タイトル:蕭蕭たる慈雨(部分)
作家 :山本 有彩
画廊 :秋華洞
展示会 :日本のヌード
購入日 :2022年7月22日
サイズ :F10
技法画材:日本画
「蕭蕭たる慈雨」は2022年7月に秋華洞で開催された企画展「日本のヌード」に出品された作品である。同展は、池永康晟、岡本東子、大竹彩奈、沖綾乃、高資婷、山本有彩、松原亜実、北島優子という日本画を牽引する作家による美の競演であった。一つのテーマをもとに開催される企画展は、作家がどのような意図を持っているのか推測し、見比べることで作品の魅力が倍増されることは言うまでもない。「日本のヌード」の作家コメントからはいずれも「肌」をどのように描くかに力点を置いていることがわかる。その一方、ヌードを描く観点に違いも見受けられる。これは作品を見たときに直感したことでもあった。以下、コメントを抜粋してみよう。
・岡本東子さん
「見られる側ではなく、見せる側からの視点で描いてみたかった。ヌードは作者の視線を強く感じさせるものが多いが、そうではないヌードの有り様を作品にしてみたくなったのだ。自分をむき出しで誇示できる女。その姿を借りて、劣等感を打ち捨てて堂々と自己を愛したい、凜として揺るがない人間として在りたいという思いを表した。」
・大竹彩奈さん
「ヌードの面白いところは、あれこれ説明しなくてもモデルが自身を否応なく表現してしまうことだと思います。何歳くらいのどんな雰囲気の人か、ヌードになることへの恥じらいはあるのか、否ないのか。こちらが何かを意図して描くよりもモデルからのメッセージを汲み取ることで作品が出来上がるように思います。」
・北島優子さん
「『私らしく生きている』意志のあるひとのヌードが描きたいと思いました。element は「生物の本来の生息地」という意味ですが、「本来の活動地域」「本領を発揮出来る場所」などというニュアンス。女性の纏うハーネスは拘束をイメージするものであるけれど、同時に解放するものでもあるような気がします。」
企画展風景1 秋華洞Twitterより
ヌードを描くとき、服を着ている状態があり、その服を脱ぎ、裸になるという一連の流れを前提としている。積極的に又は躊躇いを持つかは別として、必然的に脱ぐという行為に重きが置かれることになる。ヌードを描くとは、裸になる行為を描くとも言えよう。岡本さんと北島さんは裸になることに主体的な意味を与え、作品の主眼としている。大竹さん、沖さん、松原さんの作品は、脱ぐ過程にあり、表情、姿勢及び仕草から作家を含め周囲に誰かが存在していること、すなわち被写体は何者かの視線を感じている。池永さんの作品は、描かれている人物はどこまでも静寂に包まれ、作品において鑑賞者以外の誰かの視線が入ることはない。被写体は裸になることにある種の安らぎを感じているようだ。これらは実際にモデルを使っているかではなく、描かれている人物から読み取れることである。その意味において、池永さんの作品も脱ぐという行為の延長と考えられる。
他方、山本さんの作品は趣を異にしている。描かれている人物に恥じらいはないことはもとより、服を脱ぐという行為に特段の意味を付与していないように思える。むしろ、この被写体は服を纏っている姿の方が想像しにくい。至極、自然体であり、古事記や日本書紀といった神話の場面を描いたようにも感じられる。ヌードを描きながら、裸になる行為とは完全に切り離されている。ヌードという共通のテーマにおいて、他の作家とは別の観点からアプローチしているのは興味深い。これは他の作家と比較して気付いたことであり、企画展の醍醐味であろう。以下、山本さんのコメントを抜粋する。
「(ヌードは)日常でも非日常でもなく、その間に位置するような不思議な世界観を描きだすことのできるテーマであるように思えた。(略)ヌード画でしか表現できない日常と非日常の間の幻想世界を表現できていれば幸いである。」
企画展風景2 秋華洞Twitterより
確かに「蕭蕭たる慈雨」は日常とも非日常とも捉えにくい。場面としては明らかに非日常であり、何かの象徴としてヌードを用いているのは容易に推測できる。一方で、完全に私たちの世界と切り離された存在のようにも思えない。極めて身近に、例えば、日々の生活で空気の存在を意識することはなくても、息をすれば当然にそこに在ることに気付くのと同じようにこの作品の写意は我々に隣接しているように感じられる。
ヌードを描く場合、ポーズが重要な意味を持つ。とは言え、あからさまに作家がモデルにポーズを指示していると感じさせる作品は、ヌードを描くことが受容された現代においては少ない。如何にモデル、それが想像上であっても、被写体は自らの意思として動かねば、人形と同じになってしまう。今回の企画展ではいずれの作品も作家の意思が、被写体に憑依した如く一つの人物が描かれている。さらに、山本さんの作品については、被写体自身も動きをさほど意識していないように感じられた。それは、あたかも仏像のようである。もちろん仏像の動きは意味を持っている。しかし、本来的にはその動きに美しさを感じるからこそ「型」として定着したはずである。この作品の主題でもある慈しみに繋がる一瞬の動きを偶然に捉えたものと解釈したい。
「MY ART ROOM」では今回の作品以外にも「柔らかな祈り」を紹介している。また、山本さんのホームページには作品が掲載されており、それらを通覧すると常に二面性を有しているように思えてならない。一つは優しさ、慈愛、可憐といった面、もう一つは鋭さ、畏怖、幽幻といった面である。山本さんの作品には妖精のような可愛いキャラクターが描かれることがあり、これは端的に可愛らしさがある。「柔らかな祈り」のように優しい表情をしている作品も多い。2022年制作では「はためく感情‐水‐」や「まばたきは水面に揺れる」も優しさが最初に感じられる作品と言ってよいだろう。しかし、その優しさは無条件に与えられるものではなく、どこか怖さや鋭さを感じる。人間の内面を完全に伺い知ることはできない。我々が見ているものは幻影なのかもしれないと一抹の不安がよぎる。この感覚は観音や菩薩の有り様に類似している。「はためく感情‐花‐」、「きみに灯をあげよう」、「磨りガラス越しの愛」は鋭さが先にあるものの、芯の強い優しさを包含している。いずれの作品も二面性の調和が最大の魅力なのではなかろうか。
あらためて「蕭蕭たる慈雨」を考察してみよう。この人物はどこか中性的な印象をうける。一般的に描かれる女性のヌードに比べ、腕の筋肉が引き締まり、しなやかで軽やかに跳躍する、いわば人体の構造美に焦点が当てられている。日本画の本領は線にあると言われるが、腰にかけてのラインより、腕の線の方が太く明瞭であることに気づいた。そのため、腕の動きが強調され、弓を射るような緊張感が生まれている。また、わずかに背を反らせることで、体の芯を意識させる。
右手は髪が絡み、指の動きも複雑になっており、鑑賞者の視線を集めやすい。作品の見所の一つと言えよう。ごく自然なポーズに見えるが、肘を真っ直ぐ伸ばし、かつ手の甲を反らせるのは意外と負担がかかる。直線的な要素に柔軟性が合わさると、メリハリによって形としての美しさが際立つ。さらに、骨を軸とし筋肉からなる体と異なり、髪は自在な動きを与えることができる。もしこの作品で髪を持ち上げていなければ、直線的なイメージが強すぎたかもしれない。「慈しむ」という主題からすれば、護る強さと包み込む優しさが必要であり、後者の表現は髪に委ねられている。曲線と自然に任せて流れる髪は実にたおやかである。右肩にのった一筋の髪は、持ち上げられた髪と楕円を形成している。円環は無条件で人の意識をなだめ、安らぎを与えてくれる。
指の動きがアクセントになっていることは誰の目にも明らかであろう。爪の先が白く、ヌードという限られた色彩のなかでは目を引く。左手は頭の後ろに隠れ、鑑賞者には見えない。右手の笛を吹くようなリズムと滑らかに流れる髪に比べれば、左腕は静かであり、凛としている。左右のバランスに配慮したのであろう。実に優れた構成である。
肩を持ち上げることで、三角筋と大胸筋による体の構造が明確になる。肩甲骨を介して腕と胴をつなぐ鎖骨、肋骨を結びつける胸骨といった構造を鑑賞者が理解しうる描き方をするのは輪郭線を重視する日本画では難しい。また、背を伸ばしているため、右胸の下にわずかにろっ骨の線も見える。古典的な西洋絵画の裸婦はふくよかであり、ろっ骨の線を感じさせるヌードは稀有である。ろっ骨の線は見方によっては痛々しい印象も与えてしまう。作者は「今作は夏の日照り続きのなかで降り出した慈しみの雨のイメージを人物像に重ねた作品である。」とも述べている。とすれば、人工的で完成された美の定義よりも、自然の原理に基づく写実性を重視する方が相応しい。
表情は凛々しさと優しさをの二面性を持つ。視線は鑑賞者に向けられているようにも、さらに遠くを眺めているようにも見える。これも山本さんの作品の特徴と言って良い。両義的であるがために、鑑賞者はその真意を求めるべく作品から目をそらすことができなくなってしまう。背景に同調するように瞳はやや緑がかって見える。また、まぶたの朱色の線も効果的である。顔だけをみれば、端正な少年のようにも感じる。山本さんの他の作品は薄化粧により顔の印象を補完しているが、この作品は素顔と言ってよく、かえって整った目と鼻の顔立ちが明瞭になるためかもしれない。
眉と髪の生え際の細やかさに高い技量がうかがえる。曲線を描く髪の効果は先ほど述べた通りであるが、背中まで真っ直ぐ伸びているのも見逃せない。長く下ろした髪により、背筋を伸ばし、やや体を反らせたラインが強調される。顔から体に目を向けると、後ろ髪は見落としがちであるが、画面の安定させる重要な役割を担っている。もし後ろ髪がすべて隠れてしまえば、どこか定まりどころのない構図に陥るおそれがある。絵画において、髪は抑揚と流れをつけるためにあると考えていたが、それは一つの要素に過ぎないことに気づかされた。この作品における長髪は慈雨がもたらす包容力の象徴として描かれているのかもしれない。ほのかに湿り気を帯びた長い髪が霧雨を思わせるのだ。
白い首飾りは、この作品で唯一の人工物である。真珠や宝石のように丸みを帯びているのではなく、十字形というのもポイントである。短いが直線であり、印象的である。画面構成としては、鑑賞者の視線をひきつけるとともに、流れを一旦止める効果をもたらす。装飾品を身に付けることによって、より人間らしさが感じられるのは不思議だ。首飾りの意図は解釈に幅があろう。それがまた絵画の楽しさでもある。
背景についても、山本さんの作品は今回の企画展でも趣を異にしている。日本画はもともと余白を大事にするが、特にヌードを描く場合は背景は無地、単色又は装飾的な要素を入れるに留まり、具体的なモチーフが描かれることは少ない。純粋にヌードそのものに焦点を当て、具体的な状況は鑑賞者に委ねる趣旨であろう。余計な描写は野暮とも言える。しかし、山本さんの作品は慈雨の象徴としてヌードを用いていることから、そのような束縛はなく、霧雨が舞うなかでおぼろげに輝く植物が描いている。見方を変えれば、慈雨に濡れる草木こそが主役と言えなくもない。雨粒それ自体を明瞭に描くのではなく、雨につつまれた雰囲気を表現しているのもこの作品の魅力である。夏の日照りの後に降る雨は、「喜雨」とも言う。雨の強弱は様々であるが、濡れた植物の葉が薄日に照らされることで、雨の存在を示してくれる。
背景の植物について作者に尋ねたところ、白山の山中に生えていた実が赤くない南天を意識しているが、特定の何かというよりは「自然下にある植物」といったイメージ的な面が大きいということであった。白山は石川県、福井県及び岐阜県にまたがり、古来より信仰の対象となり、修験道の場とされてきた。常緑低木の南天は、主に関東以南の各地に広く分布し、冬に赤い実をつける。6月~7月に小さな白い花を咲かす。南天と言えば赤い実が有名であるが、なぜ白い花の時期を選んだのだろうか。夏の恵みの雨という設定に合わせたとしても、南天は白山の植生の一例にすぎない。色味のある花を選択することもできたはず。では、仮に赤い実に変換したらどうなるか。指し色としては目立つ。しかし、主人公たる人物の淡い肌の色を打ち消すことになりかねない。ヌードを描くということは、必然的に肌の美しさをどのように表現するかにたどり着く。その肌には温かい血が脈々と通っていることが感じられる。「蕭蕭たる慈雨」の神話のような雰囲気は、肌の微熱によって雨は靄となり、ぼんやりと立ち込めているためかもしれない。この淡く優しい肌の色に南天の赤は強すぎるであろう。
作者が述べるようにこの作品を鑑賞するに際しては、必ずしも南天であることを認知する必要はなく、むしろ種々の樹木、あるいは其処に住むであろう昆虫や動物といった生命の枠組みを意識する方が相応しいように思える。「蕭蕭」とは、もの寂しく感じられるさま、雨や風の音などがもの寂しいさまを意味する[1] 。欝蒼とした森のなかで慈雨をまとうかの如く立つ姿は、ほのかに輝き、何事にも怯まない凛々しさ、生きるという純粋さ、そして慈愛に満ちている。(2022年8月31日)
[1]コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%95%AD%E8%95%AD-531974
(余談)センリョウ、マンリョウ
南天の写真がなかったので、外観が似ているセンリョウ、マンリョウを掲載しました。いずれも冬に実がなります。南天はぶどうの房、マンリョウはさくらんぼのように実をつけます。センリョウの実は上向きで、この写真のように黄色もあります。写真は千葉工業大学のアプリ「ハナノナ」で撮影しました。
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