歴史、郷土、雑学、おもしろ話
(227)砂丘の山、花見山
(226)戦没者の7割が昭和19年以降に戦死
(225)船原古墳からつば付の冑を発見
(224)正倉院の「勅封」
(223)花見の氏神様、大歳宮
(222)千鳥ヶ池の干し揚げ
(221)青柳用水路
(220)千鳥ヶ池の「池干し神事」
(219)砂鉄中継所跡の石碑
(218)黒田24騎の1人、菅和泉守正利
(217)北部九州の修験道の三大霊場
(216) 一枚の写真から
(215) 南区公民館の建物は中学修猷館講堂の移築
(214)戦争とくらし
(213)東前寺を再興した飯尾理入斎
(212)蘭奢待
(211)筵内の安武秀久氏
(210)大阪大学とマチカネワニ化石
(209)清瀧寺と松源院
(208)花鶴浦を福間浦と新宮浦に分割
(207)令和の米騒動
(206)若宮ゴルフ場の古野神九郎の墓
(205)福岡荒戸山東照宮
(204)戦時の狂気
(203)聖なる山、鹿部山
(202)イパネマの娘、八十歳
(201)薄葬令を考える
(200)玉せせりの起源
(199)肥後藩での旧柳川家臣の居住跡
(198)コンクラーベ秘密の内幕
(197)新ローマ教皇選挙、コンクラーベ
(196)鶫岳城登山日記
(195)難波部安良売
(194)医王寺の六地蔵
(193)ムツゴロウのむっちゃん万十
(192)宗像の装飾古墳、桜京古墳
(191)庄地区の六反様
(190)天満宮は田神と天神の複合の神
(189)筥崎宮の「玉せせり」が無形文化財に指定
(188)青柳踊ヶ浦の古瓦
(187)名槍「日本号」の経歴
(186)経塔さま(大乗経典一字一石塔)
(185) 花鶴浦と福間浦
(184)花鶴浦の漁場を新宮浦と福間浦に分割
(183)戦艦大和の無謀な海上特攻
(182)席内新川を掘削する
(181)曾根仁左衛門、同源兵衛兄弟の墓
(180)丸尾池と丸尾山
(179)西の都、日本遺産の認定を取り消し
(178)お米に関する独特な単位
(177)溜池が無い堀池記念碑
(176) 福岡国際マラソン、古賀町折り返し
(175)筵内の山の神
(174)蛍ヶ丘の薬師如来像板碑
(173)「やばい」を考える
(172) 天降神社の潮満珠 潮干珠
(171)宗像氏貞の妹、色姫の墓
(170)朝鮮通信使船、相島に寄港
(169)斎藤甚右衛門良親の嫡男が筵内村を領す
(168)団氏の墓を発見
(167)年賀状じまいも時代の流れか
(166)令和の米騒動
(165)もしトラ・ほぼトラ・またトラ
(164)薬王寺の飯尾理入の墓
(163)色姫の墓は誰が建立したか
(162) 謎の盃状穴
(161)賀寿の祝い
(160)薦野増時、奥山三河入道玄賀を名乗る
(159)ふるさと納税これでいいのか
(158)青柳寺浦にあるぽっくり地蔵
(157)世の中が変化しようとしている
(156)謎の人物、団左近将監宗時
(155)興山園の前身は香山園
(154)薬王寺地区の立石と切り通し
(153)古賀の戦争とくらし
(152)龍はなぜ珠を持っているのか
(151)漂着の「石井忠資料館」が開設される
(150)古賀市には「おひの水」が二ヶ所ある
(149)僕らの英雄、怪傑ハリマオ
(148)来年の令和七年は昭和100年になる
(147)小竹の青面金剛石像
(146)優先は右側通行か
(145)立花山麓の梅岳寺
(144)席打駅の遺跡か、踊ヶ浦の古瓦
(143)お弁の方と千代松の墓
(142)重要文化財の芦屋釜が常設展示
(141)古賀の筑前竹槍一揆事件
(140)筵内の知行地とした斎藤甚右衛門
(139)米多比村の村山新三郎鎮種
(138)「被団協」の受賞
(137)日本四大眼科、上須恵の田原眼科
(136)青柳村の勘慶さま
(135)よろいを着た馬の埴輪が出土
(134)人生100年時代
(133)1厘貯金之碑
(132)島原の乱直後の書状発見
(131)悲惨な享保の大飢饉
(130)細菌兵器開発の731部隊
(129)新原地区を救った「新原掛溝」
(128)マングースを根絶する
(127)青柳寺浦の大日如来座像
(126)古賀に米軍の演習場が出来る
(125)堀池と羽金堰手
(124)立花鑑載が逃げた古子城
(123)福岡空港の歴史
(122)鞍手郡新北の薦野氏
(121)9月2日を終戦記念日に
(120)丹治峯延を祀る濱源神社
(119)筵内の払い下げ記念碑
(118)韓国の玉虫装飾馬具
(117)東福間団地の千鳥姫の祠
(116)千鳥ヶ池伝説と千鳥姫の祠
(115)8月15日、終戦記念日
(114)SLやまぐち号に乗って
(113)福津市の上八という地名について
(112)相島積石塚の語るもの
(111)新原の一里塚と松並木
(110)クマゼミの羽化
(109)馬が日本に来たのはいつか
(108)古賀の特産品、瓦業
(107)谷山八幡宮の線刻石を発見
(106)清瀧寺の十七坊記念碑
(105)キリストの金像を掘り出す
(104)飯尾理入の墓
(103)幻の袖の湊
(102)清瀧寺の「頼恩之碑」
(101)古賀町役場は何処か
(100)聖徳太子と日出づる処の天子
(99)旧陸軍赤城部隊、薦野に駐留する
(98)郡・評の論争
(97)薦野村の医者、井上市治
(96)昔日の花見海岸
(95)飯盛山麓の団氏の墓
(94)薦野増時、桜井兄弟を誅殺
(93)青柳石瓦の色姫の墓
(92)政治にはカネがかかる
(91)古代山岳寺院、薬王寺廃寺
(90)宝満山のヒキガエルたち
(89)増時の婚約者、政千代
(88)古賀市にも在った印鑰社
(87)旅する蝶、アサギマダラ
(86)昔の天神を再現する
(85)糟屋の御家人、薬王寺次郎
(84)戸次道雪も象を見ていた
(83)秀吉、幻の博多城計画
(82)吉実塚を訪ねて
(81)福岡城天守の築城議論
(80)古賀のシンボル鹿部山
(79)鹿部の聖観音立像
(78)鬼王荘の横山白虹の句碑
(77)空海の千字文
(76) 立花秋水、二日市温泉で一句
(75)古賀村の特産品、瓦
(74)道雪の妻、仁志姫(宝樹院)の墓
(73)最澄伝説を検証する
(72)砂鉄中継所跡の石碑
(71)島原大変肥後迷惑
(70)清瀧寺(薦野)の鐘
(69)福島第一原発事故の再来を防ぐ
(68)善導寺の誾千代の墓2
(67)戸次鑑連が道雪と号する時代を検討
(66)小山田の十三仏
(65)善導寺の誾千代の墓
(64)2024年と1996年は同じ暦
(63)奥山三河入道玄賀
(62)ランタン幻想
(61)太宰府天満宮のお石茶屋
(60)パレスチナとイスラエルの紛争の背景
(59)古賀市出身の中村哲さん
(58)天狗の忘れ物(天降神社)
(57)薦野氏の墓所、養徳山
(56)観世音寺の碾磑
(55)戸次道雪が立花家を引き継いだ理由
(54)御旗・御名字の御祝
(53)戸次道雪と立花道雪
(52)久山町の修羅山遺跡を訪ねて
(51)鹿部山の日の丸の旗
(50)立花宗茂、立花城を守る
(49)高橋統虎は道雪の人質説
(48)福間から津屋崎まで馬車鉄道は走る
(47)馬冑、3点
(46)二つの九州太閤道を考える
(45)黒田長溥と乙丑の獄
(44)立花弾正増熊の「弾正縄」
(43)鞍手郡新北村に在住の薦野氏
(42)竹崎季長の墓
(41)竹崎季長の菩提寺塔福寺を訪ねて
(40)九州の関が原、石垣原合戦
(39)大根川の各地の弘法大師伝説
(38)青柳宿の大火事
(37)古賀ゴルフ場8番ホールの大松神社
(36)北部九州独自の「那珂八幡古墳」
(35)薦野 清瀧寺の頼恩之碑
(34)大宰府政庁を守った元寇防塁
(33)二天一流第五代師範 立花峯均
(32)梅花の宴で伴氏百代のジャブ
(31)伝説の弥五郎どん
(30)丹治式部少輔峯延墓碑銘
(29)九州の関が原合戦と宮本武蔵
(28)黒田藩に仕えていた武蔵の父、新免無二
(27)薦野村にも居た定礼医、井上市治
(26)国民健康保険のモデル「定礼」
(25)立花増熊が参拝した濬源神社
(24)イパネマの娘、80歳になる
(23)唐津街道と一里塚
(22)加藤司書の追悼会
(21)石造物にある謎の信仰「盃状穴」
(20)神屋宗湛の墓に出会う
(19)九州鉄道の路線が変更される
(18)福岡にいた宮本武蔵
(17)大旱魃で久保池を寄贈する
(16)「千人参り」修納記念法要
(15)新宮町から出土の「鳥足文叩き土器」
(14)花見松原の中にあった花見山と大歳社
(13)糟屋北部新四国千人参り
(12)蒙古襲来で神風は吹いた
(11)昭和28年の筵内河川改修記念碑から
(10)ハート型は猪目(いのめ)と言います
(9)米多比氏の古墓(舎利蔵)
(8)米多比氏の墓「よろい墓」(米多比)
(7)地元の人達が祀る飯田地蔵尊
(6) [立花成家] の位牌の解釈
(5)「立花成家」の位牌を発見
(4)「竹崎季長、恩賞を直訴」
(3)「少弐氏兄弟の対立と岩門合戦」
(2)「道雪と号するのは何時か」
(1)大友義鎮が「宗麟」と号したのは何時か