学区の歴史

 西陣中央小学校は平成9年に創設されました。元々はこの地4学区にそれぞれ小学校があり、時代とともに統合され現在に至ります。
 上京区の小学校の始まりは、明治2年に京都の町衆たちの手によって、当時の住民自治組織であった「番組(町組)」を単位としての創設でした。

 上京区には33の番組小学校があり、2番校が成逸小学校、5番校が西陣小学校、11番校が桃薗小学校、15校が聚楽小学校の前身となります。平成7年には西陣と桃薗が統合されて桃薗西陣小学校になり、その2年後に成逸と聚楽が統合に加わり西陣中央小学校が誕生しました。

桃薗学区の西に隣接する嘉楽学区は、昭和22年に嘉楽小学校が嘉楽中学校となり小学校が消滅したため、現在地域の子どもたちは近隣の3つの小学校いずれかへ通学しています。西陣中央小学校はその1つです。)

【引用文献】2020年上京区140周年記念誌』

成逸学区の紹介

 成逸学区は、京都御所、 織物で有名な西陣や同志社大学のある上京区の北端に位置し、北区と接しています。 面積約0.23K㎡。 小学校校区は西陣中央小学校、中学校校区は烏丸中学校。

 学区内には史跡が散在し、 七野神社、 水火天満宮、 今宮御旅所、 若宮八幡宮 興聖寺、 安居院、西法寺 大應寺など文化財を有する名刹や由緒ある神社が歴史を彷彿とさせています。

 明治2年、 堀川寺之内上る下天神町に成逸小学校(当時は上京第二番組小学校) が開校し、その通学区が成逸学区となりました。その成逸小学校も児童の減少のため、 近隣4学区で統合(西陣中央小学校) 平成9年に閉校、 その跡地には全国で初めての市街中心地に立地する総合性地域性の養護学校の建設が進められ、平成16年4月に「京都市立北総合養護学校」(現在、 北総合支援学校) が開校しました。 成学区は成逸住民福祉協議会を中心に、 北総合支援学校を学区の福祉活動、 交流、 防災の拠点として、地域住民と共に歩んでいます。

【学区の由来・歴史】

 明治2年、成逸小学校(当時は上京第二番小学校)が開校しその通学区が成逸となりました。当時の校名は地名や中国の文献から引用されることが多い中「逸材、逸人を成す」という教育の目標から「成逸」の名称が付けられたと伝えられています。

【学区の魅力紹介】

《成逸学区の目指すまち》

「私のまちに町内会があってよかった」、「地域のみんながここちよく暮らせるまち」を目指して、成逸住民福祉協議会や町内会、各種団体が連携して多様な福祉、 防災活動を展開しています。

 平成19年に大震災等を教訓に、 学区全体で 「避難所運営マニュアル」の策定に取組み、大震災発生の度に改訂し、 概要版を全世帯に配布しています。 また、各町内毎に「福祉防災マップ」、「避難行動マニュアル」、 「各町防災まちづくり計画」、 「高齢者支援台帳」を作成し随時更新しています。 平成29年には 「避難所運営マニュアル」 の発展版 「成逸防災心得集」を作成しました。 成逸学区では 「せ~いの防災!」を合言葉に災害に備え、少しでも減災できるよう、 安心・安全のまちづくりに取り組んでいます。

 成逸学区ではマンションにお住まいの方にも町内会に入会して頂くためのルール 「せいいつ方式」にも取り組んでいます。 マンションの方と地域の方の交流を目指し、毎年「せいいつ住まい交流会」 を開催しています。これらの取組が評価され、 平成29年に「第21回防災まちづくり大賞消防庁長官賞」を受賞しました。

西陣学区の紹介

 西陣学区は入り組みの多い複雑な形をしていますが、概略の位置を示せば、堀川通以西・浄福寺通以東・五辻通以北・寺之内通以南です。 応仁元年 (1467) 応仁の乱が勃発し、山名宗全の邸宅 (現山名町) が一方の拠点となり、同年5月細川勝元方の軍勢と激烈な戦闘を行いました。 この時山名邸の一帯が、 東方の細川方に対する西の陣という意味で 「西陣」 と呼ばれ、 室町時代の終わり頃 「西陣」 が地名として使われ定着しました。

 歴史的には西陣の概念は、 ほぼ南北は中立売通から鞍馬口通まで、東西は室町通から千本通まで、 一辺が約1キロメートルのほぼ正方形の範囲としています。 応仁の乱が終わった後一面の焼野原となっていた陣地跡が次第に旧に復し、 「西陣 機(はた) 織の町」として成長していったのです。

【学区の由来・歴史】

 西陣校は明治2年12年2日上京第五番組小学校として創立されました。127坪の土地に建坪62坪の校舎を建て教師3名、生徒120名という大変小さな学校でした。明治17年1月、西陣の地名に因んで校名が西陣校と改称されました。

【学区の魅力紹介】

 昭和9年9月21日朝、 突如として京都を襲った室戸台風は、最大風速42メートルで一瞬にして改築中の旧校舎10教室を押し倒しました。 児童職員約500名が下敷きとなり、41名の児童が死亡し多数の重軽傷者を出す惨事を引き起こしました。 直ちに西陣小学校復興互助会が組織され、 その復旧に全力を尽くしました。 校舎倒壊はあまりにも痛ましい事故ではありましたが、この経験が学校安全への関心と熱意を高めました。 現在でも秋の彼岸の中日に、学校の「風害記念碑」と妙蓮寺の「西陣校罹災児童慰霊塔」をお祀りし、法要を営んで学校安全の誓いを新たにしています。 その後、昭和11年に現在の鉄筋新校舎が完成し、12月8日竣工式が行われました。

 現在の重点目標 高齢者がいきいきと暮らせるまちづくりに向けて・・・

 茶房はとりべを軸に高齢者が気軽に集える居場所活動の充実をはかります。

 茶房はとりべは居場所として定着しており、多様な参加者で賑わっています。 年功会等が中心となって地域活動を盛り上げており、 広報誌で情報発信することで上手く共有することができております。

聚楽学区の紹介

 聚楽学区は、東は堀川通、西は智恵光院通、北は一条通 南は下長者町通の範囲で、上京区では、 とても小さな学区です。

 天下を統一した豊臣秀吉が、 天正16年に、 当時、 内野とよばれていたこの地に、 「聚楽第」 を築きました。 「聚楽」という名称は、後陽成天皇の聚楽第への行幸が書かれた 「聚楽行幸記」のなかに 「長生不老の樂 (うたまい) を聚(あつ) むるものなり」とあり、秀吉の造語であると考えられています。(それ以前に「聚楽角坊」とよばれる地域であったという説もあります。)

 現在の聚楽学区は、 安心・安全で住みよい街を目標に、 聚楽社会福祉協議会を中心に各種団体が協力して地域活動を行っています。 聚楽学区民生児童委員協議会等が主催する 「じゅらくエンジェル」 は、 幼稚園 保育園の入園前の子どもたちの集う場を提供しており、地域のたくさんの親子が集っています。 また、学区内の高齢者で構成されている 「聚楽々友会」 があり、ウォーキング、カラオケ、パソコン教室などを通して親睦をはかり、健康寿命の延伸に寄与しています。 そして、防火防災意識も高く消防分団や自主防災会を中心に、 消火訓練や年末特別警戒、 防災訓練、 防災ウォークなどが盛んに行われており、 防災井戸や防災かまどベンチも設置されています。 毎年11月に開催される敬老会と聚楽区民の集いにもたくさんの人が訪れるなど、 とても活気のある学区です。

【学区の由来・歴史】

 明治2年10月16日に上京第十五組小学校として開校し、明治8年に校区の一部が聚楽第の跡地にあることから、聚楽小学校と改称されました。当時から非常に特徴のある教育を開発・実践した歴史があり、明治期には校長をつとめた広田虎之助氏は、独自の聚楽式算術教授法を編み出したことで有名です。昭和58年以降には、地域の伝統工芸士の協力で郷土資料室に機織機が置かれ地元の西陣織を体験する教育が実施されていました。

【学区の魅力紹介】

 現在、聚楽学区の小学生は、 西陣中央小学校に通っていますが、様々な行事が聚楽学区内で催されています。 7月には、独居老人に地域の小学生と共に七夕の笹を配る七夕笹まつりを実施しております。 9月には、晴明神社のお祭りの鼓笛隊や子ども神輿に地域の子どもたちが参加しています。 10月に開催される聚楽区民体育祭は、令和元年で71回を数え、 上京区で一番古い歴史と開催回数を誇っています。 運動場の周りを各町内のテントがずらりと並び、トラックとの距離も近く、力強い選手の動きや軽快なフットワークを間近で観ながら応援できるサイズ感の元聚楽小学校グラウンドが最高の舞台です。 各町内がワンチームとなり楽しく熱い体育祭となっています。

 各種団体の毎月の行事予定が記載された 「聚楽だより」 を月刊で発行し、2020年1月で通算442号となります。これは、学区内の全自治会参加世帯に配布され、学区民は、様々な行事に参加することができます。


 また、昭和11年に設立 (12年に法人認可) された一般財団法人聚楽教育会は、 多数の歴史資料を所蔵しており、上京区140周年記念のオリエンテーリングラリーの際に、 「豊公菜所聚楽城之図」 「豊臣秀吉朱印状」 などを学区内外に一般公開し、 好評を博しました。

桃薗学区の紹介

 東は堀川通、西は智恵光院通、南は一条通、北は五辻通に囲まれた 「西陣」の中心区域が桃蘭学区です。学区のほぼ中央を走る大宮通をはさんで、 徳川綱吉の時代に糸問屋の集まる「糸屋八町」 をつくり、 「千両ヶ辻」 ともよばれて名実共に西陣織の中心地となりました。 現在も西陣織に携わる多くの人々が住み、 仕事をされています。

 桃薗学区は日本の歴史の舞台となってきました。 一条大宮は、 源氏物語 「車争ひ」の舞台、 源義経を奥州平泉藤原氏のもとへ案内した商人金売吉次の屋敷跡の首途八幡宮 西陣中央小学校の建っている地は観阿弥・世阿弥の能楽観世家の宗家跡、桜井公園の地は室町時代の連歌師 桜井基佐の邸宅跡、豊臣政権・五大老の一人上杉弾正景勝の屋敷跡が弾正町、晴明神社の地が千利休の屋敷跡と、 日本の歴史を動かした様々人物がこの地で活躍してきました。


 歴史と文化を大切にし、それらを礎に夢と活力ある未来を築いていく桃薗学区です。

【学区の由来・歴史】

 「桃薗」の名の由来は、今から1200年の時を遡ります。一条の北にあったこの地は、宮中内膳司が所轄する果樹園であり、桃の気が植えられていました。800年代に第57代陽成天皇の弟、貞純親王が離宮にされたのが「桃薗」の始まりです。大宮大路を挟んで親王、斎王、天皇の離宮が並んでいました。

【学区の魅力紹介】

桃薗学区は、歴史と文化が夢と活力のある未来を創る町です。 桃薗学区は、1200年間歴史の舞台となり、西陣織の染織文化をはじめ様々な文化を集積してきました。 この歴史と文化の有形無形の資産を礎として、新しい夢のある、 そして活力のある未来を構築していきます。令和元年から「西陣文化のスタートアップスタジオ」 構築プロジェクトも始まりました。

 また、自分で考える創造力豊かな子どもたちを育てます。 西陣中央小学校を核として、地域の多才な人たちも積極的に関わり、地域の力で、自分で考えて行動できる創造力豊かな子どもたちを育てます。 子どもたちは日本の未来を築く宝です。

 そして、地域を愛し、 人を大切にする桃薗学区をつくります。 地域の安心安全の環境づくりを最優先し、 地域の方々が誇りと愛情をもっていただける桃薗学区を目指します。 そして、一人ひとりがかけがえのない個人として大切にされ、価値観や考え方の多様性をお互いに認め合い、そして支え合い、全ての人に居場所と出番がある人間中心の地域づくりを目指します。 その為の交流親睦事業を活発に行います。

嘉楽学区の紹介

 東は智恵光院通り、西は千本通り、南は一条通り、北は五辻通りを境界とする面積0.209平方キロメートルの地域です。この地域一帯は西陣織機業の町として賑わい機音が聞こえました。 中でも千本通りは若狭街道や嵯峨野道の終点でもあり、天神詣での始終点でもあったので、ずい分遠方からの来訪者で商店街として賑わっていたものであり、 大正元年には市開通し、 今出川通りと共にメインストリートです。 両通り沿いには近年マンションが立ち並び若者の人口増加で活気が溢れています。

 また、学区内には桜井公園、 橘公園という二つの大きな公園があります。 桜井公園は川の流れる公園として有名で多くの子供たちの遊び場となり、 木陰のベンチではお年寄りや若者のやすらぎの場となっています。 特に名前の通り桜の季節にはお花見に訪れる方がたくさんおられます。

【学区の由来・歴史】

 明治2年に上京第四番組小学校として開校しました。 尚、令和元年には番組小学校創立150周年を迎えました。 明治10年嘉楽小学校と名称変更され隣地に移転し般舟院の建物を使用。 昭和15年校舎改築にあたり講堂と正門は鎌倉の建長寺に譲渡、移築されかっての校舎は方丈・校門は総門として 「巨福門」 の称号が掲げられ現在も立派に役目を担っています。 この講堂と門があった当時の嘉楽校を描いた扇型の版画があります。 明治10年に画家久保田米僊によって表現された学校の姿です。

 嘉楽小学校は昭和22年制度改革により京都市立嘉楽中学校となりました。 また嘉楽中学校の今出川門の東側に4メートルはありそうな石碑が立っています。 表に 「禁裏道場跡」 と大きな字で彫られている石碑は昭和15年に嘉楽同窓会が建立したものです。 なぜこの碑が建立されたかたというと嘉楽中学校の前身である嘉楽小学校が禁裏道場般舟院の由緒ある土地に建てられたからです。 現在の嘉楽中学校の隣に嘉楽門院の墓があることから昭和4年に嘉楽学区と命名されました。

【学区の魅力紹介】

 学区の中心は学校にあると思います。 当嘉楽学区は中学校となった現在地域の子供達は3小学校へ中学校も3校へと通学しています。 通学校がバラバラです。 ところが学区行事があれば何処の学校へ行ってようがお構いなし! 「みんな集まれ!」の掛け声とともに老若男女を問わず集合します。 これが一番いいところ!! 学区年中行事の「体育祭 」「嘉楽わっしょ」 「防災訓練」等何時でも大勢の賑わいがあります。古くから有るもの、 新しくなったもの色々あっていい! そんな中の一つ 「カラーク」 産声を上げてまだ2年目。 「おぎゃー」ではなく美しいハーモニイを目指して毎月1回ふれあいルームに歌声が響きます。 混声合唱団です。 専門の先生の伴奏よろしく! 「はい、男声。 はい女声」と楽しい時間が過ぎます、 「嘉楽わっしょ」 での発表会。 頑張ります!

 又、 体操教室は毎週1回。 インストラクターの指導の下、年老いても健康で過ごせるように願い体づくりに汗をかきながら一生懸命です。 最近はヨガ教室が月1回行われ和気あいあいの体育館です。 令和初めての時代祭の当番に当たり、 それこそ学区民挙げての事業、 10月の斎行に向けして着々と準備し、 一致、協力、団結力で乗り越えました。