・1996年
東京都新宿区で生まれる。梅雨の季節に生まれたことで,その後雨男としての人生を歩むことになることを決定づけられる。祖父宅があったことから,東中野駅から徒歩約10分,高田馬場駅から徒歩約20分,新宿駅まで自転車で行けるという,大人になった今考えるととてつもない立地およびラーメン激戦区に住んでいた。
・幼少期
電車や塗り絵,本を読むことが好きなごく普通の幼少期だった。現在は宇宙物理学が専門だが,幼少期には(だけでなくこれまでの人生でも)宇宙関係の本や図鑑を読んだ記憶はほとんどなく,好きな図鑑は昆虫(いまでも触れない)と恐竜だった。
3歳の頃,幼稚園の教室で転んで前歯を折った。わずかな期間英会話を習っていたことがあるのだが,コミュニケーションが取れないということがストレスになりすぎたのか,英会話のレッスン中に教室で嘔吐したという経歴を持つ。今でも英語は大の苦手だが,幼少期から変わらなかった。
当時,初代デジモンアドベンチャーが流行っており,例に漏れず私も大好きだった。幼少期の将来の夢はグレイモンだった。父親や叔父がかなりのゲーム好きだったこともあり,生まれた家にはスーパーファミコン・ニンテンドー64・ゲームボーイカラー・初代プレイステーション等の当時の有力なハードは一通り揃っており,サブカルについては良い環境で育った。よく覚えているゲームはマリオカート64や電車でGO!,テトリス,初代ぷよぷよ,カービィのピンボールなど。5歳頃,初めて両親に買ってもらったハードはワンダースワンである。
・小学生時代
大久保駅近くの新宿区立淀橋第四小学校に入学する。新宿ということもあったのか,同級生には開業医の子どもから日本語が苦手な外国からの転入生・普通学級で学ぶのがなかなか困難と思われる児童などが同じ教室におり,今考えると多様性がありすぎてかなりカオスな小学校だったと思う。基本的には友人と外で遊んだりゲームをしたりすることが多い子どもであった。小学校1年生のときにポケットモンスタールビー・サファイアが発売され,ポケモンデビュー。また,この頃からコロコロコミックや週刊少年ジャンプ・サンデーを読み始め,マンガとの付き合いが始まる。小学校に入学する前後から,当時流行っていたテニスの王子様の影響でテニスを習い始める。結局,テニスは大人になった今でもちまちまと続けている。
小学校6年になるタイミングで,家庭事情で千葉ニュータウンに引っ越し,印西市立小倉台小学校に転入する。北総線沿線の中でも開発が急速に進んでいた街だったので環境や治安は非常に良く,(電車の運賃が高いこと以外)生活には大きな不便はなかった。この後大学卒業まで千葉ニュータウンに住み続ける。
・中学時代
中学受験を経て,専修大学松戸中学校に入学する。中学受験は親に勧められたわけではなく,友人から話を聞いて楽しそうと思って自分から言い出したらしい。そのため両親から口うるさく「勉強しろ」と言われた覚えはなく,小学生並みに誘惑に負けつつそこそこやった結果そこそこの学校に進学することとなった。中高一貫校だったので高校受験がなく,中学生時代はひたすら友人とマリオカートDSをやっていた。学校の帰りにはどこかのフードコートで遊び,休日には誰かの家に集まるなど,非常に平和でいい時間だった。中学受験時代はてんでダメだった数学・理科に対してなぜか自然と苦手意識がなくなってきたのが中学生時代である。
中学校2年生の終わりに東日本大震災を経験する。これまでの人生の中でも最大の揺れであった。部活が終わり友人と帰宅している最中に被災したが,屋外でも立っていられないくらいの揺れであった。「待てば帰れるだろう」と安易に駅に向かったが一向に電車が動かず,車内で待っている途中に,ガラケーについていたワンセグで津波の映像を見て只事ではないことを感じ取った。この日は徒歩圏内だった友人宅に向かい,友人の父親に車で送ってもらって夜21時ごろ帰宅できた。普段なら3,40分で着くはずの道だが,地震直後は渋滞がひどく,またコンビニや薬局からも一瞬で食料品が消えていたことを覚えている。身の回りには液状化現象などの被害を受け,しばらく大変な思いをした友人もおり,災害を初めて身近に感じた瞬間であった。
・高校時代
中高一貫校だったためクラスの様子などは変わらないが,部活などでは高校入学組の新しい友人との関わりができる。高校時代の思い出の8割は部活である。中学時代まではゲームやマンガに触れる時間も多かったが,高校時代からは部活が忙しくてそういった時間も減っていた。週5〜6日くらいは練習があったが,当時は自分含め部全体が勝つことに対するモチベーションが比較的高く,特筆するほどの成績は残せなかったが真剣に打ち込んでいた。
高校生の頃,物理の授業中に,先生がときどき素粒子や宇宙の話をしてくれたことをきっかけに,宇宙物理学や素粒子物理学に興味を持つようになる。ただ,「なんとなく面白そう」以上の感覚はなく,自分から進んでブルーバックスやニュートンを読むといったこともほとんどなかった。高校2年に上がるタイミングで文理選択をするのだが,当時興味があったのが漢文学と物理学だったため,国語と物理の先生にはしょっちゅう相談に行っていた。最終的には,国語の古川先生に「君は物理の方が向いてると思うよ」と言ってもらったことで理系選択を決断する。今になってみると,自分の特性をよくわかった上でこの言葉をくれていたと思うので,古川先生には感謝するばかりである。
中学校・高校時代は,それ以外にも,6年のうち5年間担任としてお世話になった第二の母親ともいうべき岸田先生や,私の人生に大きな影響を与えてくれた物理の小貫先生,私の才能を常に信じて応援してくれた数学の徳山先生,色々な世界を見せてくれた英語の五味先生など,大変に多くの先生にお世話になった。特に岸田先生は,自分で納得した行動しかしないというこだわりの強さをよく理解してくれ,進路や勉強などについてやりたいようにのびのびとやらせてくれたおかげで潰れずに済んだ。少なくとも自分の周りでは,生徒1人1人の特性をよく見て,柔軟に相談・助言をくれる良い先生たちばかりであったため,とても良い環境だったと思う。
・大学時代前半
高校時代はなんの意味もなく東大を目指していたのだが,自分の能力では無理なことを早々に悟りすぐ諦めた。死ぬ気で頑張って京大を目指せば良かったというのが人生で唯一後悔していること。高校時代に色んな先生にお世話になっていたことや,好きだった物理と関わりのある仕事がしたいと思っていたこと,両親に「国立大学じゃないと経済的に無理」と言われていたことが重なり,手堅く合格できそうかつ実家から通える範囲である東京学芸大学を志望し無事入学する。実家の千葉ニュータウンから片道2時間通学を4年間続けたため,今でも長時間の電車移動が全く苦にならない。入学後,テニスサークルに入るのだが,大学生特有の訳のわからないつまらない雰囲気のサークルだったため,3ヶ月ほどで行かなくなりサークルを辞める。こっちはただテニスがしたいだけだったのに...。
大学1,2年生の頃は本当に虚無の時間を過ごした。空きコマは図書館のふかふかな椅子でゲームをしたり昼寝をしたり,友人宅で麻雀をしていたり,放課後はバイトをするだけの生活であった。実家暮らしだったため,大学周辺の街や一人暮らしをする友人たちのコミュニティにもそこまで深く馴染めたわけでもなかった。
・大学時代後半
大学3年生に進級する際に研究室配属があり,素粒子物理学・宇宙物理学を専門にする小林晋平さんの研究室に所属することとなる。ここが大学生活での転機である。他の研究室と比べて,小林研は勉強が大変という評判があり,放っておけばサボってしまう私は自分を厳しい環境に置くため(宇宙物理学もやりたかったし)に小林研を志望した。研究室配属が決まった大学2年生の終わりの段階で,初歩的な大学数学(線形代数,微積分,フーリエ解析,複素解析など)を結構な量勉強してくるようにとの課題が出され,ようやく真面目に勉強をし始めるようになる。研究室配属後に初めてゼミをした本は佐藤勝彦先生の相対性理論(岩波)で,いわゆる物理の教科書の"読み方"を学んでいった。卒業研究ではmassive gravityというgravitonに質量を与えた修正重力理論のもとでの重力レンズ効果を扱い,ほぼ初めて答えのない問いに触れた。また,小林先生のアツい言葉を常日頃から受けられる環境だったということもあり,教育・普及活動に関する関心も高まっていった。小林先生には今でもお世話になっており,自分の人生に最も大きな影響を与えてくれた先生なので多大な感謝をしている。
この時期はまだ中高の教員を目指していたが,物理を深めるために修士課程には進学する意思は入学以前から元々あった。学芸大は教員を目指す人が多かったため,大学院に進学する人はそもそも少数派,その中でも外部の大学院への進学を目指すというのはさらに少数派であった。院試直前にちょうど3週間の教育実習があり,実習が17時ごろに終わってから,マックやガストなどで3,4時間ほど勉強をして帰るという生活をしていたのは良い思い出である。
大学院では,より地に足がついた現実的なブラックホールの研究がしたいと思い,筑波大学を受験する。というのも,学芸大で扱っていた修正重力理論などは観測的に検証することがまだ難しいため,自分にとっては"机上の空論"感がやや否めなかった。そんな中,大学3年の終わりに,東大宇宙線研で行われた宇宙・素粒子スプリングスクールに参加した。そこで1週間ほど,さこ隆志さんのもとでシンチレータ・光電子増倍管を用いた高エネルギー宇宙線の検出実験を体験させてもらい,より興味が現実志向となっていたことも,進路選択に大いに影響した。
・修士時代
修士時代の同期は自分含め7名全員が男で,とても雰囲気がよかった。皆良い意味で物理っぽくないノリの良い同期たちで,彼らにはかなり助けられた。
大学院入試の口頭試問の会場に受験票を置き忘れ,次の受験者の口頭試問が終わるまで30分ほど外で待っていたところからつくばとの関わりが始まった。当時の私は,出願書類に書く指導教員の名前が入学後の指導教員となることを知らず,志望する研究室のボスであろう梅村雅之さんの名前を適当に書いた。結局,大学院入学後に無理を言って大須賀健さんの受け入れ学生としてもらった。最初にもらったテーマは高橋労太さん(苫小牧高専)らが開発した一般相対論的輻射輸送コードの多次元化だったのだが,物理も難しいし,そもそもプログラミング経験がなかった私にとってはかなりチャレンジングなテーマであった。ここで,一通りの数値計算手法や輻射輸送に関する知識を身につけた。
M1の終盤に新型コロナによる在宅期間が始まった。ゼミや議論なども全てオンラインとなり,研究に関するモチベーションは多少低下せざるを得なかったが,なんとか修士論文までを書き切った。修論を書き終わって「さすがに投稿論文になるやろ!」と思っていた矢先,大須賀さんが私のデスクにやってきて,「高橋くん,観測イメージも計算できるようにしといてよ!」と言って去っていったことは記憶に新しい。
実はM1の中盤ごろまでは博士に進学する気などさらさらなかったのだが,同期に博士進学をする人がいたことや,研究が楽しくなってきたこと,実際研究会に行ってみたときの雰囲気がとてもよかったことで,徐々に進学を意識し始めるようになる。結局のところ,あまり深く考えずに進学し,結果的になんとかなっている。
研究時間捻出のため,この頃初めて実家を離れて,当時の彼女(現在の妻)とつくばで同居生活を始めた。というのも,大学院以降はさまざまな事情があり,実家からの経済的支援が望めず,週に3日ほど都内の中高一貫校(東京女学館中学・高等学校)で非常勤講師をして生活費・学費などを稼ぎながら研究をしていたため,少しの移動時間も惜しかったのである。現在の妻もちょうど同じタイミングで下宿を始めることとなったため,経済的負担を減らすために同居することとなった。同居初日,Amazonで洗濯機を頼んでいたはずなのに冷蔵庫が来た。
今となってはなぜあそこまで頑張れたのかわからないほど,修士の2年間はひたすら勉強をした日々だった。私は朝型だったので,毎朝8時前には誰よりも早く研究室に行き,21,22時ごろまで勉強・研究をして帰ってくるという生活だった。非常勤がある日も,6時に起きて夕方まで出勤し,17時ごろに研究室に戻ってきては夜まで勉強・研究をするという生活だった。非常勤をしながらの生活はやはり大変ではあったが,将来に生きる経験であることはわかっていたし,マルチタスク能力もかなり身についたし,自分にとっては絶対に必要な下積み時代だったと思う。この頃の経験や反骨精神は,今でも私の原動力になっている。
・博士時代
新型コロナはまだ終息しておらず,D1の終盤ごろまで学会・研究会もオンラインでの開催が続いた。博士に進学してからは,ありがたいことに文科省のフェローシップや学振DC2で生活費相当を受け取っていたため,非常勤講師は辞めて経済的・身体的にも少し楽になった。ちょうどD1の中盤ごろから初めての投稿論文を執筆し始めるのだが,これに心が折れかけモチベーションが劇的に低下する。このときは本当に研究がしんどくて,「研究なんてやめたるわ!」と企業にエントリーシートを送ったりもしていた。
そういったこともあり,博士に上がってからは,天文教育普及研究会に入会し,普及活動・アウトリーチ活動を本格的に始めた。この時の経験やつながりは今でもお世話になっており,研究だけにとらわれずに他の活動をしてみて大正解だったと思う。
D2の初め頃にようやく論文を投稿してからは,新しいテーマになったこともあり徐々にモチベーションは復活し,なんとか途中で大学院を辞めずに済んだ。投稿論文からストレートに続くテーマを選ぶべきであったかもしれないが,この頃から少しずつ自分のやりたい研究の方向性(模擬観測シミュレーション,ブラックホール時空の測定)が見え始めてきていた。なので多少無理を言って自分で考えたテーマで次の研究を進めることとなったが,当時の自分の心身の状態を保つためにこの選択は正解だったと思う。また,この頃から本格的に対面での研究会が復活し,ようやく研究の世界に足を踏み入れた感じがあった。天文学会に初めて現地で参加したのもD2の秋(新潟大学開催)とかなり遅めだったが,他大学の同期ともつながりが増え出したのもこの頃である。沖縄で開催された国際研究会では初めて対面で英語で話すという経験をした。この研究会は,大須賀さんがいなかったということもあり同期・後輩たちとめちゃくちゃ遊んだ(パラセーリングとかサイクリングとか飲み会とか)。これまでの出張で一番楽しかったと思う。D3になってからはようやく海外にも行けるようになり,欧州や中国に学会やセミナーで訪れた。自分の無力さを痛感するとともに,コロナがなくもっと早く海外の雰囲気を知れていたら若手海外挑戦などにチャレンジしていただろうなと感じたことが悔やまれる。
そんなこんなでD論を書き,無事学位を取得した。入学当初,無理を言って受け入れてもらったところから始まり,研究について何もわからない状態から手取り足取り指導してくれた大須賀さんからは様々なことを学んだので,感謝してもしきれない。また,同期である井上壮大くん(現東大PD),大滝恒輝くん(現ローマ大PD),内海碧人くん(民間就職)や後輩の尾形絵梨花さん(現東大特任助教),武者野拓也くん(筑波大),PDの朝比奈雄太さん(現筑波大PD),小川拓未さん(現茨城高専助教),恒任優さん(現上海天文台PD)をはじめ,研究室のメンバーには相当に恵まれた。ほぼ毎日昼食・夕食を共にし,頻繁に飲み会もし,日付が変わるまで色々と話し,ときには朝までカラオケや麻雀をし,つくばならではの青春を送った。
・東京高専時代
極めて幸運なことに,学位取得後はポスドクを経ず東京工業高等専門学校に助教として着任する。周囲に深く研究の話をできる同僚がいないことや,校務(高専特有のものも含めて)があることで研究にフルコミットできないことが大変なところだが,周囲の先輩教員のサポートもあり,現在までのところかなり研究に割く時間を確保できている。多くのサポートをしてもらっている分,研究業績という視点でも少しでも現任校の価値向上に貢献できればと思っている。
実質的に高校生である高専生との付き合いは,大学教員の仕事とは本質的に異なる部分だが,個人的にはそれほど苦労もなく楽しめている。比較的学生と年が近いこともあり,中にはとても慕ってくれる学生もいたりしてありがたい限りである。
・バイク
コロナ禍で暇だったのでD1のときに免許を取った。改造などはしないしツーリングも時々しか行かないライトな趣味。
初代はYAMAHA Tricker,2代目はBMW G310R。できるだけ人と被らない車種を選んでいる。
・音楽
20年来のポルノグラフィティのファン。初めて自分の意思で買ったCDはハネウマライダーのシングル。小学6年生のときに初めてライブに行って以来,1年に1回以上は必ず行っている。
その他,ライブに行ったことがあるのはaiko, flumpool, μ's, Aqours。
・その他のよかった場所
国立民俗学博物館,茨城県立自然史博物館,夕張市石炭博物館,かみつけの里博物館,藤子・F・不二雄ミュージアム,ダチョウ王国,東筑波ユートピア,大場観光ぶどう園,道の駅こすげ
・好きな食べ物
赤飯,コロッケ,ジャンクフード全般(特にポテト,ラーメン),コーラ(赤いコカ・コーラ)