金太郎は、平安時代中期の摂関政治全盛時代、天暦9(955)年に近江国坂田郡布勢郷に生まれました。たいへん大きな赤ん坊でした。
金太郎の親は、明らかではありませんが、当時この地に勢力のあった息長氏の一族として生まれたのです。
息長氏は、天皇家や新羅の王子「天日槍」とも血縁関係にある由緒正しい一族であることから、金太郎は、小一条の諸頭山のふもとにある「うばがふところ」で乳母によって育てられました。
その後、金太郎は西黒田の里山を駆け回るいきいきとした少年へと育ちました。金太郎は、舟崎の鯉ヶ池で鯉に乗ったり、常喜の熊岡や足柄山で熊と相撲を取ったり、横山一帯では動物たちとかけっこをしたりして遊ぶ、元気で明るい子どもでした。また、足柄神社の奉納相撲にも出向き見事な力を発揮していました。
そして、金太郎は少年時代、遊ぶだけでなく、付近の菅原道真ゆかりの名超寺、富施寺などで、学問にも励んでいました。まさに文武両道の優等生だったのです。
青年となった金太郎は、地元の鍛冶屋で働き始めます。当時この地は、製鉄業が盛んだったのです。そして、このころから、広く知られるようになった金太郎の格好になっていったのです。その格好とは「金の文字の描いた腹掛け」、「赤い肌」、「まさかり」です。腹掛けは、製鉄作業の際、ふりかかる火の粉を防ぐために着用し、金の文字は「かね(鉄)」を表します。赤い肌は、製鉄作業時の強い火力で熱せられて生じました。まさかりは、製鉄作業に使用する木材を伐採するために持っていたのです。金太郎は、一生懸命働き、その名声は日に日に高まっていきました。そして、金太郎自身は、息長家の一族として、たくさんの苦しんでいる人々のため、役に立つ仕事がしたいと思うようになっていたのです。
それから数年が過ぎ、20歳となった金太郎に転機が訪れます。天延4(976)年、旧暦3月21日、上総守の任期を終え、黒田海道を上京中の源頼光が足柄山にさしかかったとき、頼光はこの地にただならぬ気配を感じ、誰か素晴らしい人傑がいるに違いないと思いました。そして、かねてから頼光は伊吹山の山賊を退治するため、このあたりの地理に明るい若武者を家来にしたいと思っていたこともあり、家来の渡辺綱に人材を捜させました。
そのとき目にとまったのが、金太郎だったのです。頼光は、金太郎の非凡なる形相を認め、金太郎に名前などを尋ねました。金太郎は「息長の一族で、名前は金太郎。」と答えました。頼光はさすがにと思い、家来にならないかと言いました。
金太郎もかかねてから、世の中の人々のために役立つ仕事をしたいと思っていたこともあって、頼光の家来となることを決心しました。
上京後、金太郎は名を坂田金時と改め、頼光のもと様々な手柄をたてました。そして、正暦5(994)年、ついに金太郎が住んでいた村の人々を苦しめている、伊吹山の山賊を退治することになります。金太郎は、地理に明るいこともあって、一番乗りの大手柄を立て、地元に凱旋しました。地元の人々は、さすが金太郎だと口々に言いました。そうして、金太郎は、渡辺綱、卜部季武、碓井貞光とともに、頼光の四天王と称されるまでになったのです。
そして、この地では、金太郎をたくましくて優しい子どもの理想像として掲げ、現在まで尊敬をしているのです。
2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で登場する「後鳥羽上皇」は、建久10年(1199)と承久2年(1220)の2度、ひそかに名超寺(長浜市名越町)を訪ね、鎌倉幕府討幕の祈祷を命じたという伝説が残されています。
また、後鳥羽上皇の中3文字(鳥羽上)をとる長浜市鳥羽上町と常喜町、本庄町、名越町の一帯には鳥羽上庄が置かれ、後鳥羽上皇に縁のある荘園と伝えられています。美しい蓮や紅葉が楽しめる金太郎の里でもあります。
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