田中諭吉

とは

光頭無毛文化財・田中諭吉の生涯

―福博大衆文化の近代史―

(田中美帆著 2005年発行『福岡地方史研究』43号所収 より加筆修正)


 祖父・田中諭吉が亡くなったのは、私が生まれる9年前ですので、私は全く祖父に会ったこともないのですが、小さい頃から祖父の面白おかしい仕事ぶりを父・卓史(諭吉の三男)から聞いておりました。彼が手がけた主な企画は、「新天町商店街」や、大宰府の「曲水の宴」、博多祇園山笠の「集団山見せ」「永代奉納番外飾り山笠」などです。「有無庵」(ユーモア)と自称していた諭吉は、人を驚かすような奇抜なアイデアを次々に思いつき、仁和加で人を笑わせ、自分も愉しみ、生涯ユーモアを追求し続けた稀代のアイデアマンだったそうです。今回は残された資料をもとに、戦後の福博の町の復興に尽力した文化人の一人として、彼の手がけてきた企画や作品を整理し、年譜をつくりながら、福博の大衆文化の近代史を見ていきたいと思います。

生い立ち

田中諭吉は明治34年(1901年)1月29日、博多・川端の陶磁器屋の長男として、元有田焼絵付師の父・田中長吉と裁縫の得意な母・モトの間に生まれました。その五日後の、同年二月三日に福澤諭吉が亡くなっています。おそらく父・長吉が、誕生したばかりの息子の名前を思案中に亡くなった福澤諭吉にちなんで、後日「諭吉」として役場に出生届を出したのではないだろうか、と考えましたが、実際に戸籍を確認すると、福澤の亡くなる前日の「弐月弐日」付で出生届が受理されていました。福澤は1月25日に脳溢血が再発し、日後の同2月3日に亡くなっています。『福澤先生哀悼録』(明治三十四(一九〇一)年五月六日発行、慶應義塾學報第三十九號 臨時増刊)によると、同年一月二十七日に時事新報(福澤が創刊した新聞)が「始((ママ))めて先生の發病を報じ…日本全國の人民は…先生老餘の運命を氣支ひし…」とあるので、亡くなる直前から福澤の危篤は全国的な話題となっていたようです。

諭吉の上呉服男子尋常小学校時代の成績は良好で、同級生の笠信太郎氏(朝日新聞論説主幹)によれば、小6の時の諭吉の将来の夢は「大学者」になることだったそうですが、実際の諭吉は16歳で父親を亡くし、満足に学校に通えませんでした。絵を描くことが好きだった諭吉は亡父・長吉の陶磁器屋を「かヾし屋畫房」に変え、独学で書画を学び、27歳で新聞社に入社してからは、水を得た魚のように次々と面白い企画を思いつき、実行していったようです。


【1926年頃の20代の田中諭吉(右)と丁稚のてっちゃん(左)】

諭吉は27歳で福岡日日新聞に入社する前まで、亡父・長吉の陶磁器屋を「かヾし屋畫房」に変えて商っていた(下新川端町59番地)。現在の博多リバレイン前のドラッグイレブン付近。


姉・知恵子、諭吉、母・モト

2学期以降の成績はオール甲

品行善良児童

昭和3年福日入社

昭和3年10月に福岡日日新聞社(のちの西日本新聞社)に入社し、編集局社会部絵画班の駆け出しの頃、ちょうど今上天皇ご大典の年で、福岡県が宮中での亀トの掛で、S郡Y部落が主基斎田の処に選ばれ、新聞では連日、県下の光栄を讃え、東京電話や、初めての電送写真などで伝えていたそうです。このS郡Y部落の地に末社をもつ官幣大社宗像宮は社格としては県下では一番高いのですが、当時交通不便な辺地にあったため、あまり人には知られていなかったようです。そこで当時の宮司さんと称宜さんが、新聞社を訪れ、主基斎田に当てられる部落にある末社を由縁として、これが祭祀を、宗像宮が盛大に出張して行い、併せて、古来よりこの社の大宮司はこの神霊の加護で、国内・海外と交易した由緒があり、船旅、陸旅の交通安全の祖神であることを一般人に新聞をもって宣揚してほしいとの申し出があり、新聞で読み物記事を数日にわたって連載し、当時漸く増え始めた自動車の安全祈願は「宗像宮で」とのスローガンを普及させていったそうです。これが今では交通安全祈願の神社として定着した宗像大社です。

※図は「紫宸殿の儀」(諭吉謹書)昭和3年11月11日福岡日日新聞

戦時下での企画

戦前は、日本の国連脱退を受けて入手したリットン報告書を呼び物にした「非常時局大展覧会」 (五・一五事件の後)(「非常時」は当時の流行語だった。)や、仏教各宗の輪番奉仕による「支那事変初盆大追悼会」 などを行い、当時の市民の感情の機微をとらえた企画でしたが、憲兵隊には睨まれていたようです。二・二六事件の直後であった「支那事変初盆大追悼会」は遺族より届けられた戒名書きを期間終了後憲兵隊立ち合いのもとで焼き捨てるという条件のもとに開催されました。当時の福岡日日新聞(現西日本新聞)は、その伝統の社是に従い、「軍事と政治は絶対に切り離されるべきこと」という根本方針を貫いていたため、軍部(とくに青年将校)からの圧力が激しく、久留米師団の将校からは電話や投書は勿論、軍用機で社屋を低空威嚇飛行などで脅迫されたりもしていましたが、当時の福日の論説は屈しなかったそうです。しかし、この「支那事変初盆大追悼会」の開催期間の中頃で、儀礼的な意味もかねて、主催の新聞社側が当時の久留米師団長ならびの幕僚数名を招いて懇親会を開いたところ、わだかまりが解け、予期していなかった一種の政治的な効果があり、軍側と新聞社側の和解の楔になったそうです。大東亜戦争開戦後、昭和17年の秋(9月中旬~10月下旬)に百道松原(現西福岡警察署横)で開催した「大東亜建設博覧会」は国民をして軍に協力してもらう政策的な意味もあり、当時かなり物資不足であったのにもかかわらず、軍側が大いに支援したため、本館など数棟、朝鮮、台湾、満州国の特設館を建設し、当時としてはかなり規模の大きなものとなり、期間中は5・60万人もの人出で大盛況だったそうです。しかし、この博覧会の準備期間中(8月中旬)一夜の暴風によって、会場の6・7棟が倒壊して再建のために大きな損失となり、あたかも大東亜戦争の結末を象徴していたかのようでした。けれども、この博覧会企画事業が今日の西新町の繁栄をもたらすきっかけとなったことは、誰も予期していなかったそうです。というのも、企画の準備段階で開催地として諭吉が百地の松原跡の空地を物色し、社側に決定させ、新聞紙面で発表したところ、博覧会開会までに、東邦電力(西鉄の前身)が市内電車の城内線(単線)を複線に完成させたのでした。これらの企画は国家の方針や世論に合流し、情勢のタイミングにあったアイデアで広く市民に受け入れられ、当時の社会が要求するものだったのです。


宇佐神宮「和気清麿一代記画」等奉納企画

諭吉は若い頃から「絵馬」に関心があったようです。絵馬の歴史は古い文献によると、往昔神馬として馬を奉納したものが、経済上の理由もあって普通人では成し得ないので、馬を描いて大小の額とし、祈願のため、あるいは祈願成就を感謝するため、神社に奉納したそうです。絵馬の内でも、祈願を目的とする小絵馬などは、自己の名を現さないのですが、諭吉は、戦争絵や忠臣烈士や殊勲の人などが描かれた絵馬は、精神作興の資とすべく考慮されたもので、一面現代のポスター的役割を持つ意義があるものと考え、このアイデアをヒントに新聞広告とタイアップして、スポンサーの名を入れた大絵馬を福岡各地の由緒ある神社に奉納する協賛企画を立てました。時代が時代なだけに、総馬の主題も「祈皇軍武運長久」とか「感謝皇軍戦勝」といった情勢に合致したテーマで広告募集をしたようです。当時、新聞社内では神罰をも恐れぬことと反対する者も多かったようですが、今ではスポンサーの名の入った奉納品というのはごく当たり前のものとなりました。

戦争も苛烈になった昭和19年の中頃、増改築の竣工した宇佐神宮(大分県)の記念に、何か新聞社によって戦勝祈願的なまたは士気作興的な催しをやってほしいとの大分県からの依頼があり、諭吉はさっそく一つの企画を立てました。それは、宇佐神宮の造営竣工記念と併せて戦勝祈願を行うものであり、当神社の社伝として歴史にも有名な和気清麿が宇佐八幡のご神託によって皇統の正しさを明らかにし、道鏡の野望をくじいて、大隈に流された事績などを物語る「和気清麿一代記画」十五面と「元寇覆滅図」二面の計十七面の畳敷大の油絵を奉納するという企画です。当日は、各画面を仕丁にかつがせ、各町内から稚児行列、先頭は伶人の雅楽行列で、宮司は白馬に跨り、神職これに続いて氏子ら、しゅくしゅくとして2km余りを練り神社に到着して奉納祈願祭を行ったのですが、物資不足であるにもかかわらず、県側の斡旋で相当量の酒、米、砂糖などが用意され、地域の婦人会員らの奉仕で盛大に行われ、当時このような催しに飢えていた宇佐町民がこの企画を特に歓迎し、協力してくれたそうです。この大油絵奉納企画に協力した百数十名に対する記念品を主催者側として何か適当な物を贈呈すべく、統制時代で物資不足の状況下、余った予算の中から諭吉は思案し、「勝土器」と題して、祝部(はうりべ)土器になぞらえた、「勝」の文字を彫り込んだ高取焼きを百数十個造り贈ったそうです。この記念品は好評を博してその後、宇佐神宮ではこれの小型のものを造って「勝土器」と称して参拝記念のみやげ物として売り出されたそうです。奉納した大油絵十七面も、拝観料や絵葉書などで、その後の神社収入の財源となったそうです。この宇佐神宮の油絵奉納企画の打ち合わせ中に、諭吉はまた別のアイデアを思いついたようです。当時は既に敗戦の色濃く、次々に輸送船が沈められていることは、大本営がいくらかくそうとも国民の間ではうすうすわかりつつあるようで、軍器や物資を運んでいる船員たちの士気も著しく衰えていました。往昔瀬戸内海から九州沿岸に発生した倭寇は「八幡大菩薩」の旗を船頭にたてて勇敢に大陸に押し渡ったといわれています。この故知にならって、造船業者や輸送関係業者に出資させてこの旗を作り、当時の福岡県知事吉田茂氏と宇佐八幡宮司に「八幡大神」の文字を肉筆揮毫させ、八幡さまの航海安全祈願と、船霊(ふなだま)さまとして祭る、有名な筥崎宮の神額「敵国降伏」の縮小掛軸と合わせて、輸送船に贈るという企画を立てました。統制品である布地は賛同する県庁の特別配給切符の提供で約500個分の旗が出来上がり、宇佐、筥崎八幡宮の神前に供え、航海安全祈願の祭りを行い、両神社の護符と新聞社、協賛者の激励文を添え、九州各県の機帆船主、造船所などに各県市を通じて寄贈したそうです。この激励は、敵制海の中を航行していた輸送船の船員たちの士気昂揚に役立ち、敬神的な気持ちで勇躍任務につくといった心理的効果があったそうです。このように明日をも知れない戦争の苛烈下では、神にもすがりたい民衆の思いをとらえ、神仏を利用した企画をずいぶん行っていたようです。諭吉本人は右にくみするものでもなく、とくに信仰もなかったようですが、民衆の喜びそうな神仏行事を企画するのが得意でした。


終戦間近の食糧難の克服「虎の画の掛け軸」

昭和18年当時妻が5人目の子ども(私の父)を身ごもっていた頃、諭吉の家庭も食糧難にあえいでいました。初めは家財道具を農村部で食糧に換えていましたが、それもなくなり、当時息子が出征している農村部では「虎は千里行っても千里帰る」という言い伝えで「虎の画の掛軸」が引っ張り凧だとの話を聞きつけ、書画の巧みな諭吉は不謹慎とは思いながらも一家の飢えを凌ぐにはやむを得ないとして「虎の画の掛軸」を描き、食糧と交換して家族の食をつないでいたそうです。息子たちを戦場から無事に帰らせたいと願う親心は藁にもすがる思いで、食糧と引き換えにこの「虎の画」のお守りを求めたそうです。こうして田中家一家は何十匹もの「虎」を食って生きのびたのでした。諭吉本人には、終戦日ちょうどに赤紙召集令状が届いたため、あやうく徴兵を免れました。(終戦当時47歳)

※図は寅年の年賀色紙(掛け軸は交換して残っていないため)

戦後復興企画「新天町」商店街の誕生

終戦当時、諭吉のいた西日本新聞社内の「戦時対策本部」は「戦後対策本部」と名称が代わり、戦後の社内外の企画立案をすることになりました。当時は占領米軍による軍政下とはいえ、市内大部分の焼け跡は、食料品や生活必需品不足から、自然発生的に生ずる露店、闇市場があちこちにできていました。諭吉ら戦後対策本部員は、現在の西鉄福岡駅の西側に福岡県と福岡市有の旧女専焼け跡の瓦礫の山数千坪の空き地があり、そのまま放置されているところを整地して、明朗な商店街をつくることによって、福博の焼けた中小企業の復活を図ることと、また西日本新聞社の別館で合併前の九州日報社跡(当時保険局などの官庁が借りていた)が何だか占領米軍に接収されそうな危惧があった(?)ので、これを防止する意味でこのビルを西日本会館と名付け、三階をアメリカ映画上映、二階を占領軍兵士のダンス上にし、一階を一般市民に安く食事を提供する大衆食堂に改造するなど、米軍の機嫌を取り結ぶうろたえた企画を立てました。昭和20年10月初旬、次長と諭吉は英訳した企画書をたずさえて、現在の天神町千代田ビルにあった福岡軍政部に司令官を訪ねたところ、参謀長のバロー大佐が快く引見してくれ、当方の申し出は、市内のブラックマーケット撲滅の一端を果たすことと、米軍政に協力する機宜の企画であるとの理由で県庁の渉外関係の課を通じて許可を下げてもらえました。しかし、膨大なる瓦礫の山は、数千の人夫を用いなければ平地にすることができず、当時は復員前の人夫不足で、この費用の捻出にも苦悩しました。そこで諭吉は、東京で米軍が市民のために米軍工兵隊のブルドーザーで整地したという記事を思い出し、また板付航空基地でも働いているという聞き込みがあったので、当たって砕けろの意気で、再びバロー大佐の所へ赴いて、現下の人手不足の点を指摘して、できれば東京のようにブルドーザー動員整地の申し出を行ったのです。これが以外にも先方に好感をもたれ、大佐は即座にブルドーザー要請の電話をかけ、それから3日後、毎日二人のGIがブルドーザーを持って来て操作し、1週間で完全に整地が完了したのでした。このブルドーザーの運転状況を、毎日黒山のような市民が見物しに押しかけたそうです。このとき、米軍の軍人らしからぬ気取らぬ態度と、事務をテキパキ処理する実行力に諭吉らはすっかり感嘆し、日本軍や日本役人の繁文縟礼の、事務の渋滞ぶりでは勝てなかったはずであると痛感させられたそうです。この商店街は初め「西日本公正商店街」と名付けられましたが、後に現在の「新天町」と改名し、その後2回の一部火災もうけましたが、その後二十数件も増し、町内結束して、博多っ子らしい売出しや、斬新な企画による催しなどを行い、戦後の福岡市の繁栄の中心となったのでした。神仏ではなく、今度は米軍の力を利用して、戦後の焼け跡の中からこの商店街企画を成功させることができたのも、市民の復興と米軍の嫌う闇市場の撲滅という大義名分をかざし、こちら側の真実の衷情を訴えて、非常な同情を買うことができたからなのかもしれません。

西日本初「志賀島水族館」誕生

昭和25年、戦後初めて許された日本の捕鯨団が南氷洋で世界第一位に値する漁獲高あげたという朗報もあり、諭吉が「躍進日本水産展覧会」を企画していた頃、当時初当選したばかりの志賀島村長から、志賀島の観光行政に協力してほしいとの依頼がありました。そこで諭吉は水産展の展示会場である天神のデパートの他に、天神で展示しきれなかった出品物を第二会場として志賀島に展示し、さらにこれを呼び物として志賀島に仮設水族館をつくりました。これが大変な賑わいを見せ、この仮設水族館をきっかけに、翌年の志賀島の村会で村営による恒久施設の大規模水族館の建設が可決され、翌々年の夏には西日本最初の「志賀島水族館」が完成しました。以後、志賀島は町制となり、連絡船で博多湾を渡って志賀島に観光に訪れる人々も増え、宿泊施設や海水浴場の整備も充実し観光業が発展していったそうです。

写真は『志賀町要覧』(昭和44年6月)より

新柳町繁栄企画「明月まつり」

昭和25年頃、昔から遊郭街として有名だった新柳町(今の柳橋~清川付近)は、終戦後、特飲街として昔の面影をしのばせる程度になっており、再び往年の新柳町の繁栄に戻すべく協力してほしいとの依頼が新聞社社長のところにありました。社長は、新聞の性格上、赤線内の事業後援は新聞社では行われがたいことを話して、諭吉に紹介し、個人的な形でこの事業に協力することになりました。諭吉は常に企画をするにあたって、その土地にまつわる故事来歴を調べる習慣があり、この新柳町の歴史もかなり詳しく調べていたようです。もともと遊郭柳町は今の大浜公民館付近にあり、京都帝国大学福岡医科大学(現在の九州大学医学部)誘致によって、明治42年(1910年)風紀上これを隔離すべきとして辺地に移転させることが市会で決議され、当時の福岡市外筑紫郡住吉町大字住吉の田畑を買収して移転させ、新柳町と名付けたのでした。この新柳町の以前の柳町には、およそ三百数十年前に明月太夫という親孝行で知識も広く、芸ごとにも妙手の素晴らしい美人の花魁(おいらん)がいたそうです。明月は仏教に帰依して、死ぬまで十数丁もある万行寺(現博多区祇園町)という名刹まで、朝早く廓(くるわ)をぬけてお詣りをするのを欠かさなかったというので「名娼明月」と名付けられ、その寺に伝説が残っています。それは彼女の死後、初七日に墓の下から蓮の茎が出て花を開いたので、不思議に思った和尚が使用人に墓の中を開けさせると、なんと合掌した明月の死骸の口の中から蓮の茎が出ていたのです。今でもその蓮の乾燥したものがおさめられた硝子の壷が寺宝として大切に秘蔵され、この世にも不思議な信仰物語は博多の町の代表的伝説となり、土産物の名称や店名にまでなっているほどです。(明月堂)そこで諭吉はこの史実を新柳町繁栄企画に盛り込み、明月の詳細を郷土史家の和尚にたずね、「三百七十年忌、明月まつり」と題し、仲秋の明月の9月中旬を選んで、この新柳町で昔の風俗を再現した「おいらん道中」を行いました。同時に万行寺住職を導師として供養行事が行われ、玉屋デパートでは明月関連の寺宝や、ゆかりの遺品、柳町に関する資料などが公開されました。この「おいらん道中」は珍しい風俗行列として3日間未曾有の人出を生みました。しかし、この花街も昭和34年3月限りで「売春防止法」施行のため、火の消えたようなさびれ方になりました。その後、この新柳町を東部に付近十数ヶ所町が集まって、「南都振興会」という団体が結成され、かつての賑わいを呼び戻すべく、地域の繁栄企画が立てられ、諭吉もその相談を受けるようになりました。終戦後、福岡市に「山笠」が復活すると、この南部地域も山笠を十余年間毎年建設し続けてきたのですが、町費の別途積金や寄付金でまかなわれている山笠建設費用はかなりの額を要するので、昭和35年頃になると、町内には異論を唱える人も多くなり、投票の結果、少数の差で、この年の山笠建設は見送ることになりました。代案として中央交通の激しい位置に公益的な信号機を県の補助金を加えて建設することに話が決まりました。しかし、観光的な意味をもつ飾り山笠建設は、その期間中の人出によって商店街や市場街、料飲街は営業的にかなり潤うので、この信号機建設企画では納まらない業者の人たちもかなりの数にのぼっていました。この地域は、旧遊廓街の家屋を開業した旅館や、飲食街のみならず、商店街、映画街、連合市場、住宅街、九州でも有数の大会社の本社や銀行の支店、商事会社などもあり、多彩な特色がありました。そこで諭吉は、この南都地域を構成する各町の性格を織り、全ての業者が納得のいく企画を思案し、昔の柳町から今の新柳町に移った史実をふまえて、「福岡南都開創五十周年記念、南都まつり」を行い、料飲街と商店街、市場街を融和結束させるという効果をもたらしました。この時つくられた、「新作南都おどり」も町内の婦人会からの評判がよかったようです。

※「明月まつり」の詳細については、拙稿「柳町こぼれ話」(『リベラシオン』一五七号(特集 新旧柳町の歴史と女性史)所収、(公社)福岡県人権研究所、二〇一五年三月)をぜひご参照ください。

「福岡光頭会」発足

昭和25年11月、諭吉は若い頃からコンプレックスであった禿頭を、ユーモアに変えて自慢しあう「福岡光頭会」を結成し、(前年に専売公社が新発売の煙草「ひかり」の宣伝のため「ミスひかり」というミスコンを行っていたので)岩田屋でミスター光コンクールを開きました。(禿げ頭の光、色、形状などを審査し、等(頭)級をつけ、ミスターや準ミスターに選ばれた人はミスひかりから賞品が授与され、参加者にも電球などの記念品が贈られた。)福岡光頭会は事務局を春吉の真髪神社 におき、当時西日本相互銀行社長の東令三郎氏を会長にたて、福岡の禿げた著名人を集め、「もう(毛)ておくれの会、けがなし祭り」を開き、光頭者どうしの禿げはじめの若い頃の苦心談を楽しく語らい、「禿げている人ほど社会を明るくするのだ」とハゲましあう座談会を開いたり、3月の「緑の週間」にあわせて、光頭会員がハゲた地面に木を植えようという「お笑い植樹まつり」(南公園動物園前庭)などを催したりしていたようです。その後、当時市長候補の奥村茂敏氏を会長に立て、「福岡銀髪会」もつくり、ミスターのみならず、ミセス銀髪なども選ばれ、賞品は竜宮城の乙姫さまに扮したミス福岡から、白髪昆布など白のつくものがぎっしり詰められた玉手箱が贈られたのでした。(この会の準備期間中に奥村氏は市長に当選した。)この「福岡銀髪会」では、豆腐の白さになぞらえて「野立田楽茶会」(筥崎宮)、「白魚供養祭」(室見川)などを行い、銀髪会・光頭会親善の「観月の宴」なども開いたりしていたようです。

※「福岡光頭会」の活動は当時のNHK番組「新日本紀行―博多」で詳しく取り上げられています。

筥崎宮放生会の「献灯図」

昭和29年頃から、毎年福博在住の文化人約50人に書画を依頼してまわり、筥崎宮の放生会では献燈図が飾られるようになりました。

※図は、学生運動が盛んだった1968年に九大工学部に駐留米軍機ファントムが墜落した事件を風刺した諭吉作の献灯図「禅覚蓮尊者像」(ぜんがくれんそんじゃぞう)。

「博多仁和加振興会」設立

昭和31年には諭吉は発起人の一人となって「博多仁和加振興会」を設立したり、趣味で「西街道和楽路(わらじ)会」や「九州漫画協会」(略して九漫)でもユニークな企画や運営を始めたようです。

※図はS44.6.16西日本スポーツ新聞 サントリーレッド全面広告

「にわか鉄道」VS「福大落語研究会」しゃれ合戦

(於 十日恵比寿神社 撮影日S44.5.10)

(写真中央が田中諭吉)

「西海道和楽路会」

「西街道和楽路(わらじ)会」というのは、昔の道中風俗に習って、男女とも手甲脚絆、道中合羽、すげ笠、振り分け荷物のいでたちで、春秋2回、神社や仏閣を参拝するという一種の健脚を奨励する団体です。いつもは末永節会長(玄洋社)を昔風に駕籠や車に乗せたりして、これを中心に擁して道中するのですが、今度参拝する宮地嶽神社には殿様道中のこしがあると聞き、これを借りる予定でしたが、会長は「わしは下っ端氏族の足軽出身だから殿様のこしなど乗りたくない」と言われるので、諭吉は「大久保彦左エ門の故知にならってタライで登宮とはいかがでしょう」と提案し、神社側にタライの製作を願い、会長をタライに乗せての道中行事の後、書の巧みな会長にタライの中に「長寿」の文字を揮毫させ、神社に返却し、その後、宮地嶽神社では赤ん坊の初詣のお祓いと祝詞の後にこのタライで「長生初湯の儀」(この水なしのタライの中に着物のまま入れる)を行うようになりました。

「はなの下試胆会」

ある年の春、諭吉は九漫の仲間と酒を酌み交わしながら、戦国時代の織田軍の焼き討ちに屈しなかった快川禅師の「心頭滅却すれば火もまた涼し」の禅語のように人間の観念を一度逆の形においたらどんな結果を生ずるだろうかという話をして、「人間の尿はビールに似ている。そこで、ジョッキの代わりに患者用の尿瓶にビール、オマル(便器)に人糞そっくりの料理(カレー)、唾吐き器に山芋のとろろおろし、膿盤にマヨネーズやトマトケチャップで外科手術後取り出されたと思わせる料理、ユルリガトールにジュース、箸のかわりにピンセット、給仕嬢は看護婦姿といういでたちで、試食会を催すのはどうか」と冗談半分で言ったところ、一同眉をひそめて苦笑したものの、酒の勢いもあって賛成する人もあり、九漫の主催で「はな(花、鼻)の下試胆会―倒錯観念心理実験―」と題してこの馬鹿げた企画を実行することになりました。ちょうどその頃、志賀島水族館の広場に桜の木を植えたので、その下で何か催してほしいという依頼があったのです。諭吉はこれまで企画に協力してきたいくつかの商社に相談し、ビールや酒などを集め、分けを話して知人の医療器店から新品の器具を借り受け熱湯消毒し、以前、諭吉が野立の故事にならって田楽茶会を企画した田楽料理屋の女将にたのんで、板前さんに人間の排泄物そっくりの形に美味しい料理をつくってもらうことになりました。看護婦服は、日赤の知人から一切新調の服装を借り受け、料亭勤務の娘さん3人、板前さんには医師の白衣姿で出てもらいました。参加者は主催の九漫会員7名、著名な博多人形師、彫刻家、劇評家など10名で、こんなことくらいビクともしない猛者ぞろいでした。30人ばかり詰め掛けたマスコミにせかされ、挨拶も抜きに午前中からさっそく実験にとりかかりました。まずは、医者と看護婦さんによっての盛り付けで、桜の木の下にはユルリガトール、唾吐き器には山芋のとろろおろし、オマルには半熟卵がけのミンチボール、膿盤には豆腐や鶏のもつでできたものに、ケチャップやマヨネーズであしらったもの、フラスコには酒が、五徳の下にアルコールランプでカンがつき始めるといった趣向でした。看護婦さんに注いでもらったビールの入ったジョッキならぬ尿瓶をみんなでカチリと打ち合わせ乾杯し、勢いよく呑み始めたところ、鼻までビールがかかるという出口のよさで、この容器はもともと呑むために作られたものではないことがわかりました。この尿瓶は呑んでいる人の顔がおかしくひずんで見えるのがご愛嬌です。呑むほどに酔うほどに猛者たちは、意気昂然としてきましたが、一人だけ呑めな会員は、唾吐き器のとろろをいただく段になって、排泄物でも連想したのか、こらえていた観念の関が切れた模様で青くなり、本当に吐き気をもよおして、口をおさえて席をはずすという始末で、実験反応者の第1号となったのでした。この型破りなイベントは全国版の写真新聞やグラフなどでも大きく報道され、その後、第2回は西公園で開催されました。第2回目ではオマルにカレーを盛り、その上にはご丁寧にちり紙をひねったものまで添えられていたそうです。九漫ではこの他にも「カカシ展(コンクール)」や「お笑い生け花展」、「お化け展」、「漫画合戦」などさまざまな面白い企画を催していたようです。