嘉納次郎作3代の活躍
嘉納 治五郎 かのうじごろう 編
嘉納 治五郎 かのうじごろう 編
嘉納治五郎は、柔道の創設者として知られていますが、一貫して国民のための教育を考えていた国際人です。
父の次郎作から「東洋と西洋の思想・語学」や日本初の株式会社設立の考えを傍で見聞することにより、広い世界観が形成されました。
母からは幼少期に「他人に対して尽くすこと」を教わり、海外の要人でも分け隔てない、おもてなしの精神が備わりました。柔道で礼を重んじるのも他人に対する敬意を表すためとされています。
父と親交があった勝海舟からは、教育とは学問のみではなく実践との両立が必要で、合理的に進めることを説かれました。
国家や社会といった調和や合理性が求められる時代の変化に対し、いち早く教育改革を行いました。
国民が進むべき道を教習する場として講道館と柔道を立ち上げ、更に世界を見据えオリンピック誘致にも尽力した人物です。
1860-1938
(嘉納次郎作 嘉納治五郎 柳宗悦)
嘉納次郎作編からつづきます。
1886年(明治20年)
25歳の若さで学習院の教頭となる。
当時の学習院は宮内庁管轄で旧藩主の家柄が多く、色濃く残る古い武家体質を改革するために学院長が推薦する。
1889年(明治23年)
治五郎の姉の勝子と、夫の楢悦(海軍少将)との間に宗悦(むねよし)が生まれる。
1891年(明治24年)
治五郎が外交官や漢学者であった竹添信一郎の娘、須磨子と結婚。
挙式は姉勝子の嫁ぎ先である東京駒場の柳邸でおこなわれる。その後3男5女の子供にめぐまれる。
1893年(明治26年)
高等師範学校(現在の筑波大学)長に就任。3期23年にわたり務める。
20種目の運動会開催や西洋種目も含めたスポーツクラブの推奨など、現在も学校に根付くスポーツ教育の原型をつくる。
1898年(明治31年)
文部省普通学務局長に就任。全国都道府県に高等女学校の設置を推進。
1899年(明治32年)
父と2代にわたりお世話になった勝海舟が亡くなる。洗足池の海舟の墓の手水石に治五郎の名も刻まれる。
1909年(明治42年)
国際オリンピック委員会の委員に東洋人とて初めて選出される。
1910年(明治43年)
(柳宗悦) 学習院高等科を卒業、志賀直哉らの学友と「白樺」を創刊に加わる。東京帝国大学の文学部哲学科に入学する。
1911年(明治44年)
体育協会(現在の日本スポーツ協会)を設立し会長に就任する。
千葉県の我孫子の手賀沼を見下ろす高台に別荘を購入する。ここに農園と学校建設の予定も多忙で実現せず。
1914年(大正3年)
(柳宗悦) 25歳で音楽家の兼子と結婚する。千葉我孫子の叔父治五郎の別荘隣地に住居(三樹荘)を構え新婚生活を始める。翌年長男の宗理(後に工業デザインの草分け)が誕生する。
この後、白樺派の志賀直哉や武者小路実篤もここに移住し執筆。柳も「白樺」に芸術に関する文筆を投稿を続ける。またこの頃に贈答された朝鮮陶磁器に興味を持ったことが後の活動に影響を与える。
1916年(大正5年)
(柳宗悦) 韓国と中国へ旅行する。またイギリスの芸術家バーナードリーチが我孫子自宅内に窯をつくる。このころは陶磁器や朝鮮に関心が高い。
1917年(大正6年)
明治神宮外苑に大規模な競技場(国立競技場の前身)建設をの提案をおこない、建設されることとなる。
これまでの公園は和風であったが、これ以降スポーツもできる広場を設けた洋風の公園が主流となる。
(柳宗悦) ロダンから贈られた作品を展示する日本初の西洋作品美術館を計画。他にセザンヌ・ゴッホなど後期印象派の絵画を「白樺」でいち早く日本に紹介する。
1924年(大正13年)
ストックホルムオリンピックにて、日本が初めてオリンピックに参加し、その際団長を務める。
(柳宗悦) 前年関東大震災があり京都へ一時移住。翌年に「民藝」という新語をつくる。
1928年(昭和3年)
故郷の灘中・高校設立に加わる。父母の関わった酒造会社に出資を求めるなどの尽力により開校。
1936年(昭和11年)
IOC総会で東京オリンピック開催を決定する。(東洋初)
(柳宗悦) 日本民藝館を東京駒場に完成させる。初代館長に就任する。
1938年(昭和13年)
日本が中国占領で世界から非難される中、カイロのIOC総会で開催を確認。ギリシャ・アメリカを経由して氷川丸で帰国途上、肺炎で亡くなる。享年77歳。
勲一等旭日大綬章を受賞、墓地は松戸市八柱霊園(東京都の霊園)。
同年亡くなった後、第二次世界大戦で東京オリンピックの開催が幻となる。
生誕地御影で自他共存・精力善用の書を常設展示
尽力した幻の東京オリンピック競技場に立つ像
神式の墓所、積まれた白石は御影石と思われる