現在、東京を中心として関東の一部で行われる祭り囃子の多くは葛西囃子の流れです。この葛西囃子の由来を調べてみますと正確な文献が無いため詳細は不明ですが一説によれば享保の初年(1716年)頃に葛西領金町村の香取明神(現、東金町の葛西神社)の神官・能勢環(のせたまき)が敬神の和歌に合わせて音律を工夫しこれを和歌囃子と名付けて村の若者に教え神霊を慰めたのが起源とされています。それ以来、天下泰平国家安全の奉納囃子として改良されながら葛西領一円、さらに江戸市中に広まり各地の祭礼に用いられました。 また、関東の代官・伊那半左エ門はこれを若者善導の社会施策の一つとして奨励し、毎年各町村より推薦会を行い、その代表者を神田の将軍上覧祭りに参加させたので一層普及し農業の余暇に囃子を習う物が続出したと言うことです。このような事から各方面に伝えられた囃子の中から色々な流儀・流派が出来、その代表的な物は三輪屋(みのや)囃子で現在でも足立や葛飾の一部に伝承され明治時代には大変羽振りを利かせたようです。さらに深川の旗本の次男三男が習い覚えたのが深川囃子、本所の割下水にすむ御家人連中に伝わったのが本所囃子、浅草猿若町の芝居連中が拍子を変えてできたのが住吉囃子、その他三浦流、松江流などという流儀が編み出されました。
ところで、葛西囃子が神田明神の祭礼に参加することは明治以降もつづきました。幕末の嘉永(1848年~1854年)頃には一時衰退し安政4年(1857年)6月、芝明神の祭礼から時の月番奉行は松平氏の命令で復活し、その後、明治維新の社会情勢の混乱のため中断しましたが維新以来の大祭として知られた明治17年の神田明神の祭礼には葛西方面から表青戸の源次郎、小松川村の角次郎、鹿骨村の七五郎、反っ歯の伝次郎、新宿町の助次郎などのお囃子名人が選ばれてその妙技を示しています。しかし、その頃には神田の連中は葛西方面から人を呼ばなくてもお囃子を会得し神田囃子を創始しています。
それと同じように品川、目黒、大井、等々力、池上、中延、渋谷、阿佐ヶ谷、三ッ目囃子などそれぞれの土地名をつけた囃子が出来て来ています。更に多摩川すじを経て青梅方面まで発展していき、これらの囃子がもっとも盛んな頃は明治中期でありました。 また当時小松川村(江戸川区)香取神社の神官秋元式弥が音頭取りになって囃子連の会を創り付近に奨励したのが今日の葛西囃子の発展をみる原因になったとも言われています。 発祥については各地により別の説も有るようですが当保存会では地元の事もあり前記の説を伝えています。
葛西囃子の獅子舞演奏の基本は、舞い手=獅子・もどき。演奏者=笛・ヨツ・鉦の5名で構成されています。獅子舞は縁起物とされ、お正月やお目出度い場所や宴席で披露する演目です。獅子は神様の使いや神の化身とされ魔物を食すことから魔除け、厄除けの意味を持ちます。
■特 集 葛西囃子保存会 葛西囃子保存会会長 佐々木 弘政
葛西囃子保存会発足時は会員38名とのことでした。その後、東京都指定無形文化財の名称を頂きましたが、会員育成が中々出来なかったようで、昭和58年には12名まで減少致しました。保存会最大のピンチでしたが現在は会員による色々な活動や葛飾区の文芸講座等の開催により会員数も徐々に増えております。練習場所も、メインは青戸地区センターですが、その他にも柴又学び交流館、亀有の砂原稲荷神社(現在休止)白鳥町会会館、葛飾八幡宮氏子会館(千葉県市川市)等で行われています。会員の有志で、神楽をこの保存会に定着させようと埼玉県の竹間沢の前田師匠、川越の幸町の方々に師事し頑張っています。葛飾区文化協会の芸術祭典、葛西神社の行事、山本亭等で演奏しております。 葛西はやし(切り囃子)の構成は屋台・昇殿・鎌倉・四丁目・玉・屋台からなっております。最初の屋台はゆっくりした旋律から、徐々に早くなっていきます。昇殿はゆっくり、日本独特の間があります。鎌倉もゆっくりです。ここは笛の聞かせどころです。四丁目(しちょうめ)と読みます。ここもゆっくりとした旋律から徐々に早くなっていきます。天天テケ天スッ天ステスク、四丁目の地事(基本)の打ち方です。それから玉に入ります。ここは締め太鼓の聞かせどころです。中央の締め太鼓が上(かみ)といい最初に打ち込みます。玉送り(次の玉に入るまでの序曲)を行い次の下(しも)が打ち込み、終わると最初の屋台に戻ります。違いは最初の屋台よりも早くなります。これが「葛西はやし」で約13分~15分くらいです。5人が調子や間を合わせて演奏するのですが、なかなか難しいものです。 今後も葛西囃子保存会は、この江戸時代から伝承された演奏と伝統文化を守りながら後継者の育成、技術の向上を目指してまいります。
「下総葛西海苔」これは江戸末期から明治時代に描かれたものです。お正月に葛西近辺で行われた獅子舞を見ている少女を描いています。獅子は娘を脅かそうと近寄ります、娘は持っている羽子板でそれを避けていますが、娘の目は獅子の口から中に入っている男性の顔を覗こうとしている様子がうかがえます。きっと中の男性がイケメンだったのかも知れませんね。また場所柄からお囃子は葛西囃子ではと推測されます。