御神輿物語

神輿製作者の須山公一さん

馬込三本松町会の御神輿について

神輿の制作者である須山公一さんは、母親が生死を分ける病に倒れたため、その健康回復祈願と精神統一のため神輿製作に打ち込んだ。

当時は手作り神輿がブームだったそうで、職場の従業員の一人も神輿作りをしていた。須山さんの不安な気持ちを紛らわせる事ができるのではないかとその従業員から勧められたのがきっかけだった。須山さんはお酒が飲めないそうで、お酒でストレス発散が出来ないため、神輿作りに没頭したと笑いながら話してくれた。

母を思う心がこの神輿に注ぎ込まれたのである。そんな思いも虚しく、母親はこの世を去った。母親が亡くなった後、神輿を壊すつもりでいたが、それを聞きつけた町会が須山さんを説得、町会に寄贈されることになった。

当時、馬込三本松町会は25周年を祝う式典の準備をしていたが、「式典に是非神輿を飾って欲しいので最後まで作り上げ完成さて欲しい」と町会長が須山さんに頼みにきたそうである。

この神輿は机の脚や蒲鉾の板を使うなど、今でいうリサイクル品である。だが、どんな神輿より素晴らしい。何よりも思いがあり、心がある。

この御神輿物語は平成15年(2003年)4月17日(木曜日)の産経新聞「やんちゃ美学●13●〝母への思い〟受け継ぐ」に掲載された記事から抜粋した内容に、神輿の製作者である須山公一さんからお聞きしたお話を加筆して作られました。

当時の写真は須山さんからお借りしたもので、許可を得て使用させて頂いております。

2023/8/27

机の脚や蒲鉾の板を使用しているのは実話

仕事が終わってから作業場にこもり神輿作りに没頭していると、毎晩何をやっているのかと不思議に思った隣人が様子を見にやってきました。その隣人が写真を撮影しだし、今日はどこまで出来たのかと記録していたのがここに掲載されている写真です。そのおかげで製作過程が分かりますね。

当時、須山さんは神輿に関しては全くの素人だったそうです。製作に当たっては図面なども当然ありません。どうやってこの神輿を製作したのでしょうか?それは、神輿のプラモデルを買ってきて、部品の寸法を測りプラモデルのスケールから実際の寸法を割り出したそうです。

神輿の屋根は地域の板金職人が協力してくれました

屋根の板金仕上げは当時の町会長の紹介で地域の板金職人に声が掛かりました。しかし、素人の神輿なんかに手をかすのを快く思っていないかったようで、須山さんのところへは断りに来たそうです。ところが須山さんの神輿を実際に見てその出来の素晴らしさに驚き、屋根の仕上げを引き受けてくれたそうです。

神輿の天辺に鎮座している鳳凰のモデルは…

「実は…」と、改まるように須山さんの鳳凰の話が始まった。「あれは鳳凰じゃないんだ。」筆者は「えっ!」と思わず声を出し、内心「何をいいだすのか!?」と、須山さんの次の言葉を待った。「隣の家の庭で飼われていたチャボをモデルにしたんだよ。だから、あれは鳳凰じゃないんだ(笑)」筆者は立派な鳳凰だと思っていたし、この神輿に関わってきた町会の方々、あの神輿を担いできた多くの人々が筆者と同じ様に思っていたに違いないのだが…無邪気な須山さんの笑顔を見て、「やられたぁ!」あぁこの人はお茶目な方なんだと確信しました。この話、載せてよいのかどうか…

馬込三本松町会 二十五周年の式典でお披露目

この神輿は昭和56年(1981年)9月に完成し、馬込三本松町会に寄贈されました。

25周年式典の為に町会の役員の方々が須山さんの神輿を引き取りに来ている場面と思われます。神輿の屋根も板金仕上げが施されとても素敵ですね。

鳥居の下、台座の真ん中に立派な巴紋が飾れていますが…これもリサイクル品です。今では見られなくなりましたが昔は木製の電柱がありました。その電柱の頭に金属製の傘が被せられていたそうですが、それを叩き出して巴紋を作ったそうです。とてもそうは見えませんが。

最後に須山さんが嬉しそうに話してくれました。「素人が作った神輿なのにとても沢山の人が関わり、喜んでくれた。」と。やはり、人は自分ではない他の人に喜んでもらう為に、誰かの為にと生きているのだと感じました。自分の作った神輿で他の人に喜んでもらった事が神輿作りに没頭した以上に母親を亡くした悲しみを癒してくれたのだと思います。若かりし頃の須山さん、本当にいい笑顔をしています。