自己肯定感がないなりに
インターネットは自己肯定感の素晴らしさを謳っている。わたしはそれらから、自己肯定感のないことを責められているように感じる。わたしは自己肯定感がないなりに日々を楽しんでいる、つもりだ。つもりというのは、最近上手くいっていないから。ここでもう一度、自己肯定感について考えたい。
自己肯定感があるかと問われたら、ほとんどないと思う。自分が存在していいとは思えないというレベルで、わたしは自己を肯定していない。世界にただ居るということを認められない、もはや自己肯定感を通り越して自己否定感を持っている。
それでもわたしは日々を楽しく過ごすことをモットーにしてきた。自分のことを否定する気持ちを小さくして、たとえ自分を認められなくても自分に親切にするように暮らしてきた。歯ブラシに課金したり、お風呂後に身体中をケアしたり、そんな小さな積み重ねを通して、少しずつ自分を大事にする方法を実践してきたと思う。
おそらく最近上手くいっていないのは、この小さな積み重ねをやっていないからだ。忙しい日々のせいで、お風呂も、食事も、おざなりになってしまった。ただのルーティーンになってしまった。
自己肯定感がある人は、きっとそうしなくても自己肯定感があるから大丈夫なのだ。けれど、自己肯定感のない人は、そうした日々の小さな積み重ねをおざなりにすると、途端に自己否定が強くなる。
自己肯定感が取り戻せないことはないと思っている。ただしそれは、人生単位での話だ。わたしたちは一生をかけて、少しずつ自分を大切にする出来事を増やして、少しずつそれを取り戻していくしかないのだ。
だけど逆に言えば、そうした日々の積み重ねで十分に取り戻せる程度のものなのだと思う。もちろん、そんな小手先のものなんて小さい頃から形成された本物には敵わないかもしれない。だけど、これだけ自己肯定感が叫ばれる中で、取り戻す方法があるというのは大きな助けになる。
もう一度、形成をし直そう。まずは今日、ゆっくりお風呂に浸かるところから。美味しいものを食べるところから。開いてきた歯ブラシを取り替えるところから。少しずつ自分の機嫌をとって、少しずつ自分に親切にしていこうじゃないか。
自分を満たすものが愛じゃなくても
ずっと、わたしには愛が足りないから空っぽなのだと思っていた。貰った愛が足りないから、いつもこんなに虚しいのだと。そして、もう大人になったわたしが満たされることはできなくて、これからの人生、ずっと何かが足りないような気持ちのまま、死に向かって歩いていくしかないのだと、そう思っていた。
自分で自分を癒したり愛したりすれば、今までの不足を補うことができると、どこにでも書いてある。でも、自分を愛するって何?わたしはわたしの身体を以前よりは大切にするようになったし、心の声を聴くようになった。まるで子供みたいに駄々をこねたり、わがままを言ったり、甘えたりするように、以前よりは……なったと思う。でもそれが、自分を愛することだとは思わない。それらを受け入れてくれるのはわたしじゃないし、それらを受け入れて貰えたと思えるのは他者との交流においてだけだから。
メンヘラを愛するのは底が抜けたコップに水を注ぐようなこと、とはよく言ったものだ。本当にそうだと思う。誰かから注がれた愛情はこぼれ落ちて、すり抜けて、心には溜まらない。溜まらないから苦しくて、溜まらないから苦しめる。それが無駄だとは思わないけど、抜けたコップが元に戻ることはないような気がする。どうしたら満たされる?どうしたら……と、もがいて、もがいて、結局、諦めた。
そのコップ、満たされなくても大丈夫だよ。底が抜けたまま、何も溜まらなくても、愛着をやっていけるし、幸せになれる。
そうして、今は。自分の心について考えながら、目下の人生を楽しんでいる。とにかく勉強をして、好きなことをする。いつのまにか、愛情のコップなんて忘れていた。何かに夢中になっていると、他のことを忘れていたりする。要はそれを、死ぬまで繰り返そうというのがわたしの生き方の答えだ。
そうしたら、段々と色々なものが積み重なって、自分や愛着を形成し始めたり……している。これは結果的だけど、やったことって無駄にならないんだな。
わたしの愛情のコップは未だに空っぽだ。きっとこれからも、満たされることなんてない。
でもそれで構わない。コップに執着して、どうにもならないものを満たそうとする方が苦しいのだ。
長い人生において、空っぽのコップを満たそうともがくのも、ありだと思う。なんとかなることもあるだろうし、なんとかならなくてもそれはそれで一つの美しい人生だ。
だけど、そんなコップのことなんて忘れて、今を満たし続けることに注力するのもありだと思う。刹那的だ。いいじゃないか。わたしたちには、人並みに満たされて、人並みに愛情を受ける人生を捨てる権利がある。世界って、本当に、美しいもので、面白いもので、楽しいもので、溢れかえっているんだよ。一生をかけても全てを味わえないほどに。
どこへ逃げたって自分がいる
わたしは強烈な自己否定を抱えて、だからこそ、"わたし"として生きるのが何よりも苦しかった。
「逃げていい」の話について、「どこへ?」という疑問が出るのは当たり前だ。学校から逃げるとき、児童はどこへ行けばよいのか。子供1人の力で学校から逃げ出すことは不可能である。そして、家庭からはもっと不可能だ。ただわたしの場合は、何よりも自分自身から逃げ出したかった。わたしの悩みはどちらかといえば実存的な、「なぜ生きるのか」に近いものだった。
わたしは自分自身に対して、ある意味"特別性"を見出しすぎていたのだと思う。周りの期待、そして何よりも自分からの期待。「わたしは何か、特別な人間で"なければならない"」という強迫性の思い込み。それは見当違いではなかったけど、それを具現化するほどの素質を兼ね備えていなかった。わたしは能力を持て余して、世に対する貢献なんて放ったらかして、自分の小さな世界を守っていきたかった。1位になりたいとは思わなくて、ただ、自分の大切な人に「凄いね」と言ってほしいだけなのだ。
だけど、人は期待する。「貴方ならできる」と言われる。でも頑張るのは苦しい。だから、わたしは自分自身から逃げ出したかった。
「生きているだけで偉い」が多用されるにつれ、それはただの挨拶に近くなっていく。最初は誰かが大切に思う誰かへ向けて、心を込めて言った「貴方は生きているだけで偉い」だったのに。
そしてもう1つ思うのは、この言葉は相手の"特別性"について何も触れていないこと。「生きているだけで偉い」のであれば、この世にいる人はみんな偉い。だけど今苦しむ人は、自分の"特別性"について悩んでいるのだと思う。それは「特別でないこと」かもしれないし、「特別でありすぎること」かもしれない。対話というのは"相手"と"自分"が、お互いに唯一の存在として話すから発生するものだ。貴方の今までと、今と、その全てを聞いてもらった人からの「貴方は生きていて偉い」なのであれば、それは何よりも肯定だろう。
それから、わたしは何年もかけて「特別な存在でなくなること」を実現した。わたしは他者と対等になり、自分の立ち位置を見つけたのだ。
大学をやめたり、腕に自傷の跡があったり、ASDによるものなのか話すと不思議な印象を持たれたり、おそらく誰かにとって、わたしはどうしようもなく特別だろう。他の人とは確実に何かが違う、パンチの効いた存在だ。
だけどわたしにとっては、自分の特別性なんて些細なことだ。この世にはそれよりももっと特別で、わたしをどうしようもなく惹き付けるたくさんのものがあった。
わたしは、その"特別なもの"を解き明かす人生にすると決めたのだ。つまり、わたしは「わたしを解き明かすこと」から逃げて、もっと魅力的で、もっと特別な他のものに熱中することにした。
わたしの動力は好奇心であり、わたしの心身はそのための道具に過ぎない。自分を大切にすることなんて、自分を愛すことなんて、何一つ必要なかった。わたしは「わたしから逃げる」ことで、「生きることそのものの苦しみ」から脱出したのである。
考えごとをしなくなってしまったら、それはそれで何だか嫌だな
何が悪かったんだろう。何が、誰が。どうして。どうしてこんなことになっている?思い描いていた未来は、もっと明るくて、希望に満ちていて、少なくとも明かりが眩しいからと電気を消した部屋でひとり戯言を書き綴るようなものではなかった。こんなはずじゃなかった。どうして。
わたしは将来、誇れる人間になるのだと思っていた。勉強ができたから。本を読むことも考えることも好きだったから。自分に誇りを持って、社会で役に立つ人間になるのだと、本気でそう思っていたんだ。でも実際はどうだろう。わたしは学校に行くこともできなくなって、勉強なんてもってのほかで、本を読もうとしても目が滑ってしまう。もう21歳で、同じタイミングで大学生になった人々は卒論の話をしたりする。わたしは?わたしはどうだろう。休学してただでさえ一年遅れの大学を、さらに辞めて一年生からやり直そうとしている。しかも、それすらやっていける自信はない。
これをどう見る?ここにどんな因果関係を見い出す?何が悪かったのだと思う?兆候はあった。小学校でいじめられて仮病を使い早退したり欠席したりしていたあのころ。いや、そうではない。問題はそこではない。ここにある事実は、いまわたしは学校に行けないということだ。うつ病だから?発達障害だから?それでも文字通り死にそうになりながら学校へ行き課題をこなす人たちは存在する。ではわたしは?わたしはなぜ学校に行けない?わたしはどうすればいい?
本当に、酷いものばかり見る。多様な価値観とは言うけれど、その言葉は誰かを傷つけることを肯定するためのものではない。人はどうしたら傷つけあうことをやめられる?
たぶん、きっと、そんなの無理なんだと思う。わたしたちが違う人生を送る限り。違う記憶を持つ限り。違う価値観である限り。わたしたちは正しさを主張し争わなければいけない。しかし、自分の正しさと似通った正しさを持つ人たちのグループの中で肯定しあって生きていくこともできる。人と関わるのをやめて自分の正義に閉じこもることもできる。では、それが何かを変えるのか?いや、そもそも何かを変える必要はあるのか?
全ての生きものが同じ思想を持てば争いは終わるのか?今ある様々な思想の中に正しいものはあるのか?議論をすれば正しいことが見つかるのか?議論した末に出てきた結論は正しいと言えるのか?正しいとは何だ?誰にとって、何にとって?
それでも、わたしたちは正しさを求めるしかない。常に自分を見張って間違いを犯さないように務めるしかない。救われない、本当に救われないよ。こんな生き方しかわからないんだ。死ぬまで息苦しさに襲われて自分の監視から逃げられない。自分に向いたナイフを人に向けないように頑張り続けなくちゃいけない。そうやって生きていけば、いつか本当のことに近づけるのかな。
■
希死念慮には全敗している。死にたい気持ちに勝てたことはない。輝かしい未来も、大切な人も、大好きなものも、この世に留まる理由にはならなかった。今すぐに命を終わりにしたい。突然襲ってくるそれは、わたしにはどうしようもなく、早く死にたい以外の感情が全て失われてしまう。苦しい。生きているだけのことがこんなにも苦しい。脳のバグだとわかっていても、死にたいから逃げられない。美味しいものを食べて、温かいものを飲んで、布団に入ってみた。死にたかった。薬を多めに飲んでみた。何も変わらなかった。強い希死念慮。逃げ出したい気持ち。わたしの頭の中は頑張らなきゃでいっぱいで、頑張れないなら死ぬしかない。休んでていいはずがない。休めもしない。薬も効かない。布団にいるだけなのに息が苦しくて生きていることがつらい。逃げ出したい。どこかへ。逃げられない。死にたい。死にたい。終わりにしたい。まるで生き地獄だ。
水中呼吸
ずっと息が苦しい。なにをしていても、なにができても、どこかで「これで本当にいいのか」という気持ちがある。なにもできないときの自分を許せない。なにかを成し遂げなければいけない気がする。水中で息ができなくて、顔をあげればいいだけなのに、水のなかで息をする方法を探している。わたしにはエラがないのに、顔をあげたら見つかってしまいそうで怖くて、ときどきこっそりと息継ぎをして、あとは水中に隠れている。そんなことをしなくても、おそらくなにもいないのに。
起きられない夢を見る。寝たままの体勢で、体が動かなくて、ひどく息苦しい。また眠ると永遠に目覚めない気がして、そのまま全てが終わりそうで、きっとこのまま眠ればわたしは深淵に落ちていくのだと感じる。体をなんとか動かしても、気がつけば最初の体勢で、何度繰り返しても起き上がれない。そんな夢を見る。
もしも魂というものがあるのなら、たぶんそれには自我すらなくて、ただ存在するだけなのだと思う。自我も苦しみも体に存在していて、きっと本質はなにも持っていない。生まれたばかりの子供のように、意識を持たない植物のように、あるいは落ちている石のように、もしくは夜空の星のように。それは優しいものだと思うし、意識が本質でないなら死ぬことへのどうしようもない恐怖は薄まる。でも夢を見ているときは意識を手放すことが怖い。こんなことを考えても身近な人を失うことは本当にこわい。思考が感覚と噛み合わない。きっと認知も噛み合っていないんだろう。現実を都合よく解釈することだけ上手くなってしまった。
自分の苦しみがなにかしらであってほしいと思う。周りとの齟齬に名前が欲しい。他人がこわいことも、頑張れないことも、ひどく落ち着かない気持ちも、なにをしていても不安になることも、いつまでも幸せになれないことも、ついに耐えられなくなってきてしまった。誤魔化して先送りにしたたくさんの問題が定期的に足を引っ張ってくる。自分のつらさと向き合いたいと思いながら機会がなくて、勇気もなくて、とりあえず大学生になってからゆっくり向き合おうと思っていたのに、また悪い癖がでて大学入試に殺されそうになっている。人がわたしのことをいくら愛してくれても最後は自分で決めないといけない。最後は自分で決めていいはずなんだ。迷惑をかけても心配をかけても幸せになる道を選びたい。
愛が人を救うとは思わないし、でも一緒に幸せになりたい。だからいなくならないし、これからも最後まで逃げない。ひとりで幸せになるのって簡単なのかもしれない。一緒に幸せになりたい人がいるからこんなに苦しいのかもしれないな。少し救われるような、だけど歪んだ解釈をしたような気がする。結局自分らしくしか生きられない。もう少しだけ耐えるよ。