三ケ根山
三文字氏たちは、昭和26年に平和条約が締結されたときから廟の建設に向けて活動を開始していました。
しかし、七士と何の関係もなかった幡豆町に、どうして廟が建設され遺骨を納めることができたのか、それは林逸郎氏と地元選出の県議との出会いから始まります。
林逸郎氏は東京裁判弁護団のスポークスマンであり、橋本欣五郎大佐の弁護人を務めた人です。
昭和30年ごろから仕事の関係でしばしば蒲郡を訪れていたのですが、地元選出の県議三浦兼吉氏と知り合い、懇意の仲となっていました。そんなある時、林氏の口から次のような話が出ます。
「僕の友人に三文字弁護士というものがいる。東條さんはじめ戦犯七士の遺骨を命がけで盗み出し、現在は他人名儀で某所に隠匿して、ひそかに細々とお祭りをしている。だが未亡人の方たちから『どこか適当な所に墓地を求めて、正式に埋葬したい。私たちもすでによる年で遠からず夫のもとにまいらねばなりませんが、そのとき遺骨の葬り場所さえなかったでは申しわけがなくて会わせる顔がない。なんとか御配慮をいただけないものでしょうか』という切なる悲願を三文字君は聞かされている。しかし敗戦の責任者として多くの国民は彼らを恨んでいて心よく受け入れてくれる所が現在はない。三文字君からこの話を聞いた僕も、何とか遺族たちの願いを叶えてあげたいと思っているがどうも思うようにはならない」
この話を聞いた三浦氏は意外に思ったといいます。当時の日本人は誰も、彼ら戦犯たちの骨は、米兵の手によって全部人知れず処分されたものと信じていたからです。半信半疑の彼に林弁護士は三文字氏たちが苦心の結果、遺骨の盗み出しに成功した一部始終を詳しく話したのでした。
三浦氏は事の意外さに驚くとともに、ある考えがひらめきました。その時期、三ヶ根山では登山のドライブウェイが工事中でしたが、その山上に墓碑を建立したらどうかと考えたのです。その話は三文字氏、ご遺族にも伝えられます。
三ヶ根山の開発は順調に進み、自衛隊の協力で自動車道路の工事は昭和三十二年三月に完成しました。
三浦氏は三ヶ根山の地元である幡豆町の協力体制をつくるために奔走し、この熱意に動かされた町長をはじめ町の有力者らが中心となって、受け入れ体制は整います。
林、三文字の両氏も三ヶ根山上を訪れ、候補地を満足として直ちに建設を決定して、殉国七士廟建立は本決まりとなったのです。
それと同時に建設資金調達の運動に入り、廟の設計、資材、工事者等については、林、三文字両氏が慎重に立案することになりました。
(殉国七士奉賛会発行『殉国七士の墓』より抜き書き)