「孤独に乾杯」
「孤高に乾杯」
私と、のねずみは、盃を交わした。
とはいっても、私とやつとでは、あまりにも背丈が違いすぎる。
私は人間で、やつは、のねずみなのだ。
「盃を交わした」というのは、まあ、両者の思いの中の概念というか、言葉限りというか、そういう感じのものである。
ともあれ、私と、のねずみは、盃を交わした。
この部屋の中で。
同じテーブルに隣り合って。
表面加工されたテーブルの上ののねずみが、鼻先をくんくんと動かしている先には、揺れる紅い液体の粒があった。
やつが、かっさらってきた一粒だ。
やつが言うには、街の古びたワインセラーの奥から、だそうだ。これもどこかから頂戴してきた吸水性のペーパーに染み込ませて持ってきたらしく、のねずみによれば、「香りでうまそうなのを選びに選んだ」という。
まったく、のねずみのくせに。上等だなあ。
対する、私の方はというと。
――さきほど電子レンジで一分間温めたばかりの、百二十ミリリットル程度の、白い液体だ。
ホットの低脂肪牛乳だ。
眠る前に、私はこれを飲むのが好きだった。
注がれているのは、安っぽい陶器のコップ。それが他ならぬ、私の盃だ。
私と、私の目の前に陣取る、のねずみ。
のねずみのやつは、なんだか知らないけど、上等品と思しきワイン。
私は、一リットル百二十円の低脂肪牛乳。
ともあれ。
盃は、盃で。
今夜は盃を交わす夜で。
私と、のねずみのやつは、もう乾杯を終えていたのだ。
それぞれの液体に、それぞれが口を付けていった。
ワインの雫の大部分を一気に飲み込んだのねずみのやつは、とても言葉にしきれないような、満足げな吐息を漏らした。
対する私は、ちびちびと、摂氏四十度くらいに温めた低脂肪牛乳を飲んでいる。
ちょっとだけ、のねずみのいる辺りから、アルコールの匂いがただよったような気がした。思い過ごしだろうか。いくらなんでも、粒が小さすぎるからなあ。
のねずみのやつと違って、私はあまりアルコールは得意ではないんだ。あたりまえだけど、お酒はアルコールの味がするし、酩酊の感覚も決して好きとは言えなかったりして、単でそれが好みの問題で済めばいいのだけれども、エチルアルコールが一種のコミュニケーションツールとなりえるような場はこの社会に満ち溢れていて、色々と困ったりもする。
のねずみのやつは、私のその辺りの微妙な感情をよく知っているので、あえて言及はしない。
気が利くやつでもあるので、全然違う話題を出して、私が感じ始めていた距離感を埋めたりしてくれる。
ワインの粒から口を離して、のねずみは私に言った。
はっきりとした、彼特有の低い声音で。
「孤高はすばらしいものだな」
私は、低脂肪乳のついた口を歪めて、答えた。
「孤独は悲しいものだよ」
――いつのまに、どこから持ってきたのだろうか。
のねずみのやつは、スナック菓子の欠片と思しき白っぽい塊をかじっていた。ねずみらしく頬を丸くして、もぐもぐと咀嚼している。
それをごくりと飲み込んでから、私に告げた。
「悲しいと思うから、悲しいんだ」
――その意見は、いくらなんでも乱暴で大雑把だなあ、と思ったので。
私は、実に安っぽい、実際安価な陶器のコップをテーブルに置くと、のねずみに言い返した。
「悲しいものは、悲しいよ」
「どこが?」
「それは」
私は、少しの間考えてから。
「……ええと。そうだねえ、孤独は……」
……よくまとまらない。
もう少しだけ、考えてから。
「……孤独そのものも悲しいのだけれど、私はね。自分からね、どうしても、それが中々『剥がれないもの』なんだって思う。私の場合は、その原則を思い出すと、悲しい。自分は、ひとりなんだって思う。これからも、ずっとひとりなんだって。些細な、外から見れば、どうでもいいことなんだろうけど、時折ね、『私は孤独じゃないのかも』って、勘違いすることがあるんだよ。勘違いなんだけどね。勘違いだから、それがただのばかげた勘違いだったことに気づいて、やっぱり自分は孤独なんだって分かって。その孤独は、どこかでくっついちゃったガムのように私にべったりついていて。私からずっと剥がれないことを思い知る時もあったりして、特にそれがね、とても悲しい。私は、いつまでも、根本的にひとりなんだなあ、って思う。ええっと……」
ええっと。
なんだっけ。
――そういうことを、話せばよかったのだろうか、などと、今更私は思い出す。
ふと、自分が思うがままにしゃべりまくっていたことに気づいて、正直恥ずかしくなってきて、テーブルの上ののねずみを見た。
のねずみは、また新しく絞ってきたワインの雫に、口元をくっつけていた。少しずつ啜っているらしい。音はしないが、口のあたりをせわしなく動かしているのが見えた。
――私の話、聞いていたのかなあ。
やや冷めはじめた低脂肪牛乳を、私がなんとはなしに飲んでいると。
まったく、
その予兆など一切なく、
私の隣、テーブルの上で、小さいのねずみのやつは。
私に向けて、ゆっくりと、言い放ったのだ。
「それでも」
口元を、頭部全体を大きくかしげて。
私を。
のねずみは、私を見上げて。
その艷やかな漆黒の眼球で、まっすぐ私を見つめて。
「ひとりは、すばらしいものだよ」
――ふと、時間が、揺れたようだった。
その時から、のねずみは、私の前からいなくなっていた。
人語を話すのねずみそのものはもちろんのこと、やつが啜っていたワインの紅い一滴も、それを染み込ませてきたというペーパーも、かじっていたはずのスナックの欠片も、何もかもが、私のテーブルの上からは消えていて、
まるで、のねずみなんて、最初から存在しなかったかのようで、
……低脂肪牛乳の残滓を帯びた、交わされた盃などではない、安っぽいコップを持つ、私だけが。
私ひとりだけが。
この部屋に、残されていた。
(終)
<2015年3月執筆>