コラム

 歴史、郷土、雑学、おもしろ話

(98)郡・評の論争

(97)薦野村の医者、井上市治

(96)昔日の花見海岸

 (95)飯盛山麓の団氏の墓

 (94)薦野増時、桜井兄弟を誅殺

 (93)青柳石瓦の色姫の墓

 (92)政治にはカネがかかる

(91)古代山岳寺院、薬王寺廃寺

(90)宝満山のヒキガエルたち

 (89)増時の婚約者、政千代

(88)古賀市にも在った印鑰社

(87)旅する蝶、アサギマダラ

 (86)昔の天神を再現する

 (85)糟屋の御家人、薬王寺次郎

 (84)戸次道雪も象を見ていた

(83)秀吉、幻の博多城計画

(82)吉実塚を訪ねて

 (81)福岡城天守の築城議論

 (80)古賀のシンボル鹿部山

(79)鹿部の聖観音立像

(78)鬼王荘の横山白虹の句碑

 (77)空海の千字文

 (76) 立花秋水、二日市温泉で一句

 (75)古賀村の特産品、瓦

(74)道雪の妻、仁志姫(宝樹院)の墓

 (73)最澄伝説を検証する

(72)砂鉄中継所跡の石碑

(71)島原大変肥後迷惑

(70)清瀧寺(薦野)の鐘 

(69)福島第一原発事故の再来を防ぐ

(68)善導寺の誾千代の墓2

(67)戸次鑑連が道雪と号する時代を検討

  (66)小山田の十三仏

 (65)善導寺の誾千代の墓

(64)2024年と1996年は同じ暦

 (63)奥山三河入道玄賀

  (62)ランタン幻想

 (61)太宰府天満宮のお石茶屋

      (60)パレスチナとイスラエルの紛争の背景

 (59)古賀市出身の中村哲さん

 (58)天狗の忘れ物(天降神社)

 (57)薦野氏の墓所、養徳山

 (56)観世音寺の碾磑

(55)戸次道雪が立花家を引き継いだ理由

 (54)御旗・御名字の御祝

(53)戸次道雪と立花道雪

(52)久山町の修羅山遺跡を訪ねて

   (51)鹿部山の日の丸の旗

  (50)立花宗茂、立花城を守る

  (49)高橋統虎は道雪の人質説

  (48)福間から津屋崎まで馬車鉄道は走る

(47)馬冑、3点

(46)二つの九州太閤道を考える

(45)黒田長溥と乙丑の獄

(44)立花弾正増熊の「弾正縄」

(43)鞍手郡新北村に在住の薦野氏

(42)竹崎季長の墓

(41)竹崎季長の菩提寺塔福寺を訪ねて

(40)九州の関が原、石垣原合戦

(39)大根川の各地の弘法大師伝説

(38)青柳宿の大火事

(37)古賀ゴルフ場8番ホールの大松神社

(36)北部九州独自の「那珂八幡古墳」

(35)薦野 清瀧寺の頼恩之碑

(34)大宰府政庁を守った元寇防塁

(33)二天一流第五代師範 立花峯均

(32)梅花の宴で伴氏百代のジャブ

(31)伝説の弥五郎どん

(30)丹治式部少輔峯延墓碑銘

(29)九州の関が原合戦と宮本武蔵

(28)黒田藩に仕えていた武蔵の父、新免無二

(27)薦野村にも居た定礼医、井上市治

(26)国民健康保険のモデル「定礼」

(25)立花増熊が参拝した濬源神社

(24)イパネマの娘、80歳になる

(23)唐津街道と一里塚

(22)加藤司書の追悼会

(21)石造物にある謎の信仰「盃状穴」

(20)神屋宗湛の墓に出会う

(19)九州鉄道の路線が変更される

(18)福岡にいた宮本武蔵

(17)大旱魃で久保池を寄贈する

(16)「千人参り」修納記念法要

(15)新宮町から出土の「鳥足文叩き土器」

(14)花見松原の中にあった花見山と大歳社

(13)糟屋北部新四国千人参り

(12)蒙古襲来で神風は吹いた

(11)昭和28年の筵内河川改修記念碑から

(10)ハート型は猪目(いのめ)と言います

(9)米多比氏の古墓(舎利蔵)

(8)米多比氏の墓「よろい墓」(米多比)

(7)地元の人達が祀る飯田地蔵尊

(6) [立花成家]   の位牌の解釈

(5)「立花成家」の位牌を発見

(4)「竹崎季長、恩賞を直訴」

(3)「少弐氏兄弟の対立と岩門合戦」

(2)「道雪と号するのは何時か」

(1)大友義鎮が「宗麟」と号したのは何時か