嘉納次郎作3代の活躍
柳 宗悦 やなぎむねよし 編
柳 宗悦 やなぎむねよし 編
柳宗悦は、高貴な芸術品だけが美しいのでなく、庶民の使う食器や織物にも美しさを見出した人です。美の本質をとらえるには既にある価値感を取り払い、作品を直に観ることへこだわりました。
それぞれの風土にあった独創性のある置物や、生活のなかで工夫された日用品など、普段見過ごされていたものに新しい価値を生み出しました。「民芸(民藝)」という言葉をつくり、出会った多くの人に自身の考えを伝え広げていく宗教哲学者・思想家でした。
また新婚時に、叔父である嘉納治五郎の別荘が隣にあったことで、後ろ盾として強い絆で結ばれていたことは想像がつきます。(治五郎の後ろ盾が勝海舟であったように)
若くして志賀直哉らと白樺派立ち上げ、当時日本が韓国を弾圧していた時代の中、芸術を通じて対等な信頼関係を築きました。
次郎作・治五郎・宗悦の3人は道が違えど、世界から日本を見つめた思いは同じであったといえるでしょう。
1889~1961
(嘉納次郎作 嘉納治五郎 柳宗悦)
嘉納治五郎編からつづきます。
1939年(昭和13年)
江戸時代中期に木喰(もくじき)上人が彫った仏像を探し求めて、佐渡・栃木・静岡・四国をめぐり調査をする。
木喰上人は千体の仏像彫ることを修行に課し全国に作品を残した。粗削りで素朴でほほ笑んだ仏像が多く、地域信仰に使われたが誰にも評価されていなかった。宗悦がその価値を見出した。
1939年(昭和14年)
初めて沖縄に滞在して壺屋などで伝統の焼き物やちむんを調査する。月間「民藝」を創刊する。
沖縄を「伝統が残る美の宝庫」と評価。第二次世界大戦でほとんど焼失した芭蕉布や木綿の着物を収集保管していたため、後世に引き継ぐ貴重な作品となる。学習院高等科で同級であった琉球王朝尚家の21代当主から琉球文化の話を聞いていたことが興味をもった要因といわれる。
1940年(昭和15年)
沖縄県が方言を否定して標準語励行をすすめていることに批判したことで、歴史的文化的価値の重要性を説く柳も巻き込んだ論争が起きる。
1941年(昭和16年)
「民藝とはなにか」「茶と美」「工藝」を刊行する。
民藝とは民衆が日常的に使う工芸品であり、美しさは質素であることを語る。廉価でたくさん作られ、極端でなく平常な美しい実用品にも価値があることを説く。
1943年(昭和18年)
母、勝子が亡くなる。
勝子は幼少のころ嘉納治五郎ら兄弟と、祖父母の次郎作・定子から嘉納家で培った伝統や世界にも視野を広げること、他人に尽くすことを、宗悦にも教えていたと思われる。
1946年(昭和21年)
前年の終戦と疲労により病に伏したこともあり、仏門への関心が高まり富山・五箇山と東北を調査する。
1957年(昭和32年)
前年心不全で入院後、左半身不随になるも回復。文化功労者に選出される。
柳を師と仰ぐ棟方志功から見舞いのはがき届く。棟方は民衆に根ずく宗教的な思想を柳と話す中で、それを表現した版画を確立していく。
1961年(昭和36年)
脳出血で亡くなる。享年72歳。日本民芸館で葬儀、墓地は小平霊園。
全国から収集した工藝の展示で詰まった元邸宅前の博物館
沖縄訪問で壺屋焼のやちむん(赤絵)や着物など琉球の伝統工芸の美しさを発信
息子の工業デザイナー宗理が設計したモダンな墓