まもりぬく にしきのはらの さくらそう

守り抜く 錦乃原の サクラソウ


錦乃原サクラソウ

昭和8年、当時の文部省から頼まれた博士が、馬宮村に来て、サクラソウが見事に咲き乱れている様子を見て、「これは、日本一見事な場所だ!」と言いました。サクラソウは、埼玉県の秩父という山間部にある植物ですが、荒川の洪水によって流され、馬宮で咲くようになっていたのです。そこで、馬宮村の人たちは、日本で最初の新聞社となった「東京日日新聞」のえらい人である徳富蘇峰に、この場所の名前をつけてもらい、日本全国に紹介しようとしました。徳富蘇峰は、サクラソウや様々な野草の花が美しく咲き乱れる様子を見て【さながら 錦を織りなしたようだ】と表現し、この場所を「錦乃原」と名付けました。永田二郎さんは、馬宮東小学校を卒業され、東京美術学校(今の国立東京藝術大学)で、黒田清輝という先生のもとで、美術を学んでいました。永田二郎さんは、のちに、馬宮村の村長にもなりましたが、永田二郎さんが描いた「さくらそう」の絵に徳富蘇峰が、【錦乃原】と書き込んで、名付けてくださったのです。永田二郎さんは、サクラソウ保存会の初代会長となり、国の天然記念物の指定を受ける運動をおこし、昭和9年、国の天然記念物に指定され、昭和10年に、石碑が建てられました。その後、日本は、戦争に突入し、「馬宮村サクラソウ自生地」は、食料を生産する畑にするよう、命令が下され、「サクラソウ自生地」が消えてしまうことになりました。しかし、馬宮村の人たちは、自生地のサクラソウを大切に、自分の家の庭に持ち帰り、守り育てました。そして、自分の庭で、大切に守ってきたサクラソウを再び、自生地に植えもどして、現在にいたっているのです。