The model is artificial.」という指摘は、温度と、ランダム性を表す確率を特定の関係で結びつけた問題設定に対するものでした。温度と確率は無関係な物理量なので、それらを結びつけるという発想は受け入れ難かったのでしょう。この結びつきは、今では「西森ライン」という名前ですっかり定着しているのですが、当時の常識とは相いれませんでした。また、「The result is thin.」というのは、得られた解があまりにも単純であることに対する評価で、相転移があるのに特異性がないという、これまた当時の常識とは全く相いれない話なので、レフェリーには受け入れ難かったのはやむを得ないとも言えます。実は、今でも、この奇妙な性質の深い理解は、私も含めておそらく誰にも出来ていません。
確かに、その時点での原稿には、結果の意義を十分に説明しきれていなかった面もありました。その後粘り強く論文を書き直し、レフェリーへの回答を重ねることで、最終的にはようやく掲載に至りました。
ケルン大学の研究者から贈られた「西森の猫」
第13章 不採用の連続だった冬 — キャリア最大の危機
当時は、博士号を取得しても日本の大学にそのまま残れるポジションはほとんどなく、多くの人がアメリカやヨーロッパに渡ってポスドクとして研究を続けていました。そうした流れの中で、私も比較的自然な気持ちでアメリカへ行くことになりました。
最初に行ったのは、カーネギーメロン大学(CMU)で、統計力学の数学的な側面の研究で有名なロバート・グリフィス教授のもとで過ごすことになりました。契約は1年間のみだったので、到着してすぐに次のポジションを探し始める必要がありました。アメリカでは、翌年のポストは前年の秋に募集が始まります。着いて間もなくそのことに気づき、雑誌や掲示板に掲載されていた募集情報をもとに応募書類を書き始めました。
かなりの数の応募を出しましたが、結果はなかなか厳しいものでした。秋から冬にかけて何十通も応募しましたが、すべて不採用でした。さすがにこの時期は精神的にも厳しく、「失業するかもしれない。」という現実的な不安を抱きました。寒い時にはマイナス20度にもなるピッツバーグの冬の中で、このまま行き倒れになるのではないかとの思いを抱きながら大学に通っていました。当時はすでに結婚しており、二人で渡米していましたから、その意味での責任もあり、人生で初めて本当の危機を感じた時期でした。あれほどのプレッシャーを感じたことは、他にはありません。
最終的には、ラトガース大学でポジションを得ることができました。これは、ある研究会での短い発表がきっかけでした。その研究会はかなり数学的な色彩の強く、各講演者は黒板だけを使って5分間で発表するという形式でした。
私の場合は、問題設定と結果だけを簡潔に述べる形で発表しました。スピングラスの問題とその難しさは多くの研究者に知られていましたので、それに対して明確な解を提示すると、強い反応がありました。その場で何人かの研究者が、「うちに来ないか。」と声をかけてくれたのです。日本物理学会での経験との違いに、少々驚きました。この短い発表が、ラトガース大学での次のポジションにつながる決定的なきっかけになりました。
カーネギーメロン大学での研究では、それまでのテーマとは少し異なる問題にも取り組みました。特に、リー・ヤンの零点に関する問題という、より数学的な側面の強いテーマに取り組みました。これは流行を追うような派手なテーマではないのですが、相転移のメカニズムの基礎に関わる重要な問題で、最終的には論文としてまとめることができましたが、そこに至るまでにはかなり苦労しました。
論文の書き方について、貴重な経験をしました。ある程度成果がまとまった段階で原稿を書き、グリフィス教授に見せたところ、結局、ほとんどすべて書き直されてしまいました。それまでにも何本か論文を書いていたので、自分ではある程度書けているつもりでしたが、その中途半端な自信は完全に覆されました。
それまでは体系的な論文の書き方をきちんと学んでおらず、いわば自己流で書いていました。テーマの設定、前提の整理、論理の展開、結論の提示といった各段階を明確に意識して構成するという訓練が、できていませんでした。東大の大学院での教育は、この点に関しては放置でした。この経験は衝撃でしたが、同時に明晰な論文を書くというのは、研究自体と同じくらい重要なことなのだということを学ぶ良い機会にもなりました。
アメリカには合計で二年半滞在しました。ラトガース大学にいる間も、次のポジションを求めて日本、アメリカを問わず応募を続けていました。最終的には、東工大で助手に採用してもらうことになり、帰国することになりました。もしあの時期に、アメリカの大学で採用されていたら、その後長くアメリカで過ごしていたかもしれません。
CMU時代
第14章 量子スピン系、数値計算、そして TITPACK — 大規模計算への挑戦
帰国後に所属したのは、三宅哲先生の研究室でした。専門は超伝導などの物性理論で、私の統計力学とはやや分野が異なっていましたが、「自由に研究してよい。」という極めて寛大な環境を与えていただきました。
そうした中で、統計力学を専門とする隣の研究室の小口武彦先生ともよく交流するようになりました。昼食に誘っていただくことも多く、いろいろな話をする中で、当時注目されていた量子スピン系の問題について話を聞く機会がありました。量子力学的効果が重要になるスピン系は、現在でも重要なテーマですが、当時からすでに活発に研究されていました。
あるとき小口先生が、「量子スピン系の数値計算をやってみないか。」と話をされたことがありました。それまで私は本格的な数値計算の経験はほとんどなく、せいぜいモンテカルロ・シミュレーションを少し行った程度でしたが、話を聞いているうちに面白そうだと直感し、思い切って取り組んでみることにしました。
今振り返ると、自分の所属する研究室のテーマとは異なる分野に勝手に踏み込んでいくという、無謀とも言える判断でしたが、研究室の自由な雰囲気に支えられて、それが可能になりました。このことについては、今でも三宅先生に深く感謝しています。
量子スピン系の研究手段として当時からあった方法のひとつが、ハミルトニアンを直接対角化する、いわゆる数値的対角化法でした。固有値や固有ベクトルを数値的に求めることで誤差をほとんど伴わずに系の性質を調べられる方法ですが、必要な記憶容量が非常に大きくなるため、扱える系のサイズは限られていました。
それでもこの方法には大きな魅力がありました。プログラムをきちんと書けば、コンピュータはその通りに動き、明確な答えが得られます。モンテカルロ法のように統計的な誤差を伴う方法とは異なり、「ピタッとした答え」が出る点が、私には非常に面白く思われました。もともと論理を積み上げていくことが好きだったこともあり、この分野に強く引き込まれていきました。
数値的対角化について書かれている本を熟読し、ランチョス法というアルゴリズムが適していることを知って、自分でそのプログラムを書き、大規模計算に取り組みました。当時、東京大学の大型計算機センターに国内で初めてスーパーコンピュータ、日立製のHITAC S810が導入され、それを利用できる環境がようやく整備されたところでした。最初にアメリカで開発されたスーパーコンピュータは、主に軍事計算用途の最先端装置で、アメリカでも大学には設置されていませんでした。東大にスパコンが導入されたというニュースはアメリカの大学関係者に衝撃を与え、「キャンパスにスパコンを。」というキャンペーンが、ノーベル物理学賞受賞者のケネス・ウィルソン教授の主導により始まったと聞いています。また、現在のようにネットワーク経由で気軽に使える時代ではなく、現地に出向いて、スパコンに隣接した部屋の端末からプログラムを打ち込み、結果は紙や磁気テープで受け取るという、今と比べると手間のかかる代物でした。
それでも、この計算機を活用することで、32メガバイトという当時としては非常に大規模なメモリを使って計算を行うことができました。具体的には、量子スピンの数を27個まで扱うことができ、これは当時の世界記録でした。慶應大にいた中西秀氏の協力を得て、問題の対称性を利用して行列サイズを大幅に縮約するなど、さまざまな工夫を重ねることで、限界まで計算規模を拡張することが出来たのです。
この研究によっていくつかの論文を書くことができ、当時としてはかなりの評価も得ることができました。しかし一方で、限界も感じるようになりました。私が本当に知りたかったのは、スピン数が無限大に近づいたとき、すなわち物理的に意味のある熱力学極限での振る舞いです。しかし、27個程度のスピンから無限大の極限を推測するのは、あまりにも隔たりが大きすぎました。
このギャップを意識したとき、対角化を中心とする数値計算だけでは決定的な理解には到達できないのではないかと思うようになり、この分野に一定の区切りをつけることにしました。
ただし、ここで得られた計算技術やプログラミング上の工夫を放置しておくのはもったいないと思いました。そこで、それまでに書いたプログラムを整理し、汎用的に使える形に書き直しました。「プログラム書法」という本を熟読して、誰が読んでもわかりやすいプログラムが、結局は一番効率の良い計算をするということを学び、入り組んだ論理を整理し、何をやっているか分かるように各所にコメントも加えて、他の研究者が使えるようなパッケージとして公開しました。
このプログラムは「TITPACK」と名付け、量子スピン系の数値計算を行うためのツールとして広く使われるようになりました。初版は当時、小口研究室の学生だった田口善弘氏と一緒に整備しましたが、第2版は独自に書き直しました。こうした形で、汎用性を持つプログラムに分かりやすいマニュアルを添付して配布するという発想は、当時はほとんど普及しておらず、現在で言うオープンソースの先駆け的な位置付けになるでしょうか。TITPACKを源流として、それを大きく発展させた各種のプログラムが、現在も様々な形で使われているようです。
こうして、帰国後しばらくの間は量子スピン系を中心とした大規模数値計算に没頭していました。しかしその一方で、数値計算の限界も意識するようになり、新しい方向を模索する時期が近づいてきました。
第15章 情報処理への統計力学的アプローチ — ホップフィールド模型との出会い
ちょうどその頃、1980年代半ば、ジョン・ホップフィールドによるニューラルネットワークのモデル、いわゆるホップフィールドモデルが大きな注目を集めていました。このモデルは連想記憶の仕組みを記述するもので、例えば不完全な画像から元の完全な画像を復元する問題などを、物理のセンスで扱っています。
特に重要だったのは、このモデルがスピングラスと深く関係していることです。ホップフィールドモデルは、スピングラスの視点から統計力学の手法で解析することが可能でした。このアイディアをさらに発展させたのが、イスラエルの研究者たちによる論文で、彼らは統計力学の方法を駆使してこのモデルを徹底的に解析しました。
この論文を読んだときの衝撃は大きく、「どうしてこんなことが思いつくのか。」と驚いたことを覚えています。スピングラスの理論が情報処理の問題に応用されるという事実は、それまでの自分の視野を大きく超えるものでした。
この流れは、現在でいう「情報統計力学」と呼ばれる分野の出発点でした。当時はまだそのような名称はありませんでしたが、統計力学の手法を用いて情報科学の問題を扱うという新しい研究領域が、まさにこの時期に形成され始めていたのです。
この論文から、新たな着想が生まれました。イスラエルの研究者たちの理論は、ホップフィールドモデルに古典的な温度、すなわち熱揺らぎを導入して統計力学の解析を行ったのもですが、「もし温度の代わりに量子揺らぎを導入したらどうなるだろうか。」と、ふと思いついたのです。
このアイディアは、これまで自分が取り組んできた二つの流れ、スピングラスと量子スピン系を結びつけるものでした。量子効果については、すでに量子スピン系の研究を通じて相当の知識と経験がありましたし、スピングラスやホップフィールドモデルについても理解していました。その二つを組み合わせることで、新しい方向性が見えるのではないかと考えたのです。
具体的には、ホップフィールドモデルに横磁場によって量子揺らぎを加えたモデルを考えました。この問題に対しては、当時ポスドクとして研究室にいた野々村禎彦さんとともに取り組みましたが、計算は極めて膨大なものになってしまいました。
古典的なホップフィールドモデルですら解析は容易ではありませんが、そこに量子効果を加えると、計算量はさらに大きくなります。紙と鉛筆で100ページ近い計算を積み重ね、すべての式を何度も確認しながら進めるという、非常に根気のいる作業でした。
こうして得られた結果は、非常に興味深いものでした。量子揺らぎと古典的な熱揺らぎが、ホップフィールドモデルに対してほとんど同等の効果を持つことが分かったのです。「温度による古典揺らぎ」と「量子による揺らぎ」が、ほぼ同じ役割を果たしていることが明らかになりました。この結果には大きな驚きましたし、「本当にそんなことがあるのか」と疑いもしました。計算の分量を考えると再検証も簡単ではありませんでしたが、それでも確認を重ね、最終的には論文としてまとめました。
この結果は、その後の研究に大きな影響を与えることになります。熱揺らぎの代わりに量子揺らぎを利用することで、系の探索や最適化を行うという発想へとつながっていきました。これが後に、量子アニーリングの考え方へと発展していくことになります。
第16章 量子アニーリングへ — 量子ゆらぎによる最適化が社会へ
この論文も、スピングラスの厳密解のときと同じように、すぐに高い評価を得ることはありませんでした。しかし、この結果から一つの重要な発想が生まれました。最適化問題を解く方法として、すでにシミュレーテッド・アニーリングが知られていました。これは、古典統計力学を応用して、計算機上で疑似的に設定された温度を徐々に下げることで系を安定状態、つまり最適化問題の解に導く方法です。
この古典アルゴリズムに対して、「温度の代わりに量子揺らぎを使えないか。」と考えたのです。もし量子揺らぎと古典的な熱揺らぎが同様の役割を果たすのであれば、温度を下げる代わりに量子効果を表す横磁場を弱めていくことで、同じように最適解へ到達できるのではないかという発想です。
この考えを実際に試してみると、予想以上にうまくいきました。大学院生だった門脇正史さんが計算を進めてくれたのですが、小規模な問題については、古典的なシミュレーテッド・アニーリングよりも量子揺らぎを使った方が、より高い確率で最適解に到達することが分かりました。量子の方が古典より、答えをうまく見つけられるというのです。これには驚きました。
なぜそのような違いが生じるのかについては、当時から現在に至るまで、完全には理解できていません。それでも、少なくとも数値的には明確な差が見えていました。この結果を論文としてまとめたのが、量子アニーリングの最初の論文です。
ところが、この論文もやはりすぐには評価されず、注目を浴びることがない期間が長く続きました。しかし、その後10年ほどで状況が大きく変わります。量子アニーリングの考え方に基づいた実際のデバイスが開発され、さまざまな応用が試みられるようになったのです。
カナダのD-Wave社 が量子アニーリングを実現する装置を作り、2011年にそれが市販されたのです。第1号機はロッキード・マーティン社が購入し、さらに、その数年後に、グーグルとNASAが共同で購入して精力的に研究を開始したことで、社会的にも大きな注目を浴びるようになったのです。このとき、グーグルは量子AI研究所を設立し、多くの優れた研究者を招聘して、突然大きな研究グループを作りました。このようなダイナミックな動きは、大学にはとてもできないと衝撃を受けました。これをきっかけに、多くの研究者が量子アニーリングに関心を持つようになりました。私たちの理論だけでは「まあまあ面白いかもね。」で終わっていたものが、実際の装置として現れたことで、一気に注目を集めるようになったのです。
こうした経験から、理論と実験、あるいは実装の関係について意識するようになりました。私はこれまでほとんど理論だけの立場で研究をしてきましたが、実際に動くデバイスが持つ社会的な影響力は、やはり非常に大きいのです。量子アニーリングを提案した私たちの論文が今日に至るまで注目を浴び続けているのは、私たち自身の力というより、実デバイスの存在とその応用がもたらす社会的なインパクトの大きさによるところが大きいのではないでしょうか。
余談になりますが、我々の量子アニーリングに関する論文が1998年に発表された後、2000年にMITのグループが「量子断熱計算(quantum adiabatic computation)」という名称でプレプリントを公表しました。そこでは、組合せ最適化問題をイジング模型として表現し、横磁場によって誘起される量子効果を用いて解くという方法が提示されており、その基本的な考え方は我々のものとほとんど同一でした。
彼らの論文は、その後10年以上にわたって我々の論文よりもはるかに大きな注目を集めました。その理由の一つは、彼らが問題を厳密な計算量理論の枠組みで定式化していたのに対し、我々の論文はよりヒューリスティックな形で書かれてことかもしれません。
その後、2011年にD-Waveが量子アニーリングマシンを商用化した頃、同社はその動作を報告する論文をNature誌に発表しました。その中で、量子アニーリングの基本原理を最初に提案したものとして我々の論文が引用されました。これにより、D-Waveが我々の論文が始まりであることを正しく認識していることを知り、安堵を覚えました。
D-WaveのQPU
第17章 その後の発展、そして研究者として — 試行錯誤と発想の持続
量子アニーリングのアイディアを提案した当時は、実際のデバイスは存在せず、理論としても注目を集めることはありませんでした。そうしたこともあって、その後しばらくはこのテーマから離れ、スピングラスや情報統計力学など別のテーマの研究を続けていました。
しかし2010年代に入り、量子コンピュータの研究が大きく進展し始めます。量子ゲート方式の研究が地道に続けられる一方で、D-Waveの影響で量子アニーリングについても関心が高まり、関連するプロジェクトが立ち上がるようになりました。その流れの中で、私も再びこの分野に関わることになりました。
この十数年ほどは、量子アニーリングに関する研究を継続して行ってきました。理論的な側面に加えて、数値計算や実機を用いた研究については、学生や若い研究者たちが中心となって大きな成果を上げてくれました。以前は先駆的すぎて評価されにくかったテーマが、ようやく広く受け入れられるようになってきたのを感じています。
アメリカのDARPA/IARPAのプロジェクトに加わったのも、貴重な経験でした。アメリカの圧倒的な人材の豊富さと、研究の幅広さ、リーダーの強い指導力となど、「これがアメリカの力なのか。」と思わせる迫力がありました。日本でも最近は量子分野に大きな資金が投入されていますが、ものづくりの前に、まず人を育てることから始めないと世界水準で競争についていくこと、ましてや世界をリードすることは難しいでしょう。
これまでの歩みを振り返ってみると、研究というものは、自分では重要だと思っていてもなかなか評価されないことが多く、むしろそれが普通でした。うまくいかないことの方が圧倒的に多く、思い通りに進まないのが当たり前です。そこで立ちすくんでしまうと、研究は続けられません。
「千三つ」という言葉があります。研究で言うと、千個アイディアを出して、そのうちうまくいくのは三つ程度だという意味です。さらにその三つの中で、本当に長く残るものはごくわずかです。ですから、うまくいかないことを前提にして、とにかく考え続けること、失敗を繰り返しながらもアイディアを出し続けることが重要なのです。
これまでの研究生活では、多くのアイディアが生まれては消え、その一部が形になり、さらにその一部が評価されるという繰り返しでした。双対性とスピングラスの結びつきや、量子揺らぎを用いた最適化といったアイディアも、そうした試行錯誤の中から生まれてきたものです。物理学徒なら誰でも知っているノーベル賞受賞者、リチャード・ファインマンと研究室が同室だったことがある人がどこかに書いていたのですが、ファインマンはすごい勢いで計算をしては、うまく行かずに計算用紙をごみ箱に捨てるという行為を延々と繰り返していたそうです。
アイディアというものは、必ずしも特別な瞬間に生まれるわけではありません。私の場合は、通勤の電車の中で考えることが多くありました。電車の中は外部からの情報が遮断されていて、雑音がない環境です。その中で一つの問題について集中して考えていると、思いがけない形でアイディアが浮かぶことがよくありました。
結局のところ、研究者にとって大切な資質は「めげないこと」です。うまくいかないのが普通だと受け止めて、また次のアイディアに進む。その繰り返しの中で、いくつかの成果が生まれてくるのではないでしょうか。
また、自分で考える習慣を持つことも重要です。流行しているテーマにそのまま乗るのではなく、自分が本当に面白いと思う問題を考え続けることが、長い目で見れば重要です。私自身、受験勉強の頃からほとんどすべてを自分流で進めてきましたが、その姿勢を研究においても続けてきたことが、一定の成果につながったのだと思います。
研究とは、一直線に進むものではありません。遠回りや試行錯誤のすべてが、いつか思いもよらない形で新しい地平を切り拓くのです。これから研究の道を志す皆さんも、自らの好奇心を信じ、楽しみながら歩んでいってほしいと願っています。
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カーネギー・メロン大学にて