水星移住
ひとり暮らしを始めた。長く片想いをしていた人から、「好きな人と結婚しました。これからずっと幸せに暮らします」と手紙が来たものだから、どこか遠くで、ひっそりと生きたくなったのだった。選んだ場所は水星。寒くて薄暗いからあまり人気がなくて、太陽系では最も人口が少ない星。引っ越しのために荷物を運ぶあいだ、だれひとり見かけることがなく、いざ暮らしはじめても、ご近所さんなんてどこにもいなかった。ただ静かで、空気が冷たくて、ほんのりと明るく広い空があるだけだった。
ふと好きな人のことを想う。想い続けてきたけれど、これからだんだんと忘れていくのだろう。穏やかに好きで居続けられて、穏やかに好きを終わらせていけるのだから、それでいい。好きな人は地球で暮らしている。わたしはこの星で、静かに生きていきたい。
つるつるとして平らな地面を歩く。なんの目印もないから、下手に遠くへ行ったら二度と帰れない。空は薄暗くて、星がよく見えた。遮るものが何も無いから、地面も空もどこまでも広大で果てがない。ただ広い空間に、ひとり。静かで、薄暗くて、少し寒い水星の暮らし。ここでなら、好きな人を含めた何もかもを忘れられるような気がした。
彼女は夜が好きだった
彼女は夜が好きだった。いつも夜ふかしをしては親に怒られていた。わざわざ寝坊しかけてまで作る夜の時間を、彼女は何でもないことに費やしていた。ある晩はおりがみを折り、ある晩は風船をふくらませて遊び、ある晩はお菓子を作った。授業中の居眠りが多かった彼女は、ついに担任に呼び出された。
「眠れないの?」
「夜が好きなんです」
「眠らずに何をしているの?」
「昨日はぬりえをしていました」
「それは授業中に居眠りをしないことよりも大切なの?」
「はい」
担任はそれ以上なにも言わなかった。
その夜、彼女と親はいつも通り夜の挨拶をし、いつもの夜がはじまった。彼女は夜が好きだった。明日も寝坊してしまうだろうと思いながら、その晩は文章を書いた。
穏やかな時間だった。静かな家。時々聞こえる風の音。彼女は学校が好きだったし、家族のことも好きだった。それでも彼女にとって、夜は何よりも大切な時間だった。
1人で何でもないことをする静かな時間、みんなが寝静まった夜。それはもうひとつの生活だった。生きるために必要なことだった。今日も彼女は夜を過ごす。彼女は夜が好きだった。
上っているから
約束の時間になった。ちょうど友人が来て、なんてことない会話をしながら歩きだす。会うのは数年ぶりだけど、そんなことはあまり気にならなくて、見た目の変わった友人と変わらない話をした。他の人といるときの彼女を知らないけれど、わたしといるときの彼女は、昔から変わらず優しくて聡明だった。
「三歩進んで二歩下がるを実践している気がする。」
歩きながらわたしが言う。友人は笑って、
「たしかに。あと、螺旋階段みたい。同じところを何度も通りながら上ってる。」と返した。
螺旋階段みたい。本当にそうだと思う。今回、彼女会いたくなったのは、数年前と同じ気持ちになったからだった。同じ場所にさしかかって、思い出した気持ちを話したくなったから。どういう気持ちのとき誰に会いたいかはいつも決まっていて、その結果、こうして数年ぶりに連絡を取ることになったりする。
お店に入って席に着く。最初のうちは話すことばかりで絶え間なく続いた会話も、何時間か経てば少しずつ落ち着いてきて、静かになってくる。ふとストローの入っていた袋をさわった。小さく折りたたんで、少し裂いて、開く。本当は綺麗な桜が作れるはずだけど、いつもうまくいかなくて、変な形をした不格好なものができてしまう。それを眺めていた友人のコップには、ドリンクバーで遊んできたのか紫色の液体が入っていた。この、なんでもない時間が好きだ。もう話すこともないのに、なんとなく帰りたくなくて、たわいもないことで時間をうめる。いまだから、桜を作って、ドリンクバーで何種類もジュースを混ぜたりする。なんとなく彼女に会いたかった気持ちは、この時間に満たされていく。
「また連絡すると思う。」
別れぎわには曖昧なことを言った。でもきっとまた連絡する。今日は時間をかけて思い出になって、いつか階段を一周したときにふと思い出す。楽しかった。何を話したかなんてもう忘れ始めていて、ぼんやりと断片があるくらいだけど、楽しくて、明るい時間だった。何ヶ月後か、何年後か、次に会うときまで、今日の記憶は明るく残り続けるのだと思う。