2016年5月3日
JISS3期で行うスタディツアー第一回目として、5月3〜4日に三陸を訪れました。
今日1日目は、東松島市の矢本運動公園応急仮設住宅で東の自治会長を務める小野竹一さんにお話をうかがいました。
鯉のぼりが大好きだった亡き弟を思い、当時高校2年生だった伊藤健人さんが始めた「青いこいのぼり」プロジェクト。今年は800尾以上が大曲浜の空を舞う予定です。
小野さんの自宅は海に近い大曲浜にあり、その地域は完全に津波にのまれましたが小野さん一家は全員無事でした。
仮設住宅に移住した際、もともと隣近所だった人の中に、挨拶も返せないほど塞ぎ込んでしまっている人がいたことに衝撃を受けたと言います。
家族を亡くし、地元を離れて住むことで内に閉じこもってしまいがちな仮設住宅の住民を「笑顔にする」というのが、自治会長になった小野さんが第一に掲げた目標でした。
そのためにこの5年間、小野さんは年に150回程度のイベントを企画し、みんなを楽しませています。
明日5月4日にも、巨大海苔巻きを作る「春祭り」を行うそうです。
そのように忙しい中、私たちのためにお話をしてくださった小野さんへの感謝を込めて、私たちも「東北の今」を伝えていきたいと思います。
小野さんは現在、「あおい地区」という集団移転地の整備協議会会長を務めています。
「あおい地区」は矢本運動公園応急仮設住宅からほど近い交通の便の良い場所にあり、この仮設住宅からも多くの世帯が移住する予定です。
小野さんはここで、「日本一住み良い街」を目指して0からの街づくりを行っています。
「50年後も100年後も変わらない、次の世代に誇れる街」をつくるため、自主規制だけではなく条例の制定なども行政機関と協力して行っているそうです。
日本一の街になった暁には、名産品の海苔とブルーインパルスに加えて東松島市の誇りとなればいいとおっしゃっていました。
最後に小野さんが強調されていたのは、東松島市は震災の被害が大きかった地域の中でも復興が早い方であり、まだやっと復興のスタートラインに立ったばかりの地区が多くあるということです。
東北から離れた地域の人に対しては、「伝えていくしかない」。
私たちも、その「伝える」側の一人になれたらいいと感じさせられた訪問でした。
2016年5月4日
東北スタディツアー2日目、今日は東日本大震災で津波による被害が最も大きかったとも言われる宮城県女川町を訪ねました。
案内をしてくださったのは女川観光協会の阿部さん。
JISS1年目の時から女川を訪ねた際にお世話になっている方です。
阿部さんは女川町で生まれ育ち、震災当時も自宅は石巻にありながら女川町で働いていました。
女川町に関する情報は全くない中翌日を迎え、着の身着のまま歩いて石巻までやってきた人たちからの話を聞いて初めて女川の状況を知ったといいます。
「全部流されてしまったから、逆に諦めも早かった」
女川町はリアス式海岸の入江の奥にあるため津波が予測の2~3倍の高さにまでなり、引き潮も強かったために家も車も何もかも流されてしまいました。
震災で547名の方が亡くなり、253名が今も行方不明のままだそうです。
片付けるべき家もないのですぐに町が沿岸部の土地を買い取り、住宅は高台に、商業地を沿岸部に配置するという新しい町づくりが始まりました。
女川町はこれだけの津波の被害を受けながら、防潮堤を造らず埋め立てによる嵩上げを選んだ唯一の町でもあります。
これらの再建計画がスムーズに進んだのも全て、住民の意見が吸収される形で復興がなされてきたからだと阿部さんは言います。
「海が見えなきゃ女川じゃない」
地元の方の思いは防潮堤ではなく山を切り崩しての土地の嵩上げとなり、地元の若者を中心に皆の思い描く町の再建が進められています。
津波の際に避難先となった高台の病院のカフェを訪ねると、「あのとき」のことをできる限り伝えようとしてくださる方々に出会いました。
「いくら防潮堤を造ったって、また『想定外』が来たらあっという間に流されて終わり」
それよりも、「海とともに生きる」ことを選んだ町の高台には、子どもたちが1000年後の命を救うために建てた石碑がありました。
2016年6月24日
JISS 第三期生の第二回目スタディツアーとして、6月18日〜19日に広島を訪れました。
夜行バスに12時間も揺られて、広島に着いたのは朝の8時前でした。そのまま路線バスで平和記念公園へ。原爆が投下された時間に合わせて、毎朝8時15分に鳴らされる平和の鐘(チャイム)を聞きました。その日は梅雨にも関わらず天気が良く、少し 歩くと汗ばむような日でした。原爆が投下された日も晴れだったと聞きます。1945年8月6日の8時15分も、このような晴天だったのでしょうか。
原爆ドームを眺めた後、平和記念公園を散策し、私たちは平和記念資料館へ向かいました。
私が資料館に訪れるのは二回目なのですが、 原爆の熱風の様子や被曝による後遺症、どの展示を取っても筆舌に尽くしがたいものでした。
資料館の出口に、展示を見て 思ったことを自由に記すことができる「対話ノート」が置いてありました。日本だけでなく、外国の方の記入も数多く見られたのが印象的でした。中には、「原爆の恐ろしさを初めて知った」「この世にはこんなにもたくさんの原爆があることを知らなかった」ということを書いている人もいて、日本と海外では原爆の認識や位置付けが異なるのだということを感じました。少しでも多くの人がこの資料館を訪れ、原爆について、また、原爆を被曝した側の視点について知ってもらいたいものです。そして、私たちにはその視点を伝える義務があるのだということも感じました。
資料館の外のベンチに座り、各々自分が感じたことを語り合いました。平和とは何か、原爆の是非(もし万が一にでも是があるのだとしたら)、人間の安全保障への取り組み方、ハーグ陸戦条約やジュネーブ条約のような戦争法、など、議論は多岐にわたりました。詳しい内容についてはここには書きませんが、それぞれ思うことをぶつけ合いました。(文責:山崎)
2016年6月24日
曇天の中起床した我々は、代表の石井と合流。テントを返し、毒ガス資料館へ向かった。やや機嫌悪めの受付のおじさんに入場チケットを買って渡し、煉瓦造りの資料館の中へ。
そこには、毒ガス製造が始まる前の大久野島の様子から、戦争が始まり陸軍が毒ガス製造施設を建築し始め、戦争中の製造が最も盛んな時期を経て、戦争後敗戦処理の一環として大久野島が米軍によって占拠され現在の姿に至るまで克明に歴史が記されていた。劣悪な労働環境の中での毒ガス製造の様子、兵器としての毒ガスの悲惨さ、平和の切実な希求。思わず目を背けたくなるような展示もあったが、いずれも紛れもなくこの場所で数十年前に起こったことであり、製造され実戦で使われていたものである。幾つか感じたことがあったので、不勉強な身であり未熟な考えばかりであることを先に断っておくが、二つだけ記しておきたい。
第一に、原子爆弾にせよ毒ガスにせよ、一般に「非人道的兵器」と呼ばれるが、根本的に「兵器」の存在理由が人を痛めつけ死に至らしめることであることを勘案するに、通常の感覚的に一体「人道的兵器」などあろうかということである。むしろ、兵器がどれほど「人道的である」(もしそうあり得るならの話だが)かどうかは、兵器自体の性質ではなく、兵器の使用対象や被害の及ぶ期間ないし範囲に依存しそうであると考えた。例え原子爆弾を人のいない砂漠に落としても、その後人がその地域に立ち入らなければ別に非人道的であるとはいえず、逆に一般に流通している銃であっても逃げ場のない人ごみの中で乱射すればこの銃が人道的であるなどと思う人はいない。若干の論理の飛躍を禁じ得ないが、「非人道的兵器」というレッテルを特定の兵器に貼ることで、その他の兵器があたかも人道的であるかのような印象を受ける。しかし、我々はそもそもこのような不毛なレッテル貼りを止めるべきで、そもそも兵器がどのような状況で使用され得るのか/されてはいけないのかをより真剣に考えるべきではなかろうか。これは究極的には戦争における暴力の使用の正当化、ないしは「大義ある戦争」がそもそも存在し得るのかという問題にも帰着し得る根深い問いなのではないか。
第二に、我々はもっと日本の歴史について勉強せねばならぬと感じた。毒ガスの多くは中国で使われた。中国では未だに敗戦時に日本帝国陸軍が遺棄した毒ガスの不発弾が数多く残っているとされ、折々死人が出るような事件が起きている。中国人の多くは報道を通じてこのことを知っているという。もちろんこれだけが原因ではないが、中国人の日本に対する反感を助長する一因になっているように思う。翻って、そもそも戦時中に日本が毒ガスを製造していたことを知っている日本人はどれだけいるだろうか。恥ずかしながら私は大久野島を訪れるまでは日本軍が戦時中何をしていたかなど興味もなかった。過去を知って中国の人々に謝罪すべきだと言っているわけではないが、日中関係を憂えるのであれば、そもそも過去に何があったのか中立的な視点から学ぶことがスタート地点になるべきではないかと考えた。
訪問した5名で所感を語り合った後は外へ。出る間際に、受付のおじさんにお礼を言うと、かすかに微笑んでくれたようであった。
(文責:堀)
午後は、「外国人に最も人気な観光地」として名の知られた宮島に行きました。幸運なことに、前日の夜から降っていた雨もあがり、天候に恵まれた中で宮島をまわることができました。
宮島では、まず昼食として、名物である「あなごめし」をいただきました。瀬戸内海の宮島近海ではあなごがたくさん獲れ、それを駅弁として売り出したことがあなごめしが生まれたきっかけだそうです。その他にも、もみじ饅頭を揚げた「揚げもみじ」や、広島県が生産量日本一を誇る牡蠣も堪能しました。
その後、宮城の松島・京都の天橋立と並ぶ日本三景の一つである、ユネスコの世界文化遺産「厳島神社」に訪れました。まずは大鳥居を見学しました。私たちが訪れたときは引き潮で、海に建てられた大鳥居のそばまで歩いて行くことができ、間近で見る大鳥居は大変迫力がありました。厳島の語源は「神に斎(いつ)く(=仕える)島」であり、宮島全土が神として信仰されたことを示すとされています。海に大鳥居を建てたのも、信仰の対象であった土地を、木を切る等の行為で傷つけないためだと考えられています。続いて社殿を見学しました。厳島神社は6世紀後半に建設され、平安時代末期に平清盛により現在の寝殿造りの姿に改築されたそうです。平安時代から伝わる日本建築の美しさを肌で感じることができました。
2016年8月2日
1度目のスタディツアーで訪れた際に再訪を決意し、前回は聞けなかったお話を聞いたり経験をしたりするために今回は女川と福島県を訪ねた。
7月22日、女川に着いて最初に訪れたのが東北電力女川原子力発電所。
ここではPR館の那知上さんにお世話になった。
まずはPR館で原子力発電の仕組みや、女川原発について説明を受けた。
女川原発は1〜3号機の3基あり、その合計出力は宮城県全域の電気をまかなうことができるほどである。
そして、5年前の東日本大震災の震源地から最も近いところに位置していた。しかし事故を起こした東京電力福島第一原子力発電所とは異なり、非常時の際に必要な止める・冷やす・閉じ込めるの3つの措置を適切に取れたために安全に停止することができた原発である。
現在は停止中だが、いつかくるであろう再開の時に向けて29mもの高さの防波堤の建設など、さらなる安全対策と住民理解のために尽力されている。
説明の後は実際に女川原発に向かい、建屋の中、それも燃料棒の入ったプールの真上まで見学させていただいた。(セキュリティの関係上写真はない)
見学の中で特に感じたことが3つある。
共存共栄という言葉
地域の中で原発がデリケートな問題である面は否めない。しかし原発は決して地域と対立して、または地域を搾取して存在しているというわけでなく、地域と共に生きている面があることを感じた。
女川原発は建設が決まった当時、住民からの激しい反対を受けて着工までに約9年半を要している。それゆえに東北電力は、建設当時から良いことも悪いことも含めて住民への情報開示を徹底してきたそうだ。また、震災当日は寒い中で避難する場所がなく行き場を失った近隣住民の方々300人ほどが、避難場所として利用していたと聞いた。
同じ海と共にその地で生きる存在として、そして生活に必要不可欠な電気をつくる存在と、使う存在として。
電力会社が地域と共に生きるために公私共々の交流や説明責任をしていること、その小さな積み重ねからしか信頼は生まれないのではないかということを強く思った。
リスクに想像力を持って備えるということ
津波の被害を受けたにも下変わらず、女川原発が事故に至らなかった理由としては主に⑴津波の到達想定高さを度々改訂し、敷地の高さを14.8mという高めの基準にしてあったこと⑵冷却作業に必要な外部電源が全て切断される事態は生じなかったこと、加えて切断された外部電源の復旧が8時間後と非常に早かったこと⑶防潮堤の高さゆえに非常用ディーゼル発電が使用できなくなる事態は生じなかったことの3つが挙げられると思う。リスクに対しての備えが、この結果につながったのだと思う。
現場の方々の誇り
見学でお会いした作業員の方はどの方も徹底した安全管理をしていたと共に、挨拶もしてくださり非常に明るい雰囲気であった。何より案内してくださった那知上さんの『福島の事故を機に、自分たちの使命はより多くの電力を、なるべく安く安全に供給することだと再確認した。それは何が起きても変わらない。』の言葉が非常に印象に残っている。現場を担うのは、自分たち。最後は人。その覚悟と誇りを、お話の中で感じることができた。
ブラックボックス化している上に、賛成や反対の対立に容易につながりがちだあるゆえに普段東京にいる私たちにとっては話題に出すことも憚られるように感じる原発。しかし東日本大震災を経験している日本人として見られる留学先では、必ず原発の議論が出ることがあると思う。
そんな私たちにとっては“そこ”にいる人がどういう思いでどう働いていらっしゃるかその一端を垣間見ることができた、非常に良い経験であった。