タイトル:冷宮
作家 :高資婷
画廊 :秋華洞
展示会 :山本有彩・高資婷 二人展
購入日 :2022年12月10日
技法画材:和紙に墨、アクリル、金泥
冷宮(れいきゅう)とは、「寵愛を失った妃を住まわせる宮殿 *1」のことで、罪を犯した后妃や側室を軟禁させることを冷宮送りとも言う。その多くは濡れ衣であり、陰謀渦巻く後宮の権力争いに敗北した妃や側室が送り込まれる。今回紹介する作品で描かれる女性は、平民が身に着けるような衣装ではなく、高貴な身分であると推測できるものの、暗鬱とした背景からここは煌びやかな宮廷とはかけ離れた冷宮であることを示唆している。しかし、この女性の頬はふっくらと柔らかで、血色は良く、長きにわたり過酷な生活を強いられてきたのではないのだろう。どこか幼さが残っており、自ら陰謀を仕掛けるようには見えない。天真爛漫という言葉が似あう少女である。とすれば、美貌と才覚を恐れた皇后は自分を脅かす存在になる前に先んじて手を打ち、この少女を排除したのかもしれない。
《冷宮》で描かれる女性は焦点が定まらず、長い髪を右手でつかもうとする仕草は、上村松園の《花がたみ》*2 をオマージュしたものである。継体天皇に恋焦がれる照日前は、皇子の時代に貰い受けた花籠を持ち、継体天皇の行幸の列に現れるが、本心を失い狂女と化していた。《花がたみ》は謡曲の花筐になぞらえた作品である *3。狂人を描くために岩倉の精神病院を取材した松園は、「狂人というものは、静かに坐っていたり、何かこつこつやっている姿をみていると、(これが狂人か?)と思うくらい、常人と変ったところを感じない *4」と述べている。しかし、《花がたみ》は一瞥しただけで、虚ろな表情からは普通ではないと誰も感じるだろう。そもそも狂人という用語が相応しいかは別として、「感情の自由を失った彼らの身内に、嬉しい、哀しい、憤ろしい、ということもあまりないのではなかろうか」という松園の観察は鋭く、「狂人の顔は能面に近い」とする分析は慧眼である。《花がたみ》は松園がどのように女性を描くべきか苦心していた頃であるが、精神の内奥に迫る傑作と言えよう。一方、《冷宮》で描かれる女性は、心ここにあらずという様子であるが、精神的に常軌を逸しているとは感じられない。むしろ純粋無垢な少女から、権力闘争に身を置かねばならない自らの運命を悟り、ライバルを排斥しても生き抜く後宮の狂女に変貌する一歩手前のように思える。皇帝の寵愛すら道具でしかないと割り切る怖さ。この寸刻の後、少女は自ら常人であることを捨て去ってしまう。格子に隠れる妖怪が目を覆う姿は、繰り返す惨憺たる後宮の歴史を嘆いているようだ。
展覧会風景①
この作品は《花がたみ》のモチーフや凛とした雰囲気のみならず、松園の技法を検証し、現代に活かすという側面が大きい。作者の高資婷さんは、「絹本における美人画の白肌と髪の生え際の表現と素材‧技法に関する研究-上村松園を中心に-」とする博士論文を執筆し、松園を技術的な観点から研究してきた。論文は京都芸術大学の機関リポジトリに掲載されているので、一読するとより深く作品を鑑賞することができる *5。要点を述べると、作者は菱川師宣や喜多川歌麿らに代表される浮世絵初期には、白肌の立体感と生え際の暈し表現がほぼされてないことを発見し、その理由を写実的な西洋絵画の流入だけではなく、胡粉や墨、岩絵具等の技法が発展したことに求め、絹本の手織り・機械織りやドーサ等の使い分けが重要であることを模写制作の過程において明らかにした。論文には模写に用いた試料が掲載されているので素人にも理解しやすい。また、高資婷さんの卓越した髪の表現は、下地に茶色味のある粒子が小さな油煙墨、仕上げには青みのある粒子の大きい松煙墨を用いること、髪油は墨と膠を混ぜた艶色で表現すること、さらには下地を先に暈しその上から絵具や色をかける松園独自のテクニック等の研究成果が応用されている。日本画・洋画にかかわらず素材が多様化した現在は、アートシーンにおいて画材や技法の研究及び応用は顧みられなくなってきた。芸術と科学は分離して久しいが、芸術の根幹をなすのは画材とその応用である。《冷宮》は浮世絵から上村松園や鏑木清方へと続く美人画の系譜を継承し、現代に生きる我々に適う美意識に昇華した美人画として位置づけられよう。
当サイトMY ART ROMでは現代の美人画として、大竹彩奈さん《音もなく》、山本有彩さん《蕭蕭たる慈雨》及び《柔らかな祈り》を紹介している。いずれも《冷宮》と同じく絹本である。日本画の支持体としては麻と楮を原料とする厚手の雲肌麻紙が多く用いられる傾向にあるが、美人画においては現在でも絹本は作家から一定の支持を得ている。高資婷さんは雲肌麻紙を使った自身の作品である《脱皮》について、先の論文で「硬くて張り詰める美人画になってしまった」と評している。思うに人物を描く場合、当然ながら人肌そのものを再現することは不可能であり、その画材と描き方によって、人肌と同じような感覚を抱かせるかが勝負となる。技術的な観点からすれば、滲み具合や筆運びの容易さ等が影響すると思われるが、絹という素材は本来的に人肌に類似する仄かな温かみを感じさせてくれるのかもしれない。絹本には鑑賞者を包み込むような柔らかさがあるのだ。日本において美人画という独自のジャンルが発展し、確立されたのは、絹本と墨という素材がもたらす風合いや、面相筆による細く鋭い線も要因かもしれない。この点からも高資婷さんの研究は日本画、特に美人画の領域を発展させるうえで有益である。
では、鑑賞者の眼に《冷宮》はどのように映るのか、あらためて鑑賞していこう。やはり最初に注目すべきは髪である。生え際の暈しは、大竹彩奈さんや山本有彩さんの作品からも見受けられる。部分的に髪を一本一本細かい線で描くことで、リアルな髪を表現していることも共通している。しかし、高資婷さんが描く髪は、大竹彩奈さんや山本有彩さんとはかなり違った印象を受ける。髪のボリューム感が圧倒的に強いのだ。上村松園の作品を確認すると思いのほか、髪はボリュームがあることに気がついた。髪の雰囲気は松園の技術を継承していることがわかる。ただし、当時は髪を結うのが普通であるため、松園が描く髪は面積としては広くはない。また、髪油を用いるのが一般的であったことから、髪に艶があるのも当然である。それに比べると《冷宮》の女性はかなり特異な存在となる。冷宮と言えば清朝の紫禁城がイメージされる。清朝の高貴な女性の髪型は、髪を持ち上げて左右にまとめた両把頭が有名であり、西太后と言えば想像しやすいだろう。しかし、《冷宮》の女性は髪を解き、無造作に広がっている。振りほどかれた長い髪は狂女を表現していると推測される。また、宮中の因習や后妃に対して怯まない決意の表れとも解釈することも可能だ。さらに別の見方をすれば、現代的な美人画のありようを追求しているように考えられる。もし両把頭のような髪型を描けば、時代性に束縛されかねない。
狂という精神状態を、美しさを損なわず現代人の感覚にも伝わるように描くにはどうすればよいか。美人画において髪はもっとも魅力的な部分であるが、強い黒は画面構成を破綻させかねない難しさが潜む。松園の技法は髪油を用いて結う当時の髪型には合致しているものの、現代の髪形にそのまま用いると重苦しくなってしまう。《冷宮》を観察すると、その弱点を克服するための工夫が施されていることがわかった。一つ目は、赤茶色を含ませることで、ふんわりとした印象に仕上げていることである。近寄って眺めると、赤茶を帯びた黒を下地とし、その上に濃い黒を重ねているように見える。清朝に髪を染める風習はない。松園の時代の人も赤茶を含む髪には馴染まなかったはず。しかし、現代の感覚からすると、仄かに赤茶を帯びても違和感はない。二つ目は、艶のあるラインを入れることで、髪の流れを表現していることである。画面に近づくとかなり強い艶であることに気づく。ところが、光の当たり方で違いはあれ50cmから1mほど離れるとその艶がふわっと一瞬にして消え、軽やかな髪の流れのみを感じるようになる。これは今までに味わったことのない不思議な感覚である。三つめは、毛先の表現に注目したい。浮世絵にしろ上村松園や鏑木清方にしろ、日本の美人画は髪を結っているので、毛先を描くということがなかった。源氏物語絵巻のような十二単を纏う女性は腰まで届く長髪であるが、毛先は直線に切り揃えられている。一方、《冷宮》の女性の振り乱れた長髪は対局にある。九尾の狐のように四方八方に舞う髪は、怨念が宿っているようにすら感じられる。しかし、毛先までしなやかで瑞々しく輝きを失っていない。仄かに暈された毛先は軽やかで美しく、彼女は完全には狂人に至っていないことを暗示している。
次に、顔立ちに注目してみよう。日本画においては、かなり立体感のある肌をしているのが特徴だ。額や頬の白さが際立つ一方、朱色や臙脂の微妙なグラデーションにより血色のある生身の肌も感じさせてくれる。すっとした鼻筋の線は伝統的な日本画を引き継ぎ、眉や額の生え際は近代の暈かしの技術を用いながら、顔立ちは現代風である。厚ぼったい唇は近代までの美人画には見られない。唇は紅を塗ったというより、若々しい血色の良さを感じる。冷宮送りになる前は、さぞ健康で活発な女性であっただろう。瞳は白いハイライトのほか、髪と同じく艶のある小さな黒点が打たれているのも見逃せない。また、薄暗い背景の効果もあり、白い肌はより鮮明に映る。遠くを見つめる瞳、わずかに開いた口、心ここにあらずといった様子だが、生気は失われていない。
展覧会風景②
そっと髪をつかむ右腕は、松園の《花がたみ》を意識したものであるが、構図としても効果的である。鑑賞者の視線は、最初は顔に寄せられ、次に髪の流れに沿って右手に誘導される。その後、腕を伝って袖へと向かうことになり、「く」の字型に移動する。視線が真っ直ぐ下に落ちるのではなく、髪を持つ右手で一旦止まることでリズムが生まれる。持つという感覚が鑑賞者にも伝わってこよう。髪をつかむ仕草は心を落ち着かせるための無意識の行為かもしれない。逆に言えば不安の表れでもある。この髪を手放した瞬間、少女は変わってしまうように思えてならない。
高資婷さんの作品でさらに注目したいのは衣装の質感である。油絵ではいわゆる静物画のようにガラス、陶磁器、衣類、果物等を的確に描き分けることが画家の技量として問われた。使われない楽器に積もった埃、グラスに反射して映る部屋の様子など目を見張る作品も多い。しかし、日本画は線描が主となってきたことや写意が重要視されてきたことから、個々のモチーフの質感を描き分けることはあまり考慮されなかったように思える。それに対して、この作品では本物の刺繍と見紛うほど精緻に質感を表現している。さらに袖からみえる白い生地は冷宮の寒さに耐えるために着込んでいるのだろう。ふわふわとした暖かい生地の感触が伝わってくる。狐色の着物は地味であるが、金の刺繍が施され身分の高い地位にあったことをうかがわせる。また、太く大胆な線と陰影によって重量感を生み出し、ボリュームのある髪と調和している。臙脂の襦袢には描かれる蝶は、自らの再生を願う意図かもしれない。胸につける装飾品はいわゆる玉と呼ばれ、翡翠や孔雀石、瑪瑙などの貴石を加工したものである。草花にも渦巻く水流にも見える文様は、魔除けや願掛けの力があるのだろうか。台湾や中国の伝統的な文様なのかもしれない。さらに、この装飾品は、絵画の構成として鑑賞者の視線を受け止める役割がある。右腕を伝って「く」の字型に進む流れと襟元に沿って降りてくる二つの視線が合流する位置にあり、画面を引き締めてくれるのだ。
背景の格子は、墨を用いて微妙に色彩を変化させることで、冷宮の寒さや湿り気を見事に表現している。一面の闇とするのではなく、濃淡があることで臨場感が増すだけでなく、黒髪をより美しく感じられるよう配慮されているのも良い。そして、暗がりの中に二体の妖魔らしき姿が格子に隠れていることに気づく。画像では妖魔の存在が目立つのだが、現物を遠目から眺めると何かの影のように見え、一見しただけでは判別できない。近づいて初めて異なる姿を捉えることができる。高資婷さんの作品にはこのような小さな妖魔や妖怪が描かれることが多い。ただし、妖魔と言っても愛らしさを持つキャラクターのように感じられる。彼女は近代の美人画に比べリアリティのある姿を追求していると思われるが、空想的なキャラクターが登場するのは何故だろうか。美人画はその名の通り美しさに着眼点を置いている。しかし、完全無欠の美はどこか空虚に見られかねない。美しいものと醜いものが混在するのが世の常であり、妖魔はその表出と言えよう。また、彼女が描く物語のような世界に鑑賞者を引き込む。非現実的な妖魔や妖怪というキャラクターがかえって絵の世界では現実的な存在に感じるのである。あらためて《冷宮》を眺めると二体の妖魔が作品をより意味深いものにしてくれることに気づいた。今回の作品は山本有彩さんとの二人展であったが、彼女の作品にも可愛らしいキャラクターが描かれることがある。《新蛍》は松園のオマージュ作品であるが、蛍は少女に擬人化され、高貴な美に可愛さが加味されている。キャラクターという概念は現代人、特に日本ではあまねく受容されており、非常に興味深い。「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵」という松園の精神のもと、美人画のありようは絶えず変化し続ける。《冷宮》はその過程でもあるのだ。(2023年3月5日)
*1 白水社中国語辞典 https://cjjc.weblio.jp/content/%E5%86%B7%E5%AE%AB
*2 松伯美術館 https://www.kintetsu-g-hd.co.jp/culture/shohaku/collection/collection.html
*3「上村松園・松篁・淳之 三代展 近代が誇る女流画家とそれに連なる美の系譜」(東京富士美術館)2020年2月27日発行
*4 花筐と岩倉村「青眉抄・青眉抄拾遺」(講談社)1976年11月10日発行
*5 京都芸術大学機関リポジトリ https://kyoto-art.repo.nii.ac.jp/
上村松園
《楚蓮香》部分