崑崙山光円寺の歴史
崑崙山光円寺の歴史
・浄土真宗開山親鸞聖人と第八代蓮如上人
浄土真宗を開かれた親鸞聖人(1173~1263)のみ教えが、日本全土に広まったのは、本願寺第八代蓮如上人(1415~1499)の時代です。
・九州開教の祖、天然師
さらに、その念仏の教線が九州全域に拡大したのは、蓮如の弟子・天然浄祐
(1442~1506)の力によるものでした。
この天然は山口大内義弘の曾孫で、寛正元年(1460)山口功山寺で夢遊禅師について禅を学び、次いで、京都黒谷金戒光明寺で浄土宗の教学を学ばれ、上人の位を受けられた方です。
・ 光円寺開基住職義勝
応仁2年、光円寺開基義勝は京都に誕生しました。
「光円寺歴代誌」には、「開基義勝は、字は教授、性は源氏、細川右京大夫勝元(1430~1473)の庶子なり。応仁2年3月11日京師(都)に生る」と誌されています。 東軍の将・細川右京大夫勝元は、応仁2年大火の中で、我が子義勝の行く末を案じて、全ては仏の大慈悲にお任せするより道なしと決断し、黒谷金戒光明寺に修学する天然師に我が子の一生を託したいと懇願しました。
細川勝元は、文明5年5月11日に44歳で亡くなり、文明9年、やがて応仁、文明の乱は幕を閉じました。
・ 山科本願寺の建立
応仁の乱の終焉を見届け、文明10年蓮如上人は京都山科に本願寺建立を発願。
40万坪にのぼる大伽藍を建築しました。
文明14年天然は、この蓮如の名声を聞いて、法論を企てんと乗り込み、ひと目で偉大な蓮如の法徳にひれ伏し弟子となり、法名・浄祐を賜り、以後「天然浄祐」と名乗られました。
天然浄祐は、蓮如上人の意をたいし、西国伝道に専念することになり、文明14年大分森町に専想寺を、文明17年に添田に法光寺を、引き続いて中津に長久寺等々、念仏教線を拡大しました。
・ 花尾城主麻生近江守家信と天然浄祐と義勝
この念仏教団の進展に驚いた花尾城主麻生近江守家信は、明応2年(1493)花尾に天然浄祐を招請、この時天然はかねて細川勝元より託された義勝を同伴、家信はこの義勝の重鎮な風貌に感銘し、娘妙善との媒酌を懇願。一寺建立を要請しました。天然は大いに喜び、蓮師より「名号御真筆」一幅と「寺号光円寺」
の下賜を願い、光円寺開創を見届け、安堵して大分専想寺に帰坊されました。
天然浄祐は豊前、豊後を教化し、永正3年(1506)専想寺で御年65歳で浄土に往生されました。この天然浄祐師こそ、浄土真宗の九州開教の祖であります。
・ 光円寺開創と戦火による消失
花尾に浄土真宗の念仏道場光円寺が創建されて、しばらくは平穏な聞法の集いで賑わりました。
しかし、世は戦国動乱の時代、この平和は山口大内義隆によって破られることになりました。麻生家信の父弘家は、大内義弘の旗下として周防に出仕、山口で病死しました。大内家を継いだ大内義隆は、義にうすい人で、突然家信に、人質として預かっている上總守重郷(弟)をして花尾の城主にする故退去せよと申し渡しました。その時、家信は「これはいかに大内殿の命とはいえ無道なり」と拒絶、ここに戦がはじまり、3年に亘る攻防の末、ついに家信は敗退、光円寺は兵火により消失しました。この為、光円寺開基住職義勝、初代坊守妙善始め寺族一同、麻生家信と共に、遠賀岡垣の里吉木に退去しました。
この日から開基義勝は、遠賀・黒崎の間を往来、仏縁あるところ必ず念仏道場を設置し、白蓮社を結成し、ついに天文7年(1538)花尾麓に道場を建立しました。落成に際しては、本願寺證如宗主より辱くも、ご本尊並びに御寶章を下賜されました。この證如上人の『御文章』ご開版本は、光円寺の寺宝です。
開基住職義勝は天文21年(1552)10月24日85歳寂
初代坊守妙善は天文21年(1552)9月28日83歳寂
・ 第2世住職義浄
開基住職義勝の弟子の方で、細川勝元家臣海老名憲隆の子供です。
義勝と一生苦楽を共にし、花尾城攻めの寺消失の時も共に遠賀岡垣の里、
吉木へ退去。開基住職・初代坊守の最後も看取りました。
・ 第3世住職義教
義浄のお弟子の方。義浄亡きあと遠賀・黒崎を往来。仏縁あるところに念仏道場をつくりました。この義教の教化に感応し、善勝が入門しました。
・ 第4世住職善勝
姫路光徳寺三輪善順の弟。この不思議な仏縁が光円寺の新しい時代の幕開けとなりました。
・ 第5世中興住職順慶と井上周防守之房
井上周防守之房の姉は、姫路六坊のひとつ光徳寺住職三輪善順のもとに嫁入りしました。この光徳寺住職三輪善順は、傑出した僧で人徳・学歴・組織力にすぐれ、井上周防の軍師ともいえる人でした。黒田如水中津出兵は井上周防守も総力をあげた参戦が求められ、為に三輪善順も決断して、光徳寺住職を二男順慶にゆずり出陣しました。
慶長5年(1600)関が原の戦いは呆気ない幕切れで終わり、黒田長政は福岡52万石の封ぜられました。福岡の城づくりとあわせて各支城づくりが始められ、黒田長政は井上周防守之房に黒崎城築城を命じました。
井上周防守之房は黒崎城築上にとりかかり、その時黒田如水家臣として戦場で亡くなった一族郎党の菩提を弔う為、井上家祈念院を城の麓に建立したいと発願しました。彼は三輪善順とその妻(周防の姉)と善勝と相談し、周防の甥順慶を姫路光徳寺より呼びよせ、井上家祈念院を建立することにしました。
そしてその建築総指揮は家臣島津惣兵衛に命じました。
井上周防守之房ご内室玉章院は自らの念持仏(源信和尚作)阿弥陀如来像をご本尊として寄進。周防守は年30石、太刀一振り、陣太鼓などを寄進。ここに光円寺は新たに現在地に新築開創されました。
周防の甥順慶によりの血統は、脈々と現19世の住職の博隆まで続いています。
順慶は寛永5年(1628)9月4日65歳寂
5世坊守妙応は寛永3年(1626)4月4日寂
・ 第6世順西
字は彗明、第5世順慶の子供。順西は和気八兵衛の娘妙寛を坊守として迎えました。
・ 第7世順古
字は冷応、第6世順西の子供。井上家臣・原田百助の娘妙鏡を坊守に迎えました。
・ 第8世諦順
字は専流、第7世順古の子供。秋月侯の家臣・磯善右衛門の娘法寿を坊守に迎えました。
・ 第9世順貞
字は堪嶺、福岡の久保次右衛門の次男で、第8世諦順の長女・栄春と入寺結婚しました。順貞の三女は岩瀬恩光寺に嫁入りしました。
・ 第10世順慶
字は霊宏、第9世順貞の子供。書をよく読み、記憶力にすぐれ、学者で筆の達人と言い伝えられています。植木蓮照寺より妙宏を坊守として迎えました。
・ 第11世僧黙
幼名は小貳、福岡正法寺より入寺。第10世の長女・妙暁と入寺結婚しました。
・ 第12世宋塘
第11世の長男。岩瀬恩光寺より妙観を坊守として迎えました。宋塘の三男大慶は福岡妙静寺に入寺し、長女は戸畑の照養寺へ、次女は中山照専寺へ入室しました。
・ 第13世密蔵
字は道瀛、第12世の長男。密蔵は、別府行満寺より孝寿を坊守としてむかえました。
・ 第14世浄願
字は超然、山口滝部安養寺中山浄鏡の次男。第13世の長女おつる(孤鶴)と
入寺結婚しました。
光円寺のほ法義を隆盛に導かれた学者です。晩年は本願寺に招喚され、夫婦そろって上京し布教局に勤務しました。
・ 第15世僧英
感田浄福寺の住職・悦雲の弟。
第14世の長女・おたみと入寺結婚しました。
僧英の時代、明治37年5月20日より大雨となり、23日に未曾有の激しい雨によって、本堂東北の山面が大崩壊し、本堂・諸堂がことごとく土砂で埋め尽くされました。この時、本堂の裏の支柱が2本折れ、建物全体が大きく前に傾きました。その上、本堂裏の墓地も前面土砂で流され埋め尽くされる大惨事となり、光円寺最大の危機となりました。
僧英は門信徒と力をあわせて5年がかりで大修復を完了しました。
明治40年(1911)3月と4月には、本願寺で宗祖親鸞聖人の650回大遠忌法要が厳修されました。
この法要は日本始まって以来の民族大移動と言われた大法要となったのです。僧英は当時遠賀組(現在、東筑と遠賀の2組に分かれる)組長として黒崎駅より650人の団員を引率して上洛。まず門司港に大テントをはり、そこに集結。
煮炊きをしながら大阪行きの船を待ちました。大阪天満に上陸し、そこから歩いて梅田駅へ、梅田駅より汽車で京都へ。京都では臨時の駅をつくってそこで下車。又歩いて本願寺へお参りしました。旅館・ホテルは無く、その上汽車にはトイレもついてない時代のことです。この団体旅行を助けたのが、副組長の行満寺・内藤嶺外(当時29歳)でありました。その坊守は僧英の次女・まさきでした。僧英は実に多くの難事業をこなした住職でありました。
・ 第16世開眼
大分長州の妙満寺吟教の弟。第15世の長女・近野衛と入寺結婚しました。
寺子屋教室と子供会に力を尽くした住職でした。開眼は6人兄弟で、皆がそろってお寺に入りました。
① 日出・西教寺坊守・合屋トマ
② 長州・妙満寺・長岡吟教(本坊)
③ 黒崎・光円寺・井上開眼
④ 小犬丸・宝福寺・佐々木精海
⑤ 博多・善照寺・七里教英
⑥ 大分・教尊寺・藤音得忍
・ 第17世英樹
第16世開眼の長男。行満寺の嶺外の娘・範子を坊守に迎えました。
英樹は戦時中海軍に招集され、身体を壊して復員し、若くして亡くなりました。
坊守・範子は35歳で未亡人となり、寺と2人の子供を抱え、無住の光円寺を護りぬきました。
・ 第18世博厚
第17世の長男で妹・雅子と2人兄妹。
大分各念寺・三原宣雄の長女・篤子を坊守として迎えました。
第18世は、本山では本願寺総務に就任(昭和62年4月1日)。
聖典編纂委員長就任(平成7年5月1日)。
サンパウロ別院輪番就任(平成7年5月1日)。
総欅造本堂荘厳・ご本尊建刻等数々の大事業を成し遂げました。
・ 第19世博隆
第18世博厚の長男。広島西正寺・長女智子を坊守として迎えました。
平成14年11月10日(日)継職し、今現在に至ります。