背景と概要:当研究室では、シュレディンガーの猫の思考実験に現れるような、巨視的物体における量子状態の制御を目指して研究を進めています。特に、重い物体は原子や光子といった従来の量子制御の対象とは異なり、種々の量子重力理論の検証にも利用できると期待されるため、極めて重要な新たな制御対象だと考えられます。重い物体の振動を量子計測・制御するため、重力波観測のために発展を遂げてきた精密変位計測技術を土台として研究を進めています。
2015年9月14日、アメリカの重力波検出器によって重力波の直接検出が実現しました。重力波検出器とは、懸架された鏡(振り子)の微小な揺れをマイケルソン干渉計で計測することで、重力波(による潮汐力)を観測する装置です。当研究室では、検出器の開発で培われた先端技術に研究室独自の技術を組み合わせることで、まず初めに懸架された鏡の振り子振動自体を単一量子レベルで計測し、制御することを目指しています。大きな振り子の量子制御を実現することで、量子力学の適用範囲を極めてマクロな系に拡張すること自体が興味深いのみならず、他の物理系では実現が困難な、重力・量子の境界領域における物理学のフロンティアの開拓につながると期待されます。例えば、重力定数の精密測定・ダークマターの探索・相対論的な重力の観測・重力デコヒーレンスの検証につながります。これまでに当研究室では、重い物体の量子制御に必須となる基盤技術の研究・開発を進めてきました。詳細は下記のとおりです。
・レーザーを用いた振動子の量子計測:懸架鏡(振り子)を一端に設置した光共振器(合わせ鏡)にレーザー光を入射し、反射光の位相(あるいは強度)の変動から懸架鏡の重心振動を精密に計測することができます。光共振器を利用して機械振動子とレーザーを結合させた実験系を対象とした研究分野はオプトメカニクスと呼ばれています。振り子振動の単一量子レベルの空間分解能を実現するためには、ありとあらゆる雑音を十分に小さくし、さらに感度係数(振り子が動いたときにどのくらい大きな光信号が生じるか)を高める必要があります。変位計測の空間分解能を十分に高められれば、例えば振動子の速度が小さくなるようにフィードバック制御することで振動子の運動エネルギーを下げることができるため、究極的には基底状態が生成できます。これまでの実験の進展のまとめと今後の見通しはこちら。現在のところ、実験室スケール(テーブルトップ実験)の振動子の変位計測において世界最高性能を実現しています。
・計測に基づく振動子の量子制御:上述の光共振器の一端に設置された懸架鏡は、熱浴との相互作用(ブラウン運動)とレーザーの光圧による不可避の擾乱(測定の量子反作用)を受けるため、本質的に開放系だといえます。ブラウン運動が支配的な場合は古典開放系であり、量子反作用が支配的な場合は量子開放系となります。単一量子レベルの空間分解能を実現することは、言い換えれば、量子開放系を実現することだと言えます。私たちは、振動子のエネルギー散逸を究極的に低減することで量子開放系を実現し、冷凍機によって冷やすことなく、室温下において重い物体の量子状態の推定や制御をしています。当研究室ではこれまでに、(光学トラップされた)振り子の量子状態を推定するアルゴリズム(量子ウィーナーフィルタ)を慶應義塾大学の山本研究室と共同で開発し、巨視的な振り子の位置のスクイーズ状態の生成に世界で初めて成功しました。これは、重い物体の量子制御の原理検証に成功したことを意味します。
なお、量子状態を実現した後レーザー光を止めれば、(近似的に)重い物体の孤立量子系における運動を検証可能な新奇な実験系が実現できます。従来の量子力学の対象と異なり、重い物体の場合には重力の影響を考慮に入れる必要があります。そのため、先行研究とは質的に異なる興味深い系が構築できると期待しています。
arXiv 2020, N. Matsumoto and N. Yamamoto
・精密重力センサー:振動子の精密変位計測とは、視点を転じれば、振動子に加わる種々の外乱に対するトランスデューサだといえます。例えば、重力波検出器では、宇宙から飛来する重力波(重力の放射現象。電磁気における電磁波に対応)のエネルギーを人類が目で見ることのできる電気信号に変換しています。振動子を2つ隣り合わせに並べた場合には(一方がセンサーで他方が重力源)、重力源が生じる重力(重力波ではない)を電気信号に変換することが可能となり、極めて高性能な重力センサーとして機能します。これは、度量衡分野で重要な役割を果たすと期待されます。(古典的な外乱が無視できるくらい小さくなると上述の量子開放系が実現します。)
重力定数は全ての物理定数の中で最も古くから測定されていますが、その測定精度は最も低いことが知られています。従来の研究では、ソースマス(重力源)として、共通して質量の大きな物体が用いられてきました。大きな物体の重心位置等を精度よく決めることは困難なため、測定の系統誤差が大きくなり、精度を制限してきました。そのため、精密に作製された小さな機械振動子の間の重力を測定すれば、系統誤差を低減できると考えられます。当研究室でこれまでに実現した変計測精度から重力センサーの性能を見積もった結果、100ミリグラム程度の物体が生成する重力を1秒程度の測定時間で計測可能な感度を備えていることが分かりました。用途は限られていますが、これは世界で最も高性能な重力センサーです。現在、重力源を理化学研究所の先端光学素子開発チームと共同開発し、小さな振動子の重力の精密測定に取り組んでいます。
Physical Review Letters 2019, Matsumoto et al.
・低散逸振動子の開発:揺動散逸定理から、振動子のエネルギー散逸とブラウン運動を生じる熱的揺動力の間には比例関係があります。つまり、ブラウン運動による変位計測精度の悪化を避けるためには低散逸な振動子を開発すればよいため、世界中の研究グループで様々な振動子(振り子、ねじれ振り子、薄膜、カンチレバー、フォトニック結晶、浮上球など)の低散逸化の競争が長年の間繰り広げられています。ブラウン運動などに由来する熱雑音を下げるためには冷凍機で冷やす手法もありますが、同様にエネルギー散逸を下げることでも熱雑音を下げることができます。
当研究室では、これまでに東京理科大学のSadgrove研究室のナノファイバー(直径~500ナノメートル、長さ数ミリメートル)の作製技術を土台として、溶融石英のテーパーファイバー(直径1マイクロメートル、長さ5センチメートル)を懸架線として利用しています。この超細長線を鏡にレーザー溶接することで懸架鏡を開発しています。2020年には、テーブルトップ実験の振動子の中で、世界で最も低散逸な振動子(振り子)を開発することに成功しました。ちなみに、大型実験も含めると、最も低散逸な振動子はLIGOの振り子です。
Physical Review Letters 2020, Cataño et al.
・幾何光学トラップ(共振器の光軸変化による振動子の光学的トラップ):2017年、重力波の直接検出の成果がノーベル物理学賞の対象となりました。その翌年には、光ピンセットと呼ばれる、微小な物体を光学的に捕まえる手法の研究成果に対してノーベル賞が授与されました。実は、光共振器の一端に設置した懸架鏡の振り子振動も光圧によってトラップすることが可能であり、これは光ばねと呼ばれています。当研究室では、光共振器の幾何学的な形状を工夫することで懸架鏡の回転振動もトラップできることを独立に発見し、実証することに成功しました。
Optics Express 2014, Matsumoto et al.
・未知の物理の探索:上述の重力センサー以外にも、超軽量ダークマターの観測にも応用できると期待されています。当研究室ではこれまで、バークレー研究所のDaniel Carney達と共に様々な機械振動子(振り子、光学浮上球、薄膜など)を用いたダークマター探索に関する議論を進めてきました。
Quantum Science and Technology 2021, Carney et al. (35人中24番目にN. Matsumoto)