沿革

【鳥居~参道】 

正確な創立年代は不明ですが、当八幡神社は古くより拝殿正面の『四社大神宮』の扁額が

安政六年(皇紀2519/AD.1859)記載と言われ、文化八年(皇紀2471/AD.1811)

当地が蓮花寺村と呼ばれた頃の古書『烏帽子官達之帖』に、

「南講中、北講中の両講をつくり神社の経済を保持し、諸祭儀を執行し来たれり。」との記載が有るそうです。

また大変読みづらくなっていますが、拝殿前にある石灯籠の刻字には天和二年(皇紀2341/AD.1681)とあります。

現在は甲子園八幡神社と言う名称ですが、以前は瓦木八幡神社と言われていました。

【本殿】 

現在の御社殿は安政の大地震で焼失した社殿を安政三年(皇紀2516/AD.1856)に再建し、

その百周年の記念事業として昭和三十二年(皇紀2618/AD.1958)に氏子崇敬者の浄財を得、

当地出身の建築技師 前川悦蔵氏に設計を依頼し、神社建築では珍しい八棟造を模作して御造営されました。

阪神大震災前は現在駐車場になっている境内南側に東側から居宅、社務所、直会所と繋がった

長い建物が有り、本殿南側に今も残る階段は、直会所外の廊下に繋がっていました。

昭和四年の寄付芳名碑に玉垣、及び敷石造営の記述が有ります。


昭和六十二年に瓦葺きの屋根を銅板葺きに変更しました。

名前は先々代宮司です。

平成七年(皇紀2655/AD.1995)阪神大震災で本殿、鳥居、舞台の一部が半壊、社務所、居宅、直会所等が全壊し、

居宅、社務所、直会所の撤去前に社務所を建てる事を急いだ様で、

現在の様に参道横すぐの所に社務所を建て、壊れた建物を撤去し、現在に至ります。

 畑中義雄元宮司(~平成七年)が、昭和53年に記された下記の原文を元に追記しました。

原文:『甲子園 八幡神社略記』 昭和五十三年三月記

創立年代不詳なれども当八幡神社は古くより四社大神宮「拝殿正面の扁額安政六年記載の物あり」と称せられ、氏子の崇敬篤く特に文化八年(1811)当地を蓮花寺村と称する頃の古書「鳥帽子官達之帖」に徴しても明らかになり、即ち南講中、北講中の両講をつくり神社の経済を保持し諸祭儀を執行し来たれり。

尚現在に於いても伊勢神宮代参等なし氏子の安穏、国家の繁栄を祈願され帰りて当社に報告債を執行されておるのであります。

今は氏子の増加と戦後時代の変遷に伴い両講を軸として敬神会を組織なし氏子崇敬者各位の奉賛の誠により諸祭儀を奉仕させていただいております。

現在の御社殿は安政三年(1856)に再建されて以来百年、之が記念事業として、昭和三十二年(1958)氏子崇敬者の浄財を得て、設計を当地出身の建築技師前川悦蔵氏に頼りて、神社建築中最も珍しい八棟造を模作して御造営されたものであります。

尚年歴を証する物は刻字(天和二年(1682)鳥養)の銘を有する釣燈籠を始め、同年代の石燈籠、石鳥居等諸種あります。

八幡神社の歴史について(平成五年[AD.1993]宮司 畑中義雄 記す) 原文まま

今は甲子園八幡神社と云っておりますが、前は瓦木八幡神社、亦の名を四社大神宮と称されて来たのであります。

今も拝殿正面に四社大神宮と金文字で書かれた安政六年記載の扁額が揚げられてあります。

八幡神社の歴史を話すために、私の記憶だけでは誤りがあってはいけないと思いまして先ず昭和十七年編纂された瓦木村誌に頼る事にしたのであります。

村誌の中で当社に該当する部分を開いてみますと、634ページに創立年代不詳と書かれてあります。

これは古いという証拠で大方の神社は古いため年代は不詳であります。

ところが歴史を話すのに年代が解らないでは話になりませんのでお宮の境内に有る物を調べて見ますと、シャシャンボという珍しい木が有ります。

その木を植木職の人が見られて、此はこの辺にない木で樹齢五百年くらいだろうと云っておられました。

(昭和十七年もちの木の太さ大人三人位手を伸ばさないと届かない大木が突風で倒れた。戦意昇揚の為根まで庁付たこと)

年代順に申しますと、拝殿前にある石灯籠の刻字を見ると天和二年、江戸時代、西暦1681年で今から約312年前の物と、境内の入り口の石鳥居の刻字には享保三年(戊戌年)、西暦1718年で今から275年前の物で、御神燈には寛延二年245年前の物で、他にも狛犬(文化十二年 西暦1815年)、釣燈籠等有りますが、同じ頃の物であります。

これらを見ますとおよそ450~500年前の頃創立されたのではないかと思います。

直村誌に記載されている処も年代順に見てみますと延享三年寅三月今から250年前の事ですが、瓦木村は尼領に属していたので尼領村々の調書に、当社は武庫郡下瓦林村の氏神で家数四十五軒で人高(人数)221人でありました。

御祭神は、

蓮花寺分として、天照大神宮、八幡宮、春日大明神、住吉大明神

(村誌635頁に記されてあります)

松門分として、春日大明神、住吉大明神

このことは、明治年間のお話の処で申し上げる事にさせていただいて、

次に636頁を見ますと当時八幡神社には神主は居らず、村中で宮守を年番制をとり年番に当たった人は身を清めて一年間毎日のお供えをする等してお宮を御守りして来たので有ります。

年番を定めるのは烏帽子官達の講を開いて定めたと記されてあります。

神主の代わりを務めるのでこの様な名称の講を作って居た様であります。

私(畑中義雄宮司)が来た当時旧家の古老からよくこの様な話を聞かされました。

この様にして氏神様を大切に御守りして居られたのでありますが、今から139年前の事ですが、お宮は一度火災に遭っているので有ります。村誌には『安政二年十一月火災に遭い、翌年安政 三年改築した、この時請願して神祇伯、神祇官の長官より神璽の勧遷を受けた』と村誌には簡単に記載されています。(※安政の大地震:江戸時代後期の安政年間に日本各地で連発した大地震である。)

ところが当時の古老が書き残された書類を見ると『大地震があり、村民がお宮に逃げ込み地震がおさまったので我が家が心配になり皆が家に帰るとお宮に火の手が上がり消失した。寒さのため焚き火をしていた事に誰もが気づかなかった』という様な事が書かれてありました。

全焼したので神璽を請願の為、瓦木村の領主であった尼崎の奉行所へ行くと叱られるだけで、どうにもならず、仕方なく有力な武士に頼んではと言う事になり、手づるを得て武士に頼んだ処、大阪の奉行所に聞き届けられ、京都の白川御所へ行き神璽を受ける事になるが、御所に行くと裃を着てくるように言われる。百姓の身で裃など持っているはずも無く、京都中を探し回り暫く借りる事が出来たので、それを着て御所へ行き神璽の勧遷を受けた処、帰途道中に神璽を下ろしてはいけないとの事。

奉持して乗り物も無いので徒歩で帰り着いた時、丁度夕方でお宮の中に柵が作ってあったので、柵の上に安置した。と大変苦労された様子が書かれてあります。

この時の公文書の副申書が当社にあります。  (付録)

安政年間から明治初年までの間は取り上げてお話しするような事は見つかりませんが、明治六年八月、それまで無格社でありましたが、村社に加列したので有ります。

その頃南北両講がありました。

北講中(平成二十四年歳旦祭を以て解散)は、現在上甲子園一丁目の公園の地に春日神社、亦の名を松門の宮と云ったお社が有ったためでありますが、明治八年に南講中の氏神八幡神社に合併されたのであります。

その後は両講でお宮を御守りしてこられたのでありますが、神官は兼務でありました。

ところが昭和十二年支那事変等があり国家安泰祈願等のため、氏子数八百戸以上有る神社は本務の神官を置く事になり昭和十六年に私(畑中義雄宮司) が迎えられてきたのであります。

来て暫くして驚いた事は瓦木村には六ヶ部落ありお宮も六社有りますが、当時本務神職は私一人で他の社は兼務で常に神官が居ないため大変忙しかった上、昭和十六年十二月大東亜戦争に突入したので、戦勝祈願に応召兵の安泰祈願等あり、その上戦死者の慰霊祭等で夜も寝られない日が多かったのであります。

なお戦前は国が神社を管理しておりましたので、神主は国家試験を受け、定められた法令に基づいて祭礼等も行ってきたのであります。

祭礼については、毎年、祈年祭、新嘗祭、例祭と三回大祭を執行致します。

この時必ず警察に執行の日時を届ける事になっており、警察署からは礼装の警官が派遣され、祭典の護衛にあたられました。

又祭典に要する費用は氏子費、区費等で賄われていたのですが、昭和十七年に瓦木村が西宮市に合併する祭の合併条件に祭典費~神職の俸給等が市から支出される事になっていたのですが、敗戦後のポツダム宣言により国家と分離され如何なる宗教も公の財産の援助を受けてはならないと云う事で、合併条件も無になり他の宗教と同等の扱いとする事で、宗教法人令に従う事になったのであります。

暫くして国が独立をして宗教法人法になり、当社も宗教法人 甲子園八幡神社になったのであります。