櫻井研究室では,RNAとDNAの編集を通じて生命現象を解明し,遺伝子制御の新たなメカニズムを探求しています。特に,「A-to-I編集」と呼ばれるアデノシン(A)からイノシン(I)への核酸塩基の修飾機構に着目し,その生物学的意義や応用可能性を深く探ることを目標としています。この研究は,生命の基本的なプロセスである遺伝子発現の理解に加え,がんや遺伝子疾患の治療,さらには創薬技術の進展にも大きく貢献することが期待されています。
遺伝子情報は,DNAからRNA,そしてタンパク質へと伝達される「セントラルドグマ」に基づいています。しかし,このプロセスには複雑な調節機構が存在し,単純な情報伝達以上に多様な機能を担っています。その中で,アデノシンの脱アミノ化反応によりイノシンが生成される「A-to-I編集」は,RNAスプライシングや翻訳効率,自然免疫応答,さらにはゲノム安定性にも大きな影響を与える重要なプロセスです。櫻井研究室では,このA-to-I編集がRNAとDNAのハイブリッド二本鎖構造にも作用し,DNAに対する塩基修飾が引き起こされることに着目しています。この現象は,従来の遺伝子情報の理解を根底から見直す可能性を秘めており,生命科学における新しい視点を提供しています。
櫻井研究室ではA-to-I RNA(およびDNA)編集の組織差・病態差・個体差の差異解析を実施しています。A-to-I 編集はAからGへの塩基置換や変異と同様の効果を示すにもかかわらず,ゲノム情報には記載されない遺伝子情報の変化であり,ゲノムやトランスクリプトームの解析だけでは明らかにならないセントラルドグマのプロセスです。このため,これまでの遺伝子情報解析では見過ごされてきたままでした。そのためこれまで明確にされていない生命現象の差がA-to-I 編集の差異に起因する場合が想定され,ひいてはがん罹患率,疾病罹患率,寿命や健康度合いを左右する差異が含まれている可能性が考えられます。そこで緻密な遺伝子発現の個体差を明らかにするために,編集の差異を加えた,新たな次元の厚みの変化を持った配列多様性解析としてのヌクレオーム(ゲノム+トランスクリプトームにエディトームを追加)の構築を目指しています。従来のPCRやシークエンシング技術では,アデノシンがイノシンに編集されているのか,それ以外の原因で混入したグアノシンが検出されているのかを判別することが難しく,イノシン同定の精度が十分でないことが問題点となっていました。この問題に対して私たちは「イノシン化学消失法」(ICE法:Inosine Chemical Erasing)という技術を使用して克服しています。また,この技術は,次世代シークエンシング技術と組み合わせることで,ゲノムや転写物の全体にわたってイノシン修飾の動態を詳細に解析することが可能であり,医療や創薬の分野で大きな応用が期待されています。また,本技術はRNA塩基編集分野におけるイノシン絶対存在証明法であり,簡便かつ最高精度のゴールデンスタンダードと認められ,Nature Methods誌Methods of the Year 2016[Li X., Xiong, X., and Yu C. Nature Methods 14: 23-31 (2017)] に選出されています。
櫻井研究室では,A-to-I編集技術をさらに進化させるための新しい手法を開発し,それを実際の応用に結びつけるための研究を進めています。さらに最近,櫻井研究室では更なる発展技術として「イノシン化学標識による分子精製技術」(ICLAMP法: Inosine Chemical Labeling and Affinity Molecular Purification)は,ゲノム全体や転写物中の特定のイノシン修飾部位を検出するための革新的な方法です。これまで不可能であったRNAやDNA中のイノシンに対する特異的な蛍光標識が可能となり,視覚的および蛍光強度による検出定量が可能となりました。さらに,標識をアフィニティータグとすることで,イノシンを含むRNAやDNA分子の濃縮精製が可能となりました。これによりRNAやゲノムDNA中のイノシンの検出感度が飛躍的に向上しました。ICLAMP法はさらにICE法と同じく,RNAやDNAにおけるイノシン修飾の正確な検出と解析を可能にするもので,従来の技術では困難であった微量なRNAやゲノムDNA上のイノシンの検出同定が可能となりました。さらに,ICLAMP法を基に,血液や尿などの体液中に含まれるDNAやRNAにおけるイノシン修飾の量を測定する簡便な診断システムの開発にも取り組んでいます。この診断システムは,がんや神経疾患などの疾患に関連するイノシン修飾の異常を早期に検出することができ,将来的には個別化医療や予防医療に活用できる可能性があります。櫻井研究室では,この技術の実用化に向けた開発を進めており,特許出願等を積極的に進めています。
ADAR(Adenosine Deaminase Acting on RNA)は,二本鎖RNAに作用してA-to-I編集を行う酵素ですが,私たちの研究では,このADARがDNAハイブリッド鎖にも作用し,RNAだけでなくDNAに対してもA-to-I編集を行うことを見出しています。このRNA:DNAハイブリッド構造におけるA-to-I編集は,遺伝子発現の調節やゲノムの安定性に深く関与していると考えられています。特に注目しているのが「R-loop」と呼ばれる構造です。この構造は,転写が行われる際にDNAの鋳型鎖がRNAとハイブリッドを形成することでセンス鎖が露出する一方転写が停滞し,ゲノムの安定性に影響を与えることが知られています。櫻井研究室の研究では,ADARの発現を抑制した場合,細胞内でR-loopの蓄積が顕著に増加し,それに伴ってDNA損傷が増加されることが確認されています。これは,ADARがR-loopの形成や維持に重要な役割を果たしていることを示しており,このR-loopの異常が細胞のがん化や老化,さらには神経変性疾患の発症に関与する可能性を示唆しています。また,がん細胞において,ADARの抑制がDNA損傷応答を引き起こし,細胞分裂の停止やアポトーシス(細胞死)を誘導することも明らかにされました。
さらに櫻井研究室では,ADARが特にテロメア領域や特定の染色体上領域に存在するR-loopに作用し細胞生存に重要な役割を果たすことを見出しています。ADARがこの領域においてもA-to-I編集を行い,ゲノムの安定性を保っている可能性が考えられます。この研究は,がんや老化,その他のDNA修復異常に関連する疾患の治療に新たな道を開くものであり,今後もさらなる分子メカニズムの解明が進められています。また,櫻井研究室ではADAR遺伝子の転写後および翻訳後のプロセシング,その制御破綻が引き起こす生命現象の変化についての分子機構解析を進めています。
櫻井研究室では,A-to-I編集技術を基盤とした新しいゲノム編集技術を開発し,遺伝性疾患やがんに対する治療法の確立を目指しています。A-to-I編集は,アデノシンをイノシンに変換することで,実質的にAをG(グアニン)に置き換えることと同等の効果を持ちます。これを利用することで,特定の遺伝子配列に対して精密な塩基置換を導入することが可能になります。例としては,ガイドRNAとADARを用いて目的のDNAやRNAの配列に対してA-to-I編集を行うシステムを構築しています。この技術を利用することで,特定の遺伝子変異を修正し,疾患の原因となる遺伝的変異を効果的に治療することが可能になります。この技術をさらに改良し,編集効率の向上やオフターゲット編集の回避に取り組んでいます。また,創薬への応用としては,特定のRNAやがん関連遺伝子を標的にしたA-to-I編集により,がん細胞の増殖を抑制する新しい治療法の実現を目指しています。