宮家準名誉教授は1933年に東京で生まれ小・中・高と岡山で育ちました。1952年に慶應文学部に入学、1956年からは東大の院に進まれ1962年に修了、その後慶應にて助手・助教授を経て1975年から教授を長年勤めてこられました。慶應を定年退職された後は2007年まで國學院で教鞭をとられました。専門は宗教民俗学・修験道になります。
ちょうど社会学専攻の中で文化人類学が取り入れられた時期の先生でもあり、以下のインタビューでは宮家先生にご自身の研究者人生を振り返ってお話しいただきました。
聞き手:東野隆弘(社会学研究科三尾ゼミ所属後期博士課程3年)、東島宗孝(社会学研究科三尾ゼミ所属後期博士課程3年)
場所:宮家先生東京のご自宅
日時:2023年5月12日
(『慶應義塾大学 文学部百年記念誌』慶應通信 1993)を見ながら)
宮家「私はこういう形で社会学専攻のことを書いたんですけど、これは各専攻から書いたんですよね。人間科学専攻が出来たいきさつにもふれました。」
東野「書いてるんですね」
宮家「この前はね(慶應義塾の)125周年の時は各地で代表が講演会やってね、私は九州の福岡でやったんですけど、そんなことはありましたね。一昨年かな、私の米寿の祝いをね、宮家会(宮家先生の指導を受けた学生や院生たちによる同窓会。一部に佐原六郎先生のゼミ生も含む)でやったんですよ。その時にね、こんな話(聞き手の院生が持ってきたプリントの質問)にも合う話をしたんですよ。その時を思い出しながらしたらいいかな。去年だったかな。」
(お菓子など食べながら和やかに歓談。)
インタビュー中の宮家先生
高校生の頃(1950年前後)
宮家「この歳ですからね、今は身辺を整理してるんですよ。私が学生の頃から、だんだんと話していきましょうかね。社会学専攻ですね。資料は貸しといてあげますから(宮家先生の著書などをお借りする)。私自身はね、父方の家が山伏の家なんですよね。それで親にやらされそうだと思っていました。私は新制中学ができる前ですからね。旧制中学に入ったんですよ。旧制中学に入って学制が変わってね、新制になったもんですから、女学校と中学校が一緒になるというもんでね。それで、高校1年の時にね、女学校と中学校(男子校)が一緒になって、くじ引きで青は元男子校、赤は元女学校に通って男女共学にになったんです。私はくじ引きで赤いほうで元女学校に行っちゃって。高校二年生の時で結構遊んでいたんですけどね。
それから3年ごろになって親父がそういうことで、卒業したら家をやらなきゃいけないというもんですからちょっと嫌になっちゃって、あんまり勉強しなかったんですよ(笑)。それで2年の時に結構成績よかったんだけど3年になってガタッと落ちちゃって、その当時は進学適性検査というのがあって、今のなんていうのかな、全体の能力みたいな、全部の科目はできなかったもんですから。慶應なら英語と社会でいけますから。歴史は好きなもんですから、慶應に入ったんです。
慶應に入って史学科に行こうかと、親自身も史学科に行くようなつもりで、当時修験の家だったもんで、和歌森(和歌森太郎)さん(のところへ)も父に連れて行ってもらったりして、お会いしたことあるんですよね(和歌森先生が宮家先生のご先祖である小鳥法師について調べていたことが関係あるということです)。高校生、高3の時に。(昔の話に関しては)「虚学のススメ」(『慶應義塾大学文学部百年記念誌』慶應通信 1993 162頁-169頁)というのにも書いていまして、昔のことについてはこの本にも論文入れました。(『修験道と児島五流―その背景と研究』岩田書院 2013)」
学部生(慶應)から院生(東大)にかけて(1952年から1962年まで)
宮家「私は慶應に入ってから語学力を付けようと思って慶應外語に通ってたんですね。そうすると私のクラスの中で何人か通ってたんですね。その連中は慶應外語に通っていたのは理由があって、2年になったら経済学部か法学部に転科する試験があるから受けるためだったんですよね。」
東野「そういう(笑)」
宮家「そういう友達についついつられたこともあったし、社会学に行ったんですよね。その頃は社会学だけ(専攻を決めるための)試験はあったんですよね。今もそうかもしれないけれども。それで社会学に行ったんですよね。社会学に行ってすぐ、社会学の新館(新館正國)先生という主任教授の先生が亡くなっちゃたんですよね。当時社会学専攻は社会学と社会心理学と2つのコースに分かれてたんですよ。社会学の方は新館先生で、仲(仲康)さんという人が助手でしてね。それで社会心理の方は佐原六郎という先生が、この先生はもともと京大を出た先生なんですけどね、塔の研究が好きで、タワーですね、世界各地の塔を歩いて研究されて、一方で心理学をやっていたんですね。それで助教授で佐野さん(佐野勝男)という人がいてね、その二人が社会心理学だったんですね。社会学は新館先生が亡くなったもんですから、横山寧夫という先生がやっておられて、この先生は通信のインストラクターだったんですけどね、それから新館先生の助手の仲さんという人がいて、そんな体制で(教職員が減ってしまって)ガタガタだったんですね。
私は友達にも恵まれてて、私、岡山が郷里なんですけど、同じ岡山の郷里(の出身)に浅野(浅野保太郎)っていう全塾自治会長をやってた人がいて、国領(国領敏子)さんという女の子は卒業の時に銀時計もらいましたけどね、この2人と何人かであつまって、学生たちで何かしようじゃないかということでね、それじゃ三田界隈の調査をやろうじゃないかと言ってやったのがこれ(「調査 慶應大学とその近隣地域との関連性について」1955年8月)なんですよね。そうしたら佐原先生がとても喜んでくださって、自分のお金で本作ってくださったんですよ。この本は鈴木(鈴木正崇)さんに預けときましたけど。それとその当時、さっき渡した雑誌ですね。その雑誌を作って(三田社会学会誌の復刊)。当時私、藤井っていう姓だったもんですから。この論文ですね(「”調査 慶応義塾とその近隣地域の関連性”の概要」『三田社会学会誌』第2号、1955年11月)。これにその要旨を書いたもの。そんなことが社会学の頃あったんですよ。後に塾長になる奥井(奥井復太郎)さん、この三田祭での研究発表を見に来た人が都市社会学の権威でね。今もそうかもしれないけども都市とか産業とかは学生がバーッと集まるけども、そのほかは余り集まらないですよね。」
東島(苦笑)
宮家「奥井先生(奥井復太郎)が都市社会学をやっていてですね、山岸(山岸健)さんなんか奥井先生について一時、都市社会学やってましたね。そういう意味でね、奥井さんにこの本を献上したらびっくりしてくださって、慶應義塾とその近隣地域というのは分かるけれども、田町という地域はそのうち南の方がうんと開けるから、慶應だけ注目したらだめなんだと言われて、ハッと気が付いたんですよね。とにかくそういうこともあって、卒業する頃に佐原先生が大学院にすすまないかって言われたんですけどね。ただ卒業するとなると家のこともあったりして、田舎の修験の教団の本山に行ったりして、継ぐことを決心して。そしたらちょうど東大の岸本英夫という先生がいらっしゃてね、岸本先生が東大の主任で慶應にも講師としてこられてたんですけども、ちょうどアメリカにいらっしゃったんで、助手の脇本(脇本平也)さんという人がね。代講でいらしたんですよね。
脇本さんの講義を聞いて相談したらね、その時岸本さんが山の会っていうのを作ってて、山の宗教を研究してるから、東大来たらどうかって言われて、岸本先生に出会って東大に行くことを決めたんですよね。同時に君は宗教社会学にいるんだから、東大に小口偉一という宗教社会学の先生がいらっしゃるから、当時マスコミの売れっ子だった小口先生を紹介してくださったんですね。小口先生は、宗教社会学に当時シカゴ大学にワッハ(ヨアヒム・ワッハ Joachim Wach)という人がいて宗教社会学について本を書いたもんですから、それを卒業論文にしろと言って。ついては、シカゴ大学でワッハについて勉強した平井(平井直房)先生という人が國學院にいるから、紹介するから平井さんに会ってきたらと言われて、平井先生について卒業論文(『ヨアヒム・ワッハの宗教社会学 ―その方法論についての考察―』)、これですけどね。これ書いたんですよね。
学部の卒業論文
私、父が修験の家だったんですけど継がなくて、父の弟の養子になって継いでたんですよね。父は藤井って名乗ってたもんだから、四年の時に養子に入って姓が変わったもんですから、卒業論文の名前のところに上から紙を貼ってるんですね。そういう論文ですけども。そういう状況で卒論も出して東大行ったんですよ。最初の年は、その頃田舎の教団に養子に入ったから、社会学を学んだのだから、自分の修験教団を研究することをすすめられてね、修士論文書いたんですよ。当時の東大は面白くて、今のように印刷がないですから、先生が論文を持ちまわして読むんですよ。これが修士論文(『修験道教団の研究 ―信者と指導者の関係―』)です。修士論文を書いて、それと同時に教団のね、地方組織ですね、今でいうと里修験、地方組織をずっと調査してまとめたんですけどね。それをまとめていれたのが、この本(『備前の児島・五流修験 その歴史と伝承』春秋社 2021)の最後の章ですね。そうすると岡山大学の先生(徳永誓子)にこの本で一番いいと(書評にて、『岡山地方史研究』157号 25頁-31頁)言われたもんですから。びっくりしちゃった私、修士論文褒められたのは初めて。
それと同時に、家のことをやらなきゃいけないと思ってたもんですから、田舎で父から護摩とか修験の修法を学んだんですよね。地方を回りいろんな里修験から修法を聞いてまとめたのが『修験道儀礼の研究』(春秋社 1971)なんです。」
東野「ああ、そういう」
宮家「それをまとめたのが学位論文で、それが話題になって、文学部長の澤田允茂先生の推薦もあって(1974年に)ハーバードの世界宗教研究センターに行くことになるんですけどね。そんないきさつがハーバードに行くまであったんです。
社会学の中のことを話しておいた方がいいですね。社会学専攻は私が出た後、農村社会の権威の有賀喜左衛門という先生がいらっしゃって、(東京)教育大学(現筑波大学の母体)にいらっしゃったんですけど、定年で慶應にいらっしゃったんです。その時に、松本信広(廣)先生がいらっしゃって(松本先生は文学研究科と社会学研究科を兼任されていました)。有賀喜左衛門先生が社会学専攻の主任になっておられたんですね。有賀先生のいとこになるのかな、池上広正さんという先生が東大の講師だったんですよね。池上先生に色々と指導を受けたこともあったんですけどね。池上先生は宗教民俗学や山岳宗教の研究者であったもんですからね、東大の時は民俗学ですとか文化人類学ですとか、宗教学のほかに学びました。宗教学の研究会では岸本先生が山の会というのを主催してて、各地の修験を先輩と歩いて調査して、それも修士論文に入れたんです。ともあれそういうことをずっとやっていたんですね。」
東大での修士論文
助手として慶應へ(1962年から)
宮家「東大のドクターコースに進んでから、佐原先生のところにはお年始には挨拶に行ってたんですよね、そうすると慶應に帰ってこないかと言われたもんですから。それで(1962年から)助手として慶應に帰って、助手になったんです。当時の慶應の社会学では文学部の社会学と、法学部の政治学科の社会学が非常に強かったんですね。米山桂三(戦後における文化人類学の慶應への本格的な導入、新聞研究所の設立)という先生がおられてね。米山先生のお父さんというのが三井信託を作った人(米山梅吉)だったんですよね。財閥の御子息なんです。その人が非常に新しいものに目を付けるんで、佐原先生も新しいものに目を付けるもんですから、当時シカゴ大学から帰ってきた矢崎(矢崎武夫)先生がいましてね、人間生態学ですとか都市人類学をやられたんですね。矢崎先生を講師に招かれて、ゼミがえらく人気があったんですよ。私は矢崎先生がその後留学された時矢崎ゼミを預かったことがあります。
米山先生が当時文化人類学に非常に関心持ってたんですね。政治学科で文化人類学を十時(十時嚴周)先生という人にやらせたんですね。十時先生という人は、大学院の社会学研究科の第一号の博士号取ったんですよね。」
東野「おおー」
宮家「その論文が『産業人類学序説』なんですね。当時はそういう形で。その時審査の先生がこれは大学院社会学の最初の(博士)論文なんだから、慎重に審査しなさいと言ったのを覚えてます。」
宮家先生の講義・ゼミ
宮家「私は助手になって原典購読やったときにね、マリノフスキーやラドクリフ・ブラウン、レヴィ・ストロースを読んだんですよね。そのあとも文化人類学の本読んだんですよ。社会学専攻の中は社会学専攻と心理学専攻の二つのコースに分かれてたんですよ。社会学のコースとして山岸さんが残ってたから、私は社会心理学の株で助手になったんですね。
有賀先生も文化人類学に関心があったもんですから少しずつやったんですけども、「虚学のススメ」にも書きましたけども、専任講師になってからゼミを持つようになったんです。ゼミを持った最初の年に、柳田國男の娘婿の堀一郎先生に東大時代に教えを受けていたものですから、堀一郎先生の『民間信仰』というのをテキストに使ったんですよね。
そしたらその時にゼミ生が7人来たんですよね。そのうちの5人の女の学生が、米寿の時にこれ送ってきたんですよ(テディベアのぬいぐるみ)」
東野「何十年越しに(笑)」
宮家「そんなこともあったね。もっとも最初のゼミには牧師さんになった男の子が一人いました。楽しくやったんだけど、結構しごいたせいもあって、次の時にゼミ募集したらゼロだったんですよね。」
東野「厳しかったんですかね」
宮家「志望者いなくなっちゃってね。都市社会学や産業社会学に志望して落ちてしまった人がゼミに来ました。そこで方針を変えることにしましてね、民間信仰から民俗学に変えることにしてフォークロアのね。何してもいいことにしたんですよ。そうしたら学生来るようになってね。そういういきさつがありました。」
少し戻って、東大でお世話になった先生方(1956年からの東大時代)
宮家「東大はさすがに非常に先生は良くて、主任教授の岸本先生は山岳宗教をやっておりますし、池上広正先生は民俗宗教、民俗学。のちには堀先生が来ましたし。仏教学では勝又俊教先生という(真言宗)豊山派の管長さんになった先生もいるし、中村元先生もいるし、花山信勝先生ていう東京裁判の時の教戒師になった先生、日本仏教史の先生がいましたしね。
文化人類学では石田英一郎先生。社会学では福武(福武直)さんていう農村社会学の先生がいたし、私は福武先生の大学院の演習に参加して、農村の調査に連れて行ってもらいました。そんなこともあってのちに社会学会で、リーディングス日本の社会学作った時には宗教の部分担当してね、やったんです(『宗教 (リーディングス 日本の社会学)』東大出版会 1985)。
文化の部分担当したのが見田(見田宗介)さんなんですよ。当時東京教育大学の森岡清美先生と新しく東大の助教授になった柳川啓一先生という人がいて、教育大の桜井徳太郎先生なんかがね、教育大と東大で若い連中を育てようじゃないかと言って小さな研究会を作ってくださって。その時教育大の宮田登さんと知り合ったんです。」
慶應からハーバードへ(1974年前後)
宮家「慶應の社会学はそういう形で有賀先生が日本女子大の学長になって、有賀先生のあと、黒川(黒川純一)さんが来たのかな、東大からね。横山(横山寧夫)先生が主任で仲さんが助教授で、山岸さんが助手ね。社会心理の方は佐野先生が主任になって、宇野(宇野善康)さんが助教授になって、助手が青池(青池愼一)さんです。そういう体制が出来上がった。
私自身は一匹狼で文化人類学やってたんですけど。その時に社会学特殊という形で文化人類学やってたんですけど、文化人類学という講義を表に出すときにゴタゴタしましたよ。結局今は表に出てますね。」
東島「そうですね(笑)」
宮家「当時、(学部の)2年の必修科目にしようと思ったんだけどそれはさすがに出来なかった(笑)社会学と社会心理学が2年の必修科目で。そんないきさつをしながら修験の研究をやってて、当時は若干田舎の方と掛け持ちしてたから修験道儀礼の研究をやりながら書いて、それが認められてね。和歌森先生や五来重先生が当時、山岳宗教研究叢書ていうシリーズを名著出版から刊行されて、和歌森先生の『山岳宗教の成立と展開』の中に私の論文をズバッと入れてくれたんですよね(『山岳宗教研究叢書1 山岳宗教の成立と展開』名著出版 1975』 )。
澤田先生の推薦もあって、ハーバード大学の神学部に世界宗教研究センターというのがあって、そこから招聘が来た。ハーバードの座布団もあるのですが(笑)
(ハーバードの方は)布教戦略でね、世界のいろんな宗教、イスラムとかね、いろんな宗教の研究者を招いて来てそこから学びとろうというね。そういうハーバードの神学部の宗教学のの中のコースがあったんですね。山伏という変わったことをやってましたから。
そこで私の論文が面白かったっていうんで、キャントウェール・スミス(Wilfred Cantwell Smith)という先生、この先生はイスラムが専門でね。インドのイスラムやってたんです。
ヒンドゥー教とイスラム教のぶつかりがあるもんですから、それで修験にも関心もたれんですよね。私の英文のものを読んでくださって、声かけてくださったんですね。私が行った時しきりに彼が西行のことを聞くんですね。そういうのにあこがれはあったんでしょうね。一年招いてくださったんですね。ハーバードで1回か2回修験の話をしたんですけども、その時に、コメントでチベットのボン教と修験の関係を見たらどうかと言われましたね。
ちょうど立川武蔵さんが名古屋大学から民博にいらっしゃった方、がずっと一緒でしてねハーバードで。インガルス(D.H.H.Ingails)という有名なインド学者がいらして、立川さんはその先生に指導を受けていたんですよ。たしか東大に長野(長野泰彦)さんがいて、彼の奥さんと一緒にボン教やって、大阪の民博(国立民族学博物館)でボン教の展示(2009年に立川先生と長野先生が関係)をやったに行ったことありますね。私もちょっと関心持ってボン教のこと勉強したこともありますけど。
ハーバードのクッション
慶應の教職員時代(1999年まで)
宮家「修験道儀礼の研究をしていて、それがアメリカに行く前に宗教学会賞を(受賞は1967年、「修験道における調伏の論理」『慶應大学大学院社会学研究科紀要』6号 ほか一連の研究を対象として)もらったんです。その後、『修験道儀礼の研究』の本になった時に慶應義塾賞をもらったんです(石川忠雄先生が塾長の頃)。
その少し前かな。有賀先生が定年になった後ね、誰かを迎えるってときにね、東北大学の学長の石津照璽(いしづてるじ)先生がいて、もともとは哲学だったんですけど、当時、文化人類学に関心を持ってましてね。慶應の学長の高村象平先生が石津先生に声をかけて、社会学にどうかという話があって。石津先生が社会学に来られたんですよね。その前に佐原先生は私に文化人類学をやったらどうかと言ってたんですが、私は若いと思って、当時は十時先生がね文学部で文化人類学の講義をやってたんですよ。その次は石津先生が文化人類学をやったんですよね。
社会学の方では、史学科に中井信彦って先生がいらっしゃって、この先生は社会史をやってて、ずっと社会学で社会史を教えてらっしゃったんですよね。その中井先生を有賀先生の終わった後、石津先生が来るまでに社会学でお迎えしたんです。主任みたいな形でね。中井先生がいたんだけども石津先生が来ちゃったんですね。石津先生が今度は定年になって立正にいらっしゃったんですね、その頃から私は少しずつ人類学のものを読んでいました。ハーバードの図書館はよくできていて、人類学の博物館もね、図書館ではきちんとした本ではなくて抜き刷りの類とかのものも箱にいれてまとめているんですね。ハーバードで宗教人類学のエヴァン・ヴォートていう人、宗教人類学のリーディングス作ってる人ですけどね、その人についたんですけどね、彼が気を使ってくださって図書館の中に研究室を与えてくださったんです。その中で色々仕事をしたんです。その時にね、いろんな人類学のコピーをどんどん取って、日本に帰ってから鈴木さんなんかとみんなで勉強して、作った本が『宗教民俗学』(東大出版会 1989)ていう本なんですよね。これは最初は『講座宗教学』ていう東大出版から出した論文(「民俗宗教の象徴分析の方法-秘められた意味を求めて」『講座宗教学4』東大出版会 1977年)なんですよ、それが話題になったもんですから、東京大学出版会が目を付けて本にしてくださって。幸いにして宗教学の講義をしてたから、結構売れたんですよ、8刷りか9刷り行ったのかな。」
二人「「おおー」」
宮家「堀一郎先生の後を引いて、私が宗教民俗学を作ったって世間では言ってて、堀先生が東大の定年後、成城にいらして、なくなったあとにその後任で私が専任講師として成城に行ってたんですね。(宮家先生の慶應の教え子で、成城の大学院に行った人も複数おられるそうです)
また、慶應に吉田(吉田禎吾)先生をね、1983年に東大の定年後に客員教授で迎えたんですよね。十時先生が吉田先生を高くかっていて、九州大学から吉田先生が東大に帰られたとき、慶應に講師で迎えたんですよね。白川(白川琢磨)さんとかね、何人かが吉田先生の影響を受けてるんですよ。石津先生が定年のあと、私が文化人類学の講義やっていたんですけど、それも吉田先生にバトンタッチで、吉田先生にやっていただいたんですね。吉田先生が定年になった頃に仲先生が定年になったんです。仲先生というのは社会学の先生ですよね。その後任を仲先生に託されたもんですから、私、鈴木さんを仲さんの後任として迎えました。」
東野「ああ、それで」
宮家「そして私は文化人類学を鈴木さんに託したから、文化人類学やめちゃって宗教学をずっとやって。もう一つ、私が辞めることもあって、私東大に長く行ってたもんですからね。鈴木さんが人類学しっかりやってくれてるから、宗教学もなんとかした方がいいんじゃないかという気がしてね、私の先生は岸本英夫先生でヨーガをやったもんですからね。一種の神秘主義ですね。私自身も修験やってますから、宗教の神秘体験ていうのを、そんなのを少しやった方がいいんじゃないかなと思ってね。当時樫尾(樫尾直樹)さんがそういうことをやってたもんですからね。それ以前に由木(由木義文)さんと言う人がいてね、その人が社会学の仲ゼミから東大の印哲へ行ったんですよ。それで由木さんがずいぶん助けてくれたんですよ。修験道辞典を作るときには由木さんにずいぶん助けていただいて。」
東野「そうなんですね」
宮家「仏教思想の方は末木(末木文美士)さんを頼んでくれてね、そういう形で由木さんがずいぶん動いてくれましたね。浄土真宗の門主(大谷暢順)を紹介してくれたりね。宗教学の方は樫尾君に任せて、鈴木さんに文化人類学をやってもらってはどうかと思ったんですよ。
もう一つ、十時先生が吉田先生に学位を差し上げたいということになったんですね。十時先生が主査になるからって言って、駒澤大学の佐々木宏幹さんと私が副査の形で。
そこで私は吉田先生に色々教えてもらって、『宗教民俗学』を書いたんですよ。佐々木宏幹さんは吉田先生に教えてもらって講談社学術文庫の『宗教人類学』(講談社学術文庫 1995)書いたんですよ。そういういきさつがあったんですよね。吉田先生にずいぶん、助けてもらったんですね。
そうこうしているうちにミシガン大学、日本研究が非常に有名なところなんですけども。日本研究所、ハーバードにいたときも一回講演に行ったことあるんですけども。そこから訪問講演を依頼されたんです。その前に慶應で社会学研究科の委員長をしましたが、私、長が身体に合わないせいもあって、病気になっちゃって慶應病院に入院したんですよ。未だに掛かってるんですよね神経内科にそれから。そういうこともあって委員長は二期でもうやめちゃったんですよね。
ミシガン大学から、トヨタプロビルディングプロフェッサ(トヨタが寄贈している日本研究の講座)に招かれてミシガン大学に三ヶ月行ったんですよね(1997年)。それが終わった後で定年になったんですよね。定年になった時に、東大の時の友達の阿部(阿部美哉)さんが國學院の学長になったもんですから、それで國學院に招かれて行ったんですね。
さっき言った『宗教民俗学』を書いたあとに著したのが『修験道思想の研究』(春秋社 1985)なんですよ(この著作は福沢賞を受賞)。慶應やめるときに最後に『修験道組織の研究』(春秋社 1999)を定年の時に作ったんですよ。」
慶應定年後(1999年以降)
宮家「(修験道儀礼の研究と合わせて)それが三部作って形で。國學院に行ってたんです。、ご承知のように明治の時に修験道廃止になりましたよね。関東地方に限らず修験の寺院が神主になってるんですよね。あちこちで。」
東野「そうですね」
宮家「そういうこともあったものですから、國學院がCOEにアプライしたもんですから、それにのっけて修験道の地域展開というプロジェクトをやったんですよね。そこで各地の修験霊山や修験者の調査をやりました。理由としては、東大の大学院時代、岸本先生の山の会で修験霊山の調査をしましたので、こういう調査をしました。國學院にいた当時にCOEに協力して、『修験道の地域的研究』(春秋社 2012)ていうのを書いて出したってことで、それが徳川記念賞をもらったんですね。一番最後に出した厚い本ですね。そんな感じですね。
秩父宮様が名誉会長をされていた文部省の機関の学術振興会から、山に対する研究で秩父宮賞を出すっていう制度があったんですね。秩父宮様は登山愛好家だったので。山口昌男さんが私の研究をそれに推薦してくださって。その賞を私取ったんですね(1987年)。それがその後、秩父宮様が亡くなって消えてたんですね。今度は日本山岳会が復活さしてね、日本山岳会ですから研究のみからではなくて山を登ったりね、ヒマラヤを征服したりね、そういうものに出すようになったんです。」
東野「ああ、なるほど」
宮家「学問的なのも入れたほうがいいんじゃないかてことで鈴木さんを推薦して、鈴木さんが取ったんですよ(2016年)。」
東野「そういう」
宮家「その時に鈴木さんと一緒に日本山岳会の名誉会員の皇太子にお会いしました。今(令和)の天皇陛下ですね。慶應では『修験道思想の研究』を書いてる時に、修験道の一番大事な『修験修養秘訣集』のもとになる切紙類を慶應の図書館で買ってもらいましたね。COEの関係の『修験道の地域的展開』については國學院に世話になったもんですから、その時に集めた資料は今度國學院の図書館にね寄贈する形を取りまして。今、身辺整理をしてるっていうところですね。
だいたいそんなところかな。何か質問あったら。」
東野「ありがとうございました。だいたいは大丈夫です(笑)」
最近のこと
宮家「一番頭が働くのは大学院の修士課程の頃ですね。さっき言った東大の博士課程あったときにこれから3年かけて儀礼と思想と組織を3つのことを1年ずつかけて勉強しようかと思って修験道の基本的なテキストを読んだことあるんですね。修験道儀礼の、修験道の基本になる三部作を作っていたんですよ、國學院の村瀬(村瀬友洋)さんにそのノート預けて現代語訳してもらって、それをこの間、修験道聖典という形で春秋社から出したんですけどね(『現代語訳修験道聖典 : 『役君形生記』『修験指南鈔』『修験修要秘決集』春秋社 2022)。今は修験道のテキストやお経の現代語訳やっててね。今その校正が来てるところなんです(『修験道の経・講式・和讃・唱言』春秋社 2023)。また、自分の家のこともあらわしておこうと思って書いたんです。(『修験道と児島五流―その背景と研究』岩田書院 2013および『備前の児島・五流修験 その歴史と伝承』春秋社 2021)を書いたんです。
あと、いのちがあったら書きたいなというのは岸本先生がジョン・デューイ(John Dewey)のね、Common Faithという表現を、「誰でもの信仰」と訳されたんですね。それで薗田稔さんという東大の大学院を出て、國學院を経て京大に行った友人が、『誰でもの神道』(弘文堂 1998)というのを、それをもじって書いたものですから。今度は『誰でもの修験道」っていうのを書いて、修験道の儀礼、思想、組織の三冊の本のダイジェスト版を作ろうかなと思ったりして。もう私もだんだん頭が働かなくなったもんですから、昔書いた本も読み直してるんですね。三部作も含めてね。それと今言ったあの、お経の本の、ちょうど昨日入力してもらったのが出てきて、それをこれから校正する形で。それが終わったらこれまで書いたものをダイジェストして、いのちが続いたら『誰でもの修験道』っていうのを書いてみたいなと気がしてますけどね、だいたいそんなところかな。読売の記事読みました?(「[昭和ひとけたに聞く](上)宗教民俗学者 宮家準さん」2022年12月6日 読売新聞東京朝刊 6ページ)あれ水飲みながら話したんですよ。
調査の思い出
東島「大学のことは今お聞きしたんですけど、調査とかのことは、印象に残ってるものとかあれば」
宮家「最初の調査はね、三田界隈の調査っていうのはね、米山さんのお弟子さんだった松本幹雄さんて人がいらっしゃってね、その方が社会学専攻がさっき言った通りガタガタだったもんですから、よその方たちに卒業論文の指導を依頼されていたんですね。その方に色々教えてもらってやったのが三田の調査なんですね。その時にはそれ見てもらえばわかりますが、それが最初の調査ですね。
やっぱり恵まれてたのは福武先生の調査ですね。福武先生と言うのは日本の農村社会学をね、有賀先生とは違った形でおやりになった方なんですね。その講義と演習を二年間聞いてて、あちこちの調査に連れてってもらってね。それが非常に勉強になりましたね。その時に一緒にやってた蓮見(蓮見音彦)さんとかね、なんかが、のちに学術会議で一緒になって、蓮見さんが二部(文学部)の部長で、私が副部長ですね。そういう人的なつながりがずいぶん役に立ちましたね。福武先生は、農村社会学で有賀先生がイエ連合、農村社会学のパイオニアですけども、有賀先生とちょっと違って講組結合と同族結合という二つの類型論を出すって展開したのが福武先生ですね。それで戦争中に中国の農村の調査やられたんで、終戦直後になって中国の社会科学院で研究されてて、たしか福武先生の蔵書は社会科学院へ行ってるんですよね。
そして十時先生も中国と関係深くて、十時先生の蔵書も同院に行ってるんですね。それで中国の社会科学院にいた李国慶ていう慶應の留学生になっていた人がいてね、その面倒を見たもんですから、私中国の社会科学院にお世話になって、東アジアにおけるシャマニズムの研究の時に社会科学院に泰山なんかの案内してもらったんですよね。その頃の中国というのは今とまったく違っていて、その頃は経済発展前の中国だったんですけども。社会科学院に連れて行かれて、これが福武先生の寄贈した本、これ十時先生が寄贈された本て言って、十時先生が寄贈された本の真ん中に『修験道儀礼の研究』があったから、あれと思って(笑)。」
東野「(笑)」
宮家「社会学関係の調査はそうで、あとは岸本先生の関係の山の宗教の調査で、これは各地の山に行ってきて調査をするんで、私の『修験道』っていう最初に書いた、教育社から出した本にはその時の質問項目を入れておきましたけれども、そんなことを調査しましたね。これは各山についての全体的なことですね。私自身の調査っていうのは、儀礼をやったこともありますし、鈴木さんもそうですけども、行をやりながら調査するていうのかな、そんなことが多かったですね。だから、いわゆる統計的な処理とかそういうことはあまりやらなかった調査だよね、まあ人類学の調査はそんなもんかもしれないけども(笑)」
東島「中国のっていうのはまだ国交が回復する前ですか?」
宮家「ちょうど国交回復の時だったかな、日本から田中角栄が行って国交回復いたしましたよね(1972年)。その直後に台湾に行ったことあるんですよ。非常に衝撃的だったですね。台湾の人たちは日本にシンパシーがあるでしょ。道教を研究している劉枝萬という古い友達がいらっしゃって、その方が招いてくださって。あなた方が悪いんじゃなくて田中角栄がやったことだって言ってくれてかばってくれたことがあった。」
若者に向けて
東野「あと先生最後に、若者にむけて伝えたいこととかあったら」
宮家「そうですねえ、「虚学のススメ」にも書いたけど、あんまりいろんなものに囚われないで、自分の好きなことをやれば今は生きていけるから、また、アイデンティティも確立できるから。あまり周りを見たりしなくて、ほんとに自分のやりたいことやればいいのかなってことと、それから私みたいな歳になっちゃうと毎日毎日目的を作ってやっていくかな。私自身の人生自身もさっきも言ったように修験道研究も最初儀礼をやって、思想をやって、組織をやって、そして地方修験もやるとかね、自分自身の人生を計画していくっていうかなあ、そんな形で生きていったらどうかなという気はしますけどねえ。結局まあ私自身も恵まれて、自分でそういうことできたから言えるかもしんないけど。
どうしても就職しちゃうとその中で囚われちゃうけど、だけどその中でも自分なりに何か、持って、一生が終わる時にこれだけやったんだなということがあれば人生満足できますからね。ただ単に使われるんじゃなくて、仕事の中で何か自分に合うものを見つけていって、生きていくのがいいのかなっていう、自分を振り返ってみてそんな感じがしますね。まあ我儘といえば我儘なのかもしれないけど。まあ、我儘できたのかもしんない。我儘できたから今苦労してるのかもしんないけど(笑)。」
東野「ありがとうございました。それでは録音を終了します」
幼少期の宮家先生
高野山東京別院幼稚園の集合写真
(指先にいるのが宮家先生)