Highlights of Kure City
呉は明治22年の鎮守府開庁以降、海軍のまちとして栄えました。当時、世界最大の戦艦だった大和も呉で建造され、建造時に使用されたドックの大屋根が残されています。戦後、呉は造船と工業のまちとして発展を続けており、これらの科学技術を今に伝える、大和ミュージアムが2026年4月22日にリニューアルオープンしました。また、実際に使用されていた潜水艦をそのまま展示施設の一部としている、海上自衛隊呉史料館(てつのくじら館)もみどころたっぷりです。
入館無料。かつて実際に使用されていた潜水艦「あきしお」を実物展示とし、実際に中にも入って見学ができます。海上自衛隊の歴史や掃海艇の活動、潜水艦での生活について詳しく紹介されています。
すぐ近くに、海上自衛隊の潜水艦桟橋があり、潜水艦を間近で見ることのできる公園です。周囲には、日本遺産として、旧呉海軍工廠本部前護岸、魚雷積載用クレーン、昭和町れんが倉庫群、串山防空機銃砲台トーチカ跡などが残されています。
長迫町の高台にあり、明治23年に海軍軍人戦没者などの埋葬地として開設されました。昭和61年、国から譲渡されて以降は長迫公園として整備され、園内には戦前に建立された墓碑や、戦艦大和戦死者之碑など多数の合祀碑が存在しています。公園管理事務所内では写真資料の展示もされています。
旧呉海軍工廠ドックの壁石を使ってドックの底に降りる階段を再現した「造船船渠記念碑」、旧海軍工廠の銘板などを組み合わせた「呉海軍工廠記念塔」、戦艦大和の艦橋を模した「戦艦大和之塔」などがあります。旧呉海軍工廠は、現在はJMU呉事業所となって民間大型船舶を建造しており、大和建造時に秘密保持のため設置された大屋根が今でも残されている様子を眺めることができます。
呉鎮守府が設置された際、この地にあった亀山神社を移転し、司令長官官舎が建てられました。和洋折衷様式の平屋で、洋館部分の内壁には日本で数か所にしか現存していない金唐紙を用いているのが特徴です。企画展では、ちょうど、金唐紙の修復に携わった上田尚の仕事を紹介する展示が行われています(2026/12/27まで)
呉鎮守府開庁以降、3万弱から最大40万に急激に膨れ上がった人口のため、急傾斜の土地にも家屋が建てられました。市中心部の西側にある両城地区には100階段、200階段と呼ばれる長い階段が存在します。200階段は映画「海猿」のロケ地として使われたり、現在でも消防隊の訓練で使用されています。
こうの史代「この世界の片隅に」は、呉が舞台となっており、作品中で呉市内のあちこちが登場します。
下士官兵集会所(現在の青山クラブ)、旧澤原家住宅(三ツ蔵)が比較的わかりやすいスポットです。かなり山手ですが、すすさんの家があったという設定の場所も「すずさん家(がた)」として公開されています。また、市内には、こうのさんの絵が展示されているお店も。中華そば「モリス」の絵は必見です。
江戸時代後期に、商船の誘致のため広島藩が港を拡張した際に設置された防波堤で、石造りの高灯籠が設置されていました。現在、江戸時代の高灯籠は参道の手前に移設され、代わりに高灯籠を模した灯台が突端に設置されています。
戦前の劇場で昭和30年代までは映画館として使われ、そのあとはみかんの選果場として使用されました。近年、修復がされ内部見学(有料)ができるようになっているほか、コンサートなどでも使用されます。
狭い路地に迫る「乱れ築き」の石垣が印象的な満舟寺。お寺入口付近には足長小学生の看板が設置されています。
昭和25~35年の間だけ設置されていたもので、全国でも他に数か所残っているとのことです。
本殿は、堺の住吉大社を元に1/2サイズで同じ造りとし、御手洗に運んで組み上げたと言われています。大阪商人によって寄進され、玉垣に刻まれた名前にその名残りを見ることができます。また、狛犬の台座に「若胡子屋亀女」と彫られたものもあり、当時の遊女にも大切にされていたことがうかがい知れます。
伊能忠敬が測量の際に滞在した場所で、明治以降は米穀問屋、大正以降は船具・金物店として使用されました。測量する様子が描かれた「伊能忠敬・御手洗測量之図(レプリカ)」が奥の部屋に展示されています。測量の様子を描いたもの、とりわけ忠敬自身の姿が特定できるのはこの1枚のみです。(入館無料)
鳥居は北前船を迎えるように海に向かってたてられています。かつて、神社の正面には大雁木(階段状の船着場)があり、一帯は陸揚げした物資の倉庫が立ち並ぶ町一番賑わいのある場所でした。
大長は明治中期より柑橘類の栽培が盛んになり、現在でも収穫期には忙しく選果している様子が見られます。館内では、大長のみかん栽培の歴史や、日本初のみかん缶詰などについて紹介されています。 (大長・入館無料)
音戸大橋は1961年、第二音戸大橋は2013年開通。音戸大橋は音戸の瀬戸を船が通行する高さを稼ぐため、ループ橋の構造をとっています。第二音戸大橋は徒歩でも渡れるようになっており、音戸側にはパーキングエリアと売店も設置されています。1つの海峡に二つの赤いアーチ橋が並ぶ光景は音戸ならではのものです。
平清盛が、音戸の瀬戸の開削工事を進めたとの伝説があり、工事の安全を祈って人柱の代わりに、経石を沈めたと言われた場所に「清盛塚」が建立されています。これは、村民が清盛の功績を称えて、頌徳碑として建立したもののようです。
最も狭いところで約80mという音戸の瀬戸。かつて、ここを行き来する渡船がありましたが、利用客の減少と船の老朽化のため、2023年に廃止となりました。両岸にその跡が残されています(写真は、運行当時のものを含みます)