腕時計を見る。午前六時半まであと三分と二十八秒。
だから、どうってわけでもないけれど。
「案ちゃん。そんな、うつむいていないで~、見てみなさい、あのお空を。とっっっっっっっっっっても、きれいだわ~」
と、先輩はいかにも彼女らしい、芝居がかった口調で、わたしに言った。
ぼろっちいスティール製のベンチに、わたしたちふたりは並んで腰掛けている。
膝に乗せて手に取っているテキスト本から、ほんの少しだけ視線を外して左側を見る。そこには目をきらきらさせて空を仰ぐ先輩がいて、彼女が座る奥には、この地点が工場と最寄りの駅を結ぶバス停である事実とその運行情報を示す看板が、心もとなく立っていた。
魔法でも使ったかのように静かな、街外れの一角だった。ひとつのベンチと、薄いプラスティックの簡素な屋根が覆うだけの、この小さなバス停は、工場の敷地からも若干離れた道沿いにある。道路の周囲一帯は、休耕期の畑とか稲田とか用水路が覆っていて、さらにその周りに、ぽつぽつと新しめのプレハブ住宅が建っている、そんな区域だった。百メートルほど遠くに見える、誰も通っていない交差点のさなかで、信号機のシグナルだけが赤から青に替わった。
一月初旬の早朝だから当然なのだけれど、とんでもなく肌寒い。
厚手のコートにマフラーにニット帽に耳あてと、防寒対策はしているつもりだけれども、それでも顔面の皮膚にしつこく張り付くような、遠慮のない冷たさを感じてやまない。この辺りは雪はあまり降らない。降っている地域の寒さは絶対こんなもんじゃないんだから、比較的贅沢な悩みだとも思ったりする。
なにか動いているので、ふと隣を見やると、先輩がサンドウィッチを両手に持って、もぐもぐと食べていたので、わたしはぎょっとした。
ハムカツとレタスのサンドだった。三枚セットの包装。パッケージを見ても、間違いなく先ほどまでわたしたちがいた工場で作られたものだった。歩ける近所には出荷先のコンビニはないので、工場の製造物の破損品あたりを何らかの方法でそのまま持ち出してきたのだろう。
わたしが驚いたのは、そこに湯気が見えたことだった。先輩が持っているサンドウィッチは、電子レンジに入れたばかりのようにほかほかなのだ。どうして。
つい尋ねると、「ヒートパック。非常時の発熱剤、だ~わ~」と、先輩は当然のように応えた。
先輩はわたしより三つ上で、かなり個性的なパーソナリティを有していた。サンドウィッチの片面に指示された正確な重さの具材を盛り付けることが主な担務で、そのすさまじいまでの正確な仕事ぶりから、英語を主要語とするらしい国から来日してきたおばちゃんグループからは、「サンドウィッチ・ウィッチ」と呼ばれていた。
まあ、魔女という表現は、たしかに似合うかもしれない――と、わたしもこっそり思っていたりする。言動も外観も、先輩はなにか魔性じみたものをまとっていた。気付いたら、いつのまにかほかほかのサンドウィッチを手に取って食べているなんて、まさに魔女の所業じゃないか。いま着ている私服も、濃紺をベースにフリルやらリボンやらコサージュやらの装飾がごちゃごちゃとついた、わたしにはよくわからない代物だった。
工場の夜間勤務ではめずらしい同年代の、かつ日本人の女性同士だったというのもあるだろうけれども、性格的にも経歴的にも能力的にも対象的なわたしたちは、なぜか割とうまがあって、業務上がりの都合が合うときには、こうして、この工場前のバス停のベンチに並んで、何気ない会話をしていたりする。
わたしたちはこれから同じバスで同じ駅に行くが、そこからは行き先が異なる。先輩はローカル線で自宅に、わたしは別路線で東京方面の大学に向かう。
「おいしい、おいしいわ~」
という率直極まりない感想をつぶやきながら、先輩は何の憂慮もなしにサンドを食べ続けている。口に含み、咀嚼して、嚥下している。お腹が空いているのはわかるけれど、かなりはしたない食べっぷりだった。
わたしは、そんな先輩をちらりと見やってから、再び手元の本に視線を戻した。
先輩は、自らの過去のことをあまり語りたがらなかった。上京して、しばらく何らかの業務に従事していたけれど、二年ほど前にこの地元に帰ってきた、というのはいつか聞いたことがある。なにかしらのいかがわしい水商売だったのではないか、などとわたしは邪推したりしている。なんというか、そんな感じだもの。
「おいしかった。ごちそうさまあ~」
と、先輩が言った次の一呼吸後には。
ふたたび、その「提案」の刃先がわたしに向けられた。
「ねえ、やっぱりお空が、お空がとってもきれいだわ~。とっっっても、きれい。見てみなさいってば、案ちゃん。その真っ白なご本ばかりじゃなくって~」
先輩はいつもこんな感じで、芝居っぽい口調で話すのだ。業務時間が終わってオフになると、さらにその傾向は強まる。無駄に感情のこもった、もったいぶったような口ぶり。
「お日様が昇る前のお空って、ああっ、なんて美しいのかしらあ~」
疲れのためだろう。わたしは、なんだか本の言葉がうまく頭に入らなくなってきたので。
顔を上げて、先輩にならうことにした。
東の空を、ふたりで眺めた。
座っているベンチが東向きで、視界を遮るものもないので、空は、よく見えた。
逆に言えば、他に見るものがなかった。
「……ええ、綺麗ですね」
と、わたしは、そっけなく同意したけれど。
実のところ。
見ているうちに、大きな嘆息をつきそうになるのを、押し殺していたのだ。
――空は、儚げで、幻のように美しかった。
陽が登ろうとしている地平線近くの夢想のようなオレンジからはじまり、ほんの少しだけ視線を上げるに従って、神秘的なまでに輝かしいイエローへと移り変わって、中空のスカイ・ブルーへのグラディエーションを、ゆるやかに、かつ一切の無駄なく形作っている。
雲のない、清廉な空だった。
そんな空の上に、ぼんやりと視線を走らせていると、 中ほどに月が登っていた。
目を凝らす。
確かに、それは月だった。
今にもかき消えてしまいそうな、ほんの切れ端のような、左側だけの月だ。
下弦。
明日には、新月になって、本当に消えてしまうのだろう。
「お空が、きれいだわ~。今朝は、いつにもましてきれいだわ~」
先輩は、今にも歌い出しそうだった。
芝居じみた彼女の語りに、そうですね、とは思うものの、あらためてそれを独自にわたしが表現する必要もないかな、と判断して、手に取っている大学のテキストにふたたび視線を戻した。
びっしりと紙面に書かれた、細めの明朝体の文字列が、目を滑る。
……ああ、講義を終えて帰ったら、熱いシャワーでも浴びたいな。明日はお休みだから、レポートの課題をスケジュール通りに片付けないと。それにしても、構造主義って、まるで工場の加熱セクションのパンを一気に焼くトースターみたい……。
わたしは、自分でもよくわからない、うすぼんやりとした思考で、そんなことを辿っていた。
だから、なのだろうか。
放たれた先輩の言葉が、異様に明瞭に、印象的に聞こえた。
「まるで、この世界が美しいものだって、馬鹿げた錯覚しちゃうくらい、だ~わ~」
奇妙な穏やかさを秘めた沈黙が、しばらくの間、続いた。
それを破ったのがわたしであることに、我ながら驚いた。
「ええ」
本に視線を留めたまま、わたしは、つい応えてしまった。
「それはやっぱり、馬鹿げた錯覚だと思いますよ。先輩」
「うふふっ」
わたしの唐突な発言に一切動じず、むしろそれを待っていたかのように、先輩は楽しげに笑った。
「錯覚のひとつやふたつも、しちゃうわよ~、もう一回、見てみなさいって、案ちゃん。お空、きれいだもん」
わたしは無言で、両手に取っていた本を、膝においた。表紙も閉じる。
白くて厚い、そっけないデザインの書物だった。厚紙づくりの表紙の上部に、『二十世紀における哲学の系譜』という題が書かれている。割と重い。リュックサックに入れて持ち込んで、工場のアルバイトの休憩時間に読んでいる大学のテキストだった。いつも疲れてしまって、開いたのはいいが読まずに眠ってしまうこともしばしばなのだけれど。
それにしても、今日はなんだか、いつにも増して疲れが溜まっている。
「えっと」
疲労のせいか、わたしはなにかしらの、自分の中の衝動を抑えきれなくなっていた。
「……失礼かもしれませんが、言いたいことがあります。先輩」
「な~に~?」
わたしを見る先輩の笑顔は、無邪気だった。
ここには。
ここには、わたしたちふたりと、バス停と、田園地帯と、朝の空気と、空だけがあった。
自動車の音ひとつ、聞こえない。
「まわりくどく、なりますよ」
と、一言告げた後に、わたしは、話し始めた。
冬の朝の空の、淡いブルーを、目を凝らして、睨みながら。
「……わたしって、先輩ももちろん知ってると思いますけど、ドジで、これまでも、まあ、さんざんでした。だからなのかな、と思います。人間が生きてる目的とか、理由とか、いわゆるテロスとか、レーゾンデートルとか、そういうのを、知りたかったんです。こんなわたしが、この世界に存在している意義が、手がかりくらいは掴めるのかもしれないと、そう思って。哲学や社会心理学を専攻したのは、きっと人の精神の、心の何かを、理解する手がかりが、そこにあるかもしれない、と、そう判断したからなんです。わたしは、そういう学問をもっとこころざして、もっともっと、考えなくちゃいけないと思うし、考えたいとも思っています。……えっと」
ふう、と一息ついてから。
「だから、この空って、だめなんです」
先輩の顔を、つい、ちらりと見やる。
先輩は、打って変わって、喜怒哀楽の一切の感情を消した顔で。
わたしの言葉に、耳を傾けているようだった。
だから、わたしは、続けることに決めた。
「……例えば、そうですね。夜勤上がりに、朝の空を見て綺麗と感じるだとか、温かいサンドウィッチを食べておいしいと感じるだとか、わかります。わかりますけれど、それってとても本能的な情動なんだとも、思います。悪い表現かもですけれど、きっと、それだけで生きていては、なんというか、獣と一緒です。わたしたちは」
先輩は、上着に包まれた腕を動かして、お腹の前で組むと。
「ん~……」と、可愛らしく唸ったあとに、首を傾げて、
わたしに向けて、微笑んだ。
「よく、わかんないなあ、案ちゃん。だって、わたしたちだってケモノでしょ。頭の悪くなった猿だわ~。ちょうど申年だし。ところで年賀状来た?」
「……そうは、思いたくないです。年賀状は毎年一通も来ません」
「でもさあ、案ちゃんは、なんでそのふたつが、違うって思うのかしら~?」
首を傾げて、両の目を細めて、微笑みを浮かべながら、先輩はわたしに尋ねた。
皮肉など、これっぽっちもない笑みだった。
「自分の生きてる目的――テロスだっけ? とかを、知ってもさあ~、お腹すいた時に、サンドウィッチ食べてもさ、どっちも、脳みそがさあ~、嬉しくなるじゃない? いっしょ、じゃないかしら?」
先輩は、両腕をベンチに回して、背もたれに寄りかかって、東の空を見上げた。
「わたし、ばかだから、案ちゃんの話は、たぶん三分の一もわかってないけどね。わたしはね、これからも幸せに生きていたいなあ、って思うんだ。案ちゃんも、そうでしょ?」
その声音は、清浄だった。
「……えっと」
これは、功利主義等で挙げられる快の本質とか、いわゆる欲求構造とかの話なのだろうか。
ああ。
――わたしは、どうして今、先輩とこんな話をしているのだろう、と思い始めていた。
なんというか、無性に自分の存在が恥ずかしくなって、どこかに隠れてしまいたい、と感じた。
でも、蒸し返したのは自分だ、などとも思う。
ひどく、疲れている。わたしの脳神経系の判断能力が鈍っているんだ。
思考がまとまらない。
言い訳でもないくせに、言い訳じみた口調になっていたと思う。
「そうですね、そうです。ええと……ただ、あまり、そう思いたくはないってことなんです、わたしは。だから、空が綺麗だ、と思っても、そのまま綺麗だなんて、素直に思いたくは、ないんです」
そして、気まずい沈黙。
それが一種の緊張だと感じたのが、わたしの一方的な思い込みなのかどうか、それすらもよくわからない。
わたしの視線は、膝の上の哲学テキストでも冬の空でも先輩でもなく、視界にうつる田園とコンクリート製の農業用水路の連なりを、さまよっていた。先輩の方を見られなかったが、彼女はきっとまた空を眺めているのだろう。
先輩の声が、ふと、放り投げたように、
「素直に、思えばいいのに」
と、言った。
わたしは、肩を上げて、ううん、と伸びをしてから。
「……どこか、諦めきれないんでしょうね」
と、応えた。
そしてふたたび、語り始めていた。
「毎晩」
足元を、見ながら。
『二十世紀における哲学の系譜』の重みを感じながら。
「毎晩、裁断機にパンをひたすら入れて、入れ続けていて、そうしてわたし、なんとか生きてます。学費とか、交通費とか、食費とか、他にもいろいろ……。このコートは、奮発して買ったものです。……あるいは、寒さをしのいで、ご飯を食べて、眠る場所がありさえすれば、人って、生きられます。そして、たまに綺麗なものを見たり、手に入れたりする。それだけでも、いいのかもしれません。そっちのほうが、もしかしたら自然な生き方のかたち、なのかも。でも、それでも、わたしは、まだ考えたいことが、考えなくちゃいけないことが、あるって思っています。だから今日も、このまま駅から大学に行って、講義を受けてきます。勉強します。それは……きっと、純粋に知りたいからじゃない、のかもしれません。諦めきれないから、だとも思うんです」
風のない朝だった。
わたしたちは、これから同じバスで同じ駅に行くが、そこからは行き先が異なる。
「そうだねえ」
思わず、わたしは先輩の顔を見つめてしまった。
あまりにも、その声音が、優しかったから。
屈託のない、やわらかな微笑みを浮かべて、彼女は言った。
「案ちゃんは、頑張ってるんだねえ」
先輩の、何気ない言葉に驚いたのか、
少しだけ、自分の声が引きつったような気がした。
「いいえ、頑張ってるんじゃあないんです。……ただ、本当に、わたしは諦めきれなくて、それで」
――掴みきれなかったものを、掴むのに、もう、致命的に失敗してしまった『何か』を、哀れにも、再び捉えようともがいていて。
わたしは、しぶとく、もがいている、それだけなんです――。
それは、声には出せなくて、私は中途半端なところで言葉を弱めて、終わらせてしまった。
視線を感じる。
先輩は、こんなわたしの様子を眺めていたけれども、沈黙の理由を悟ったのか、やわらかな笑みを浮かべたまま、ふたたび空を仰いだ。
そういえば、彼女の顔色も、疲労の影が根深いな――と、なぜかその時にわたしは思った。
当然だ、と思う。
先輩は、周りに語られるような魔女などではないのだ。強い集中を要する作業に半日も身を挺した、ひとりの二十六歳の小柄な女性に、ほかならなかった。
思わず。
地平線の上に、わたしは視線を向ける。
オレンジとイエローとブルーのグラディエーション。
冬の朝の、ベンチから見える東の空は、美しくて、
――それが、とにかく悔しくて、わたしは、少しだけ泣きそうになってしまった。
<おわり>
<2016年1月執筆 2022年1月改訂>