『その日その日

 昭和五年日記』

田中諭吉『その日その日 昭和五年日記』の発見

(田中美帆著 2020年9月発行『福岡地方史研究』58号より抜粋)


博多町家ふるさと館での「田中諭吉展」(2013425日~5月末)に向けて、出展作品の準備中だっ20121119日朝、諭吉の妻美沙緒(私の祖母)の生前住んでいた家で、私が諭吉の作品を整理していたところ、クローゼットの中に無造作に置かれていた、田中諭吉の『その日その日 昭和五年日記』(タイトルは市販の日記帳の背表紙に金文字で書かれている)を偶然発見しました。祖母が晩年に書いたハガキがしおりのように日記に挟んであったので、おそらく祖母はこれを読み、亡き夫・諭吉のことを懐かしく思い出していたのでしょう

大きさはB6サイズに近い、縦17.7センチ×横12.5センチ×厚さ2.9センチ、表紙は薄青緑色のハードカバーで、お洒落なデザインの市販の日記帳です。諭吉は昭和3年27歳の時に福岡日日新聞(今の西日本新聞)に入社しているので、まだ入社3年目の駆け出しの頃(29歳)で(元旦に数え年で「丗」と書かれている)。戦前のサラリーマンの日記であり、祖父が私と同年代の頃に、どのようなことを考えていたのか、どきどきしながらページをめくりました。日記は昭和5(1930)年の元旦から始まって、同年820日で終わっていました。約8カ月間の記録で、1年は続かなかったようで。諭吉は毛筆は達筆でしたが、日記の中のペン字は、後半になるにつれ、だんだんぐしゃぐしゃになっています。ブログと違って紙媒体の日記は、自分以外の人間が読むことを想定していないため、人目を気にせず、本音で正直に書かれています。家族のこと、仕事のこと、職場の仲間たちのこと、昇給して嬉しかったことなど。当時の社内の人間関係も丸分かりで、夜は同僚たちとの飲み食いの話が多いが、新聞社員としての仕事以外に、朝晩、自宅(当時の住所は天神町八十番地の六)でも広告ポスター等の絵を描く内職の仕事もしており、寸暇を惜しんで働いていたことがうかがえます。



1930年1月1日(元旦)日記

元旦は家族で雑煮や餅を食べ、昼から会社の年始の挨拶回りをしています。元旦初日の日記に登場する「菊竹編集局長」というのは、おそらく反骨のジャーナリストとして知られる菊竹六鼓でしょう。菊竹六鼓が残した手記も『六鼓菊竹淳 論説・手記・評伝』(木村栄文編著、葦書房、一九七五年)として出版されており、諭吉の日記と同時期(昭和五年元旦~八月)の菊竹六鼓の手記を本書で確認しましたが、当時まだ入社したての平社員であった諭吉に関する記述は見当たりませんでした。


田中諭吉の企画の原点を探る

『福岡地方史研究』58号(2020年9月発行)に、史料紹介「没後五十年、光頭無毛文化財・田中諭吉『その日その日 昭和五年日記』を読む―太宰府天満宮「鷽替え・鬼すべ」取材の日記より―」を寄稿しています。昭和5年1月7日の太宰府鷽替え取材の日記と、翌日の福岡日日新聞の記事を紹介し、のちに太宰府天満宮「曲水の宴」を発案する田中諭吉の企画の原点を探っています。よろしければご覧ください。