シンポジウム

古典の学びを国語科教育学はどのように捉えるの

2021.05.29/14:10-17:10

趣旨

 本シンポジウムでは、古典教育をテーマにその意義・目的について批判的に検討することを企図しています。

 近年、「古典は本当に必要なのか」(明星大学日本文化学科シンポジウム2019年)や、「高校に古典は本当に必要なのか」(国際基督教大学高等学校〔ICU高校〕2020年)に代表されるような、古典学習に関わる各種のシンポジウムが開かれています。またここ数年古典文学関連の書籍でも、教育に関する発言が多く見られるようになってきています。加えて平成30年度告示高等学校学習指導要領の「言語文化」に象徴されるように学習観・指導観についても大きく見直す方向性が示されています。

 以上のように古典教材を扱った学習とはどのようにあるべきなのかを改めて考えるべきではないかという気運が高まっていることも受けて本学会として古典学習をラディカルに考え直し、古典学習なるものが抱える論点や矛盾を明らかにする機会とすべく、本シンポジウムを企画するに至りました。本シンポジウムが、今後古典学習をどのように捉えどのような方向性で進めていくべきかの道筋の創造に寄与することを期待しています。

シンポジスト

藤森裕治(文教大学)

「 民俗文化論の視点から学習者の資質・能力の育成と古典素材とをつなげる」

  「言語文化」「古典探究」をベースに、学習者の資質・能力の育成と古典素材とをつなげる意義と方法について民俗文化論の視点から私見を提示します。以下の事例を紹介しつつ、具体的な実践例をお話しします。

  1. 人生を地図としてとらえる:『更級日記』「上洛の旅」における34の逸話を空間論的視点から分析すると、8対16話が富士川を挟んで対称的に並ぶ。この事実と作者菅原孝標女の人生観とがどう対応するか考察し、言語生活史を地図的に省察する実践例を提示する。

  2. 「輪」について探究する:「輪」にかかわる記述を古典作品から抽出すると、「輪になる行為・回る行為」には生命の循環、境界の形成、精神の高揚といった観念が見出される。この観念が現代の文化事象と連続性をもつのか考察し、「輪」をめぐる言語文化について探究する実践例を提示する。

難波博孝(広島大学)

「椅子取りゲームと根っこと」

 教科書掲載という「椅子取りゲーム」によって「どの古典が生き延びるか」がある程度決まってしまう。その「椅子取りゲーム」を支配するゲームマスターは「ある種の雰囲気」である。この「ある種の雰囲気」の醸成に、古典研究者はそれほど関心がなかったのではないだろうか。

 古典の精神なるものが虚構としても、その虚構の物語が人の心に深く染み付いて「根っこ」となってしまう。私たちは、「根っこ=物語=<Deep storyby.ホックシールド>」に生かされていく。

 だとしたら、⑴教育においてどのような「根っこ=物語=<Deep story>」を持てばいいか考えられる、⑵<よい>「根っこ=物語=<Deep story>」を生涯生成し続けるためにどのような古典を学校教育現場に提供するべきかが考えられる、⑶「ある種の雰囲気」に振り回されない、⑷古典と教育の双方に精通した、キューレーターが求められている。それは、研究者養成の問題でもある。


前田雅之(明星大学)

「古典的公共圏が失われて150 年後の古典教育とは」

 日本において古典が共通知(古典的公共圏)となったのはほぼ1250年前後である。以後、明治維新まで公共圏は機能してきた。

 明治の近代化の過程で、古文漢文はなんとか生き残ったものの、国語なる科目の一分野と化した。戦後も同様である。共通テストにも出題されるので、存在が許される科目となっているのではないか。

 こうした現状にあって、なぜ古文・漢文=古典を学ぶ必要があるのか。指導要領にある「我が国の言語文化に対する理解を深めることができるようにする」では、あまりに心もとない。なぜ日本に生きる人間のアイデンティティー形成という観点がないのだろうか。と共に、我々が古典からすでに他者となっている厳粛な事実をも示してくれる貴重な科目である。そこから、日本に生きることの意味を考えると同時に、現代を相対化する場とすることが可能なのではないか。

三上英司(山形大学)

「古典をつまらなくしているもの」

 「古典は国語科教育にとって必要か」と問う方に、「普遍的人間性を見つめるまなざしの獲得は、生きる力の育成にとって不要ですか」と、私は問いを返したいと思います。そもそも児童・生徒・学生は、本当に古典を役に立たない不必要な学習だと評価しているのでしょうか。むしろ、何を、何のために学んでいるのかわからない、ということが多くの学習者の実情ではないでしょうか。伝統的言語文化という枠組みを隠れみのにし、従来の指導法を繰り返すことこそ、国語科における言語教材の豊かさを削ぐ行為です。言葉によって自他の存在について理解を深めるために、教科書も授業手法も評価基準も指導者の意識も、そのあり方を再検討する必要があると私は考えています。

コーディネーター

内藤一志(北海道教育大学)

菊野雅之(北海道教育大学)