「だって私、本当に知らなかったんですよ。だから、本当に驚いたんです」
「……そう」
マスターは私の隣のはしごの上で、工具の先端を石版にぶつけながら、普段通り、どうでもよさそうに応じた。そこが、マスターという人物の良いところだと私は思う。私の言葉に応じてくれるから。
私も隣のマスターと同じく、聖釘を使って原板を削り続けている。
原板とは、高さは私より三倍は大きく、幅はその二倍はあるでような巨大な石版だ。私たちイコンメーカーには見慣れたカンバスだ。
私たちイコンメーカーは、イコンを生成する。
言うまでもないが、イコンとは私たちの神話に伝えられる、聖なる物語群を表した石版画のことだ。
イコンメーカーとはこの掘削室を拠点に、原板を削り出して石版画を創り出す人々――わかりやすく言ってしまえば、この社会に公的に認められた職人ということになる。
「そこ、もっと深く掘れ」
「はい」
私はマスターが指さした原板の一箇所に、あらためて視線を向けてから、本当に驚いた。すぐ目の前だったのに。確かに上手く削ったと思っていたのだけれど、全然気づかなかった。十分に深く削れていない。私はその箇所に向き直って、私なりに慎重な手付きで、更に奥まで石版を削り出し、周囲のバランスも整えていく。
聖釘を振るいながら、マスターはやはりすごいなあ、と思わずにはいられなかった。どうやら彼は、私たちの手で、いま形作られていくイコンの状況を常に把握し、全体図を理解しているのだ。一体どうすれば、そのようなことができるようになるのだろう。自分ができる姿が、まったく想像できない。ふと、いつもの不安が心によぎる――自分は、マスターのようなイコンメーカーになれるのだろうか。
「マスター」
「なんだ」
紐でくくり、胸元から斜めに突き出すようにして固定している設計図に一度視線を落としてから、再びイコンに向き直る。そして私はマスターに尋ねた。今朝思いついてから、聞いてみたかった質問を。
「マスターも、突然だったんですか? 『イコンメーカーになれ』って言われたの」
体を傾けて、原盤全体に掘られたイコンの細かい構造を再確認し、微妙な修正を続けながら、マスターは私の質問に答えてくれた。
最初に言ったとおり、マスターはいい人なのだ。私の言葉に応じてくれる。
「言うまでもない」
「家に通知が来て、『これからイコンメーカーになれ』って言われて、それで?」
「通知ではなく、口頭で言われた」
「そうなんですか?」
マスターは話しながらも、一切手を休めなかった。
しかし、私の質問は少なからずマスターの興味を引いたようで、懐かしい時代を思い出すように、彼はゆっくりと語った。
「去年入ったお前の場合と、半世紀前のわしとでは、時代も変わるだろうよ。……まあ、わしはな、ガキの頃からこのイコン制作室にちょくちょく通っていたし、昔から馴染みの場所だった。決審会も今とは毛色が違った」
私の知らない、興味深い話だった。
「わしの頃は皆、口頭で言われたぞ。成人になる少し前には、誰がどうなるか、大体のところは決まっていた。実際に決審会に聞きに行った奴もいたし、自分で志願するやつもいた」
「本当ですか?」
マスターは無言で頷いた。
石版を削りながら――私は、疑念と驚きを抑え込めないでいた。
信じられなかった。まさか、昔は自分で自分の行く道を決められた、だなんて。
人的資源の配分は社会の最重要課題だ。
公平性と倫理のために、決審会は人の配置プロセスを公開しない。
それは、社会において、当然のことだ。
聖釘の掘削音が、掘削室に黙々とこだましていた。
二人でイコンを削っている。私が全体の左上の辺りを、マスターは中央からやや右の箇所を中心に、私たちイコンメーカー専用の道具である聖釘を使って、原板を削り続けている。
私は、また首にぶら下げている設計図に視線を落とした。全体が大きいために今の位置からでは、もう大半が出来上がっているだろう。このイコンに取り掛かってから、今日で六日目になる。きっといいものになると思う。
私たちが完成させたイコンがどこに向かうのか。詳しくは知らない。私はそれを知る必要がないと言われているし、実際にマスターに尋ねてもそう言われるだろう。私が削ったイコンのほとんどは、知らない場所に運ばれていった。きっとこれからも、そうだろう。
イコンメーカーになって、もうすぐ丸一年になる。まだまだ未熟だけど、ほんの少しは要領がわかってきたような気がする。とても大切な仕事で、好きだけれど、休日がまったくないのは少しだけ辛い。毎日、体中の筋肉がびりびりと痛んで、宿の布団の中でもその痛みが眠りを妨げたりする。楽な生活とはとても言えないけれど、それはこの社会において、当然のことだ。マスターをはじめとする掘削室の皆の存在も、励みになっている。皆やっているんだから、私だって、と。
これからも、きっと大丈夫。
そんなことを考えていると、突然、体の奥の方から、妙なものがこみ上げてきた。それは言葉という形になった。言ってもいいことだと思ったので、私はそれを口に出してみる。私からずっと右の方で、作業に没頭しているマスターに向かって。
「私、イコンメーカーに向いていますよね?」
一息ついてから、言葉を連ねる。
「私のような者がイコンメーカーに突然なったのは、それに向いているから、私ならできるから、生業にできるから……決審会がそう判断したから。そうなんですよね。だから私は、イコンメーカーに突然なったんですよね」
完成の近いイコンを睨みつけていたマスターは、1分ほどしてから、私に返事をした。
「ああ」
――そのつぶやきで、私の心は、どれだけ救われたことか。
ああ、やっぱりマスターはいい人だ。私に応えてくれる。
それがどれだけぞんざいであっても、たったひとことの「ああ」であっても。私に、応えてくれる。
それだけで、私は、嬉しかったのだ。
私は再度、巨大なイコンに向き直った。作業を続けていた腕がじんじんと痛むけど、勢いを付けて持ち上げればなんとかなる。喉が渇いて仕方がないけれど、まだ水を取る時間ではない。
大きなイコンの端をまっすぐ見据えながら、私は思わず微笑んだ。
――これからも、きっと大丈夫。
そんなことを考えていた。
そんなことを考えていられたのは、その四秒後にふらついた私の全身が梯子から転落して右半身から石造りの床に激突し、その辺りの肉体と神経組織にとても小さいとは言えない傷を負って、気がついたら病院の狭い部屋にいて、それから、マスターを含むイコン制作所の誰もが二度と私の前に姿を現さないことを把握して、その意味を理解して、それから更にしばらくして、それまでだった。
【完】
<2013年3月執筆 2022年1月 改訂>