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松原寛

明治25年、長崎県南高来郡有家村(現:南島原市)に父・松原佐一、母・ツキの次男として誕生。

小学生の頃、長崎市へ転居。転校した米国ダッチ・リフォムド系ミッションスクールである長崎市私立中学東山学院を主席で卒業する。その後、第一高等学校に合格し、父の反対を押し切り上京するが、校風に慣れず、図書館に通い思索にふける日々を送る。東京帝国大学英文学科に進学するが、哲学者・西田幾多郎を慕い、大正5年に京都帝国大学哲学科へ編入学した。

西田幾多郎や田辺元ら「京都学派」全盛期の京都帝国大学で学んだ松原の卒業論文は、400字詰め原稿用紙1000枚に及ぶ大作となった。

最も、後に松原が「私は京都大学の教授達からは容れられなかったものだ」と語っており、松原は銀行に就職するが、半年で辞め、友人の勧めで大阪毎日新聞文芸部の記者となる。

記者時代に取材で上京した折、京大同期の円谷弘と偶然に再会。それをきっかけに、大正10年、新設されたばかりの日本大学法学部美術科(日藝の前身)で教鞭を執る。

大正11年、美術科主任となった松原は、実技重視のカリキュラムの実装や、日本の大学としては初めてとなる映画を教科の課程に採用するなどの学則改正を試みた。

終戦後、GHQによる教職追放政策をうけて、昭和21年3月に日本大学教授及び芸術科長を休職することとなる。

昭和24年、新学制による日本大学が認可され、芸術学部が誕生。昭和27年に教職追放が解除され、昭和32年3月に日本大学芸術学部最高顧問に就任。同年9月、急性肺炎のため逝去。享年65。



※参考資料

日本大学の歴史(https://www.nihon-u.ac.jp/history/forerunner/matsubara/)

ソコロワ山下聖美「松原寛と日藝スピリット」(『日藝百年史』)

松原寛と日藝百年」 展示会場

Kan Matsubara and the Centennial History of Nihon University College of Exhibition hall

「松原寛と日藝百年」展示会場動画

松原寛・肖像写真

(所蔵:松原剛)

彫刻家・柳原義達

松原寛先生之像



松原寛・著作

松原寛・遺稿ノート

松原寛・生原稿

日藝百年を物語る

展示会場 設営風景

Setting up the exhibition hall

「松原寛と日藝百年」開催決定告知動画

使用写真:日本大学芸術学部所蔵