嘉納次郎作3代の活躍
嘉納 次郎作 かのうじろさく 編
嘉納 次郎作 かのうじろさく 編
嘉納次郎作(治郎作)は幕末の海運業を通じて勝海舟と親交を深め、幕府から西宮と神戸の台場建設を任されます。
その後、日本最初の商社(株式会社)設立、東京-大阪間の定期航路開設に尽力した人物です。
神官の家に生まれ商人に転身した後、幕府とパイプを持ち明治新政府からも信頼された異色の人生を歩みました。
子である柔道創始者の嘉納治五郎は、幻の東京オリンピックの誘致を成功させ「日本体育の父」と呼ばれています。
孫である柳宗悦(やなぎむねよし)は、日常の生活用品の美しさに目を向け「民藝(民芸)の父」と呼ばれています。
3人に共通するのは、過去を尊重しながら未来を見据え、庶民目線を持ちながら世界に目を向けて活躍したことです。
それぞれが異なる新しい分野を切り拓いた、個性ある家族の生涯を年表でまとめてみました。
3代の家系図
1813-1885
(嘉納次郎作 嘉納治五郎 柳宗悦)
1813年(文化10年)
滋賀県の日吉大社の社司、生源寺希烈・敏子の次男として、生源寺希芝(まれよし)(後の嘉納次郎作)が誕生。
日吉大社は、全国の日吉神社・日枝神社・山王神社の総本宮。裕福な家庭で漢学などの教育を受けて育つ。
1830年代(天保元年~)
京都の藤森神社神官の令嬢との間に1男2女をもうける。(後に次女が希芝の妹と同じく、京都今宮神社佐々木家へ嫁ぐ)
このころから、全国を旅して見聞を広げる。
1850年代(嘉永3年~)
神戸灘の清酒、菊正宗や白鶴の醸造で知られる嘉納家に出入りして、論語の講義をしていたところ、当家の治作に人柄を見込まれる。
治作の娘定子の婿養子として嘉納家に入り「次郎作」を名乗る。酒造業を継がず江戸へ清酒などを運搬する廻船部門を担う。(治郎作の記載もあり)
1856年(安政3年)
後に柳宗悦(やなぎむねよし)の母となる「勝子」が次郎作の二女として誕生する。
生まれた日に、勝海舟が神戸御影の自宅(千帆閣と呼ばれた)を訪問していたため、勝にあやかり命名する。
1860年(万延元年)
後の「嘉納治五郎(幼名伸之介)」が次郎作の三男として誕生する。次郎作47歳時の末っ子。
嘉納家では3男2女をもうける。
1862年(文久2年)
海運を通じて親交を高めた勝海舟の依頼で、黒船来航に備え西宮と神戸和田岬の砲台工事を請け負う。徳川家茂・慶喜も視察に訪れる。
賃金・休暇など状況に応じた差配によって有能な石工など職人を確保して砂地の難工事をこなす。
1864年(元治元年)
西宮と和田岬の砲台完成。勝海舟が御影の自宅で4歳の治五郎と会う。(後に治五郎に影響を与える)
1867年(慶應3年)
兵庫開港に合わせ、海外貿易で日本が利益を得るため、小栗忠順らと共に日本初の株式会社(兵庫商社)を設立する。
次郎作は鴻池など大阪の豪商を集め設立に向けた演説をおこない、出資者の理解を得て設立する。しかし幕府崩壊で半年で閉鎖に追い込まれる。
幕府が所有していた洋船(長鯨丸・奇捷(きしょう)丸・太平丸)による、日本初の江戸-神戸-大阪間の定期航路を開設する。
1869年(明治2年)
不在の多い次郎作に替わり子供の教育を担っていた妻の定子が46歳で病死。「人に尽くす」精神を子供が受け継ぐ。
翌年、治五郎を東京に呼び寄せ東京日本橋蛎殻町での生活を始める。
1870年代(明治3年~)
新政府に起用され主船権大属として横須賀造船所で功績を残す。明治維新後は嘉納希芝と名乗る。
治五郎には、漢学や語学(英・独・仏語)など東洋・西洋の学問を習わせる。
この頃、東京で後妻の由と暮らし始める。また、他人の過ちによるケガで片目を失明する。
1875年(明治8年)
海舟日記11の表紙裏に希芝の住所記載のメモが残されている。交流が続いていたことがうかがえる。
(嘉納治五郎) 開成学校に入学。158㎝の小柄でも強くなるため柔術を習い始める。
1879年改名した東京帝国大学(現在の東京大学)哲学政治理財学科を卒業。
1882年(明治15年)
書記官であった海軍省から皇居造営事務局監材課長として派遣され功績を残す。
(嘉納治五郎) 勝負が目的であった柔術を、国や社会で働くための道を教える「柔道」に改める。
その教習場として東京上野の永昌寺に「講道館」を創設する。
1884年(明治17年)
明治政府より貿易や海運を担当する海軍権大書記官に任命される。
1885年(明治18年)
次郎作が東京深川にて73歳で亡くなる。墓所は染井墓地で墓石の書は山岡鉄舟。(令和に入り墓石が撤去される)
幕末に勝海舟から建設を依頼された現存する建物
長鯨丸
江戸~神戸大阪間に就航させた日本初の洋式定期船
染井墓地(東京)
残念ながら令和に墓じまい