古墳と思われるところが4ヶ所あり、いずれも息長氏に関係する豪族の墓と伝えられる。その中で仏厳寺古墳は、大きな三角錐の形をした蓋石があり「朝日さし、夕日さす此の地に金の鶏をうめ置く」という伝説がある。
中央の不動石は牛の形に似ていることから、子どもたちに「牛さん」の愛称で呼ばれ、町民の憩いの場となっている。
この石には、「條里和郷」と刻されており、條里制の名残りと、聖徳太子の「和を以て貴しとなす」を町の教訓として示したものである。
この地には多くの寺が存在していたという法灯の地で、僧兵も多く生活していたと伝えられているが、元亀の兵乱ですべて亡び現在は地名として残るのみである。
常喜町と本庄町の境界に大小2つの石がある。立石と呼ばれるこの石は1300年の昔に出来た条理制の坂田九条と十条の境に当たるようで、北坂田・南坂田と言われるもとともなっている。
武の神様であると言われ、春の大祭は5月3日に御神輿の渡行があり定められた道を子どもの武者行列とともに町内を一巡し親しく町民が拝し崇める。
御神輿は金銅七宝装神輿としては国宝に値すると言われている。
熊岡神社境内に後鳥羽上皇お手植え言われる現在枯木の老杉がある。
枯死するまで近江町長沢へ火防の符としてその枝を送られていた。
そばを通るとき「お通しやす、酒一升」と口にして急いで通る風習が残っている。
源頼光が総州から京に帰る途中、足柄山で金太郎と遇い金太郎の器量、容姿に感服したという物語(前太平記)と、列見という言葉の意味が古代の文武官採用試験だったことを考えると、列見寺山は足柄山だったことを証明できはしないだろうか。
観音坂越えと鳥羽上山越えの2つの間道を制するための城砦で、天分7年(1538)六角定頼 率いる江南軍に対し京極高延、浅井亮政の江北軍と合戦があったとされ、城主は京極方荒尾三郎左衛門尉であった。付近の遺構はよく残っており、大蔵、堀越、丸奥等名残りの小字が多い。
鳥羽上と菅江を結び、大正12年(1923)竣工した、幅4.4m、長さ164mの煉瓦造、坑門は冠木型デザインでイギリス積み、入口には3mを超す記念碑が立てられており、多くを人力に頼った工事の困難と両村の協力態勢をうかがうことができる。
承久年間(1219~1222)後鳥羽上皇が御巡幸のおり観音堂の地に杉をお手植えになったという。「お杉さん」と称した木は老木になり台風によって倒れ、2代目が平成10年に植えられている。
観音石像も建てられ上皇の遺徳がしのばれる。
赤塚山ふもとに大きな円墳があった。現在その形を見ることはできないが使われたとされる大小の石が散在する。
明治32年尾崎寺跡に移設されるまで墓地となっていた。
小幡山南側に祀られている地蔵さんで、左利きが右利きに直るという言い伝えがある。
箸二膳を供え一膳を持ち帰り右手で食事をすると右利きになり、今も遠くからお参りする人もある。
横山街道から東へ山東の山室に通じる山越え道、名超寺への参道でもある所に下中上の3つの大門があったが、兵火により焼失、中門の土台石がただ一つ現存している。
横を流れる河川は後鳥羽上皇お手洗いの皮、禊川と呼ばれている。
冨施寺全盛の頃、後鳥羽上皇が佐々木定綱を奉行に鍛冶番匠を従えて名剣を打たせたという。
当時鉄生産が盛んに行われると同時に鍛冶屋が多く軒を並べていた地である。
形は大小二個の円型で、大は直径10m余、小は5m余の円を底にして礫盛りにし回りに樹木を植え三方を囲んでいる。
祭主は布勢意富々抒王(ふせおふどおう)であるという。
穴伏(あなぶせ)とは穴を吹く、つまり踏みふいごで炉の中へ風を送り強い火をおこし鉄を生産するさまをいう。
付近は豊富な水の流れとダムも存在し台地となっている。
ここから流れ出る地下水は黄褐色の酸化鉄を含んだ金気水で鉄生産に関係があるといわれている。
成長した金太郎は布勢の鍛冶屋場庄司の刀匠のもとで働き、そのたくましい体で大槌をふるっていたといわれているが、付近には鉄生産に関わる地名が多く点在している。
「タタレン」「ニイーレ」「灰原」「穴伏」「金神山」「焼尾」等である。
鎌倉幕府北条家の嫡子盛房卿が諸国修行の途中七条村に立ち寄った時、八条村南谷の地に足柄明神を勧請し、草堂を営み、これに奉祀したのが足柄神社の開基といわれている。
また、光台寺はもと八条村の寺ケ谷にあったが、盛房卿は足柄明神とともに仏神二尊に給仕し賜うたという記録がある。
その後今川村に引き移し代々相続されてきた。
この様に足柄明神と光台寺の親密な関係は今も「おこない」という形で継続され、両町交互の神宿設置は他に例を見ない意義深いもので、湖北三大「おこない」の一つに数えられている。
(明治初年以前は足柄神社と称した)
祭神大年の神で894年菅原道真公の勧請により建立された。
古来有名なのは秋の祭礼に行われた奉納相撲で、力自慢の若者がこぞって参加したという。
950年生まれの金太郎(坂田金時)も相撲大会に参加し、怪童ぶりを大いに発揮したと伝えられている。
特に江戸時代の横綱として人気のあった鬼面山谷五郎は、幼少の頃 本庄に滞在し、酒造りを手伝いながら相撲の手ほどきを受け、宮相撲でも誰も相手になれないほど強くなったので角界に入門したといわれる。
本体 木造ウルシ塗
総高:246.0cm
全長:528.4cm
幅 :131.0cm
金具 銅・鍛造および鋳造
象嵌七宝、彫金、鍍金、鍍銀
鳳凰の背板に「安永十年辛丑三月吉日京東六条住錺師 村田長左衛門」の刻銘がある。
造りも豪壮で、ほとんど全面を飾金具で覆う装飾性をみせ、特に軒を受ける12本の柱すべてに七宝象嵌金具を巻き、12本の紋様が全て異なる見事な造りである。
全国御輿の中の三指に入ると評され、2003(平成15)年には、京都公立博物館に展示された。
春日神社の祭神は布勢大明神と称する。
四基の幟旗は春日神社の祭礼の時 神を迎える招代(おぎしろ)として立てたものである。
旗竿、矛、彫刻、吹き貫き、ばんばら、幟旗からなりたち、まさに伝統的文化財といっても過言ではない。
特に炎の色を表す幟旗は、布勢の地が鉄生産(タタラ)に関係ある土地柄といわれる由縁でもある。
番所は「ばんふところ」と呼ばれ「乳母が懐」がなまったものと伝えられている。
息長家の子孫であった金太郎がこの地で乳母に育てられたという伝説がある。
この地に祀られている地蔵さんは「授乳地蔵」といわれ、お祈りをすると、母乳が授かると今も信仰を集めている。