2017年5月11日
みなさんこんにちは!今回は、先日行われたJISS第四期による第一回目のスタディツアーの様子を報告したいと思います。 記念すべき初のスタディツアーの訪問先は群馬県南牧村。皆さんはご存知ですか?この南牧村、実は高齢化率日本一、そして消滅可能性も日本一の、言わば典型的な「限界集落」なのです。ではそんな南牧村に、どうしてJISSが研修に訪れるのでしょうか。JISSといえば、グローバルな視点を持ち、世界に目を向けることを目標としているのではないのか…そんな疑問が湧いてくるでしょう。しかし、果たして「世界」だけに注目することが、本当に「グローバル」と言えるのでしょうか。いえ、それでは灯台下暗し。これからの世界を担うものとして、そして何よりも日本人として国内のローカルな部分に目を向け、複合的な視点を身に付けることで初めて、真の意味でのグローバル人材になれるのではないでしょうか。そんなメンバーの意識から、第一回目のスタディツアー先は「限界集落」南牧村となったのです。
【トークセッションⅠ 田中陽可さん】 さて、ツアーは一日目から大変濃密で有意義なものとなりました。現地に到着した僕たちを迎えてくれたのは、南牧村に「Iターン」(都市から農村への移住)し農業を営む田中陽可(ようか)さん。JISSのメンバーの好奇心旺盛さも手伝って、トークセッションは終始対話形式で行われました。 田中さんは農村で農業を営んでおられますが、その胸に抱く夢は壮大です。それは「世界中の飢餓を無くすこと」。高校卒業後の米国留学中、大腸を切断するという大手術を経験した田中さんは、術後10日間飲まず食わずの生活を強いられました。そのとき感じた空腹の辛さが、上述の夢への舵を切る大きなきっかけとなりました。大学での2年間の研究生活を経て田中さんが辿りついた答えが、自然農法(無肥料・無農薬)による有機農業でした。発展途上国を中心に今もなお残存する大企業による大規模農業。それは現地の貧しい人々を搾取し、先進国の富裕層が恩恵を受ける世界大のシステムなのです。それを解消するためには食糧輸入国である日本で有機農業を広め、貧しい国々からの輸入を減らすしかない―そんな熱い思いで南牧村に移住されたのです。田中さんは今後のビジョンについて、値の張る有機野菜をなるべく安価で提供する努力を続けることで有機農業を全国に広め、ゆくゆくは「世界中の飢餓を無くす」という夢の実現を思い描いておられます。またWWOOF(ウーフ)という農業体験制度を用いることで、海外から有機農業に興味のある若者を受け入れ、国内外を問わず若者への教育にも取り組んでおられるようです。 セッション後、メンバーからは「ひとつの目標に向かい地に足を付けて少しずつ課題をクリアしようとする田中さんの姿勢に感動した」などの声が挙がった一方、「世界の飢餓をなくすためには自然農法よりも、農薬や肥料を用いた中・大規模農業のほうが現実味があり、そちらを優先的に検討する必要もあるのではないか」との意見もありました。
【トークセッションⅡ 浅川秀行さん】 続いて僕たちにお話しいただいたのは南牧村役場「村づくり雇用推進課」の浅川秀行さんです。セッションⅠに続いて基本的にはメンバーの質問にお答えいただく対話形式となりました。 まず、南牧村が全国の他の限界集落とされている農村と比べて相対的に成功している点について指摘がありました。南牧村はかつてイベントの開催など単発での村おこし政策を行っていたのですが、それが悉く失敗に終わってしまい、やはり長期的なビジョンの下で地方創成に取り組まねばならないという結論に達したそうです。そこで重要になってくるのはやはり「Uターン」(都会に定住していた若者が故郷の農村に移住すること)や「Iターン」などで若い世代を村に引き寄せることです。しかし浅川さんは、それだけでは失敗するだろうと語気を強めます。村を魅力的にするためには「住居・仕事・子育て支援」の3点セットが欠かせないとおっしゃいます。実際、南牧村では年間数人の地域おこし協力隊員の受け入れや児童教育・医療費無料政策、さらには古民家(空き家)再生による住居確保などの施策によって、村の外部からの若者の移住・定住にある程度成功しているそうです。 浅川さんは南牧村ならではの強みは「共助精神の残存」だとおっしゃいます。台風などの自然災害で孤立化したこともありましたが、村全体が一体となって助け合うことで被害を最小限に食い止めることができたのです。これは都市部、特に大都会東京にはほとんど見られない精神です。しかし、農村社会日本は弥生時代の昔からこのような共助精神を脈々と引き継ぎ、そして育ててきたという歴史・伝統を忘れてはいけません。 一方で南牧村の課題について、浅川さんは2点挙げてくださいました。1つめは役場の保守的な風潮です。村に移住してきた意欲的な若者が新たな取り組みを提案しても、そのアドバンテージを評価せず、ディスアドバンテージや障害をあげつらい、可能性に満ち満ちた芽を自ら摘んでしまっているというのです。2つめは歳入の少なさです。国からの補助金に依存しているのが現状で、村税の増加は現実味が薄く、企業誘致の見込みもな少ないことから、南牧村のこれからの長期的なビジョンが必要なのです。また、南牧村は今後「小規模だが持続的な農村社会」を目指すそうです。すなわち若者の勇気によって極端に高い高齢化率を引き下げ、人口構成の均整化することが目標なのです。 セッション後には自然とメンバー同士で南牧村の政策についての議論が始まり、福祉サービスを重点的に行うことが最も現実的な策だといった現実的な意見や、快適なインターネット環境を整備することで、自然を生かした「サテライト・オフィス」を強みに企業誘致を行うべきだ、という進歩的な意見も挙がりました。
【地元の皆さんとの交流会】 2つのセッションを終えた僕たちは南牧村の民宿「かわくぼ」さんに移動し、地元で採れた新鮮な魚や山菜、鹿肉(!)など非常に美味しい料理をいただながら、地元の方々や地域おこし協力隊の田中さん、谷津さん、WWOOFER(ウーファー)のローラさんとの交流会を行いました。 ここで僕たちメンバーは、南牧村で村おこしを熱心に行っているのは行政だけではない、ということに初めて気づかされます。その驚きをもたらしたのは「なんもくビデオクラブ」の存在。交流会にはクラブ会長の神戸武雄さんを初め、奥さんの神戸とみ子さん、副会長の平柳勝廣さんにお越しいただき、お話をおうかがいしました。クラブは有志で経営しており、南牧の自然や食の伝統をビデオに収め、フェイスブックやツイッターで日本全国に発信することを目的に設立されました。現在はケーブルテレビを通じて放送も行われており、知名度も急上昇中です。その村おこしへの貢献度は大きく、行政の言わば「上からの創成」のみならず、民間の「下からの創成」が非常に大切であることを痛感しました。いくら行政が革新的な政策を提案しても、それに応えてくれる熱意ある地元の方々がいなければ元も子もありません。
山菜ときのこの天ぷら。「山菜の女王」ことこしあぶらも堪能。山の豊かさを感じました。
【1日目まとめ】 以上のように、第1回スタディツアーは初日から目からウロコの大変意義深いものとなりました。海外留学を経て南牧村に移住された田中さんのお話では、これから海外留学を控える僕たちも、日本人としてローカルな部分に目を向けることの大切さを改めて認識させられました。役場で村おこしを主導されている浅川さんには、南牧村の現状や課題、将来のビジョンについて様々なお話を伺い、南牧村だけでなく日本全国にごまんとある限界集落を行政がいかに支援していけばよいのかについて、多くの知見を得ました。地元の方々との交流会では、神戸さんご夫妻をはじめとして南牧村の方々の村おこしに向けた熱意に感銘を受けました。 この密度の濃い1日を通して、JISSのメンバーひとりひとりが、農村から日本全体、さらには世界について様々な思いを巡らしたことと思います。次回はスタディツアー2日目のレポート、さらにはメンバーの感想も掲載する予定です。是非お楽しみに!
(文:仲井成志)
2017年5月15日
みなさんこんにちは!今回は、群馬県南牧村を訪問した第1回スタディツアー2日目の様子をレポートします!
前回報告したように、ツアー1日目は二度のトークセッションや地元の方々との交流会など、大変密度の濃いものとなりました。メンバーも南牧村の不思議な磁力に吸い寄せられ、その魅力に気付き始めたようです。2日目はトークセッションに加え、南牧村の自然や伝統を生かした観光名所を訪れ、その内に秘めたるパワーを全身で感じます。
【トークセッションⅢ 五十嵐亮さん】
さて、今回のスタディツアーでお三方目となるゲストは、パートⅠでお越しいただいた田中陽可さんと同じく、南牧村で自然農法を用いた農業を営んでおられる五十嵐亮さんです。五十嵐さんは29歳のとき、当時の勤め先である横浜のエスニック雑貨屋さんを辞め、「日本一周農業の旅」に出ます。行く先々で農家の方から農業のいろはを学びつつ、移住先を探したといいます。そうして最終的にたどり着いたのが南牧村だったのです。特筆すべきは、田中さんの場合は「地域おこし協力隊」という言わば政府の窓口を介して村を訪れたのに対し、五十嵐さんは単身で、何の伝手もなく南牧村に足を踏み入れた点です。
なお、今回も1日目のトークセッションと同様、対話形式で行われました。
五十嵐さんはまず、移住者としての当初の苦悩を教えてくださいました。先述の通り政府や自治体などの強力な仲介を経ずに南牧村に移住して農業を始めたため、はじめはどうしても「部外者」と見なされがちで、村に溶け込むのに時間がかかったそうです。そこで気付かされたのが「都会には都会の、田舎には田舎の空気がある」ということ。都会の「空気」しか知らなかった五十嵐さんにとって、南牧村の「空気」はあまりにも異質でした。しかし、都会の「空気」を押し付けるのではなく、まず自分がその場の「空気」に溶け込むこと、それが大切だと感じたそうです。そこで五十嵐さんは、自然農法に対する自らの熱心さ、そして南牧村で生きていくのだという決意を示すため、村の方々との交流を積極的に行いました。それが実を結び、今では人々から信頼されるまでになったというのです。
続いて五十嵐さんは、地域おこしとしての農業の可能性について語ってくださいました。「限界集落」とされる地方自治体が生き残っていくためには、「小さな産業」を興すことが大切だとおっしゃいます。村単位で流通・販売を一元化する生産組合を整備し、それぞれの地域の強みを生かした農作物を組織的に栽培するという作戦です。さらに南牧村の将来について、村をひとつの企業として捉えると、数多くのビジネスチャンスが転がるポテンシャル満載の土地に思えてくるとおっしゃいます。驚くほどに、そして僕たちが事前の勉強会で立てた推論とは正反対に、村の皆さんや移住者の方々の未来図は楽観的なのです。
最後に、留学を控えた僕たちJISSのメンバーへのメッセージをお願いしました。五十嵐さんは、このトークセッションのように「現場」で何かを目標に活動する人たちの話をとことん聞いて、考え方に「色」を付けて欲しいとおっしゃいます。どうしても研究室に閉じこもり、活字の世界に没頭してしまうことの多い大学生ですが、「現場」の声を聞くことは大変有益で、それがなくてはあまりに現実離れした理想論か、極端な悲観論に陥ってしまうでしょう。僕たち若者に求められているのは、自らの考え方に様々な「色」を付け、思考のタコツボ化を防いで多角的な視野を身に付けることなのかもしれません。
【南牧村観光ツアー】
さて、3部に渡るトークセッションを終え、待ちに待った観光ツアーに出かけました。千歳屋さんの「炭ラーメン」(麺が真っ黒!)を堪能した後は、ちょっとしたハイキングや河原での水遊びなど、南牧村の大自然を満喫しました。その後バスに乗り「線ヵ滝」へ。壮大な自然を前に、都会出身者の多いメンバーは生気を存分に養い、日頃の疲れを癒しました。 さらに「民俗資料館」で南牧村の文化・伝統を学んだほか、かつて養蚕が盛んだった星尾集落を訪れ、移住者の小保方さんに集落の歴史や有名な石垣についてお話を伺いました。
【まとめ】
2日間にわたった群馬県南牧村へのスタディツアー。留学を目前にする僕たちJISSのメンバーにとって、これまで「地方」は文字通り遠い存在だと感じられ、あまり関心を払ってきていなかったように思います。しかし、このツアーを通じて各々のメンバーが少なからず地方に対する印象を変え、ひいては自分の世界感までもが大きく覆されたのではないでしょうか。
ここではレポーターがだらだらと筆を走らせるのはやめて、ツアー後にメンバーから寄せられた感想文をいくつか掲載し、レポートの締めくくりとさせていただきたいと思います。一人一人の声の中にこそ、この第1回スタディツアーの成果が凝縮されていて、さらに言えば僕たちの進むべき方向性までもが、垣間見えるのではないかと思うからです。
―M.Tさん―
日本一消滅可能性の高いまち、と言われる村、南牧村を訪れた。しかし、私が感じたのは消滅可能性などではなく、存続可能性への確かな希望であった。
今回の研修で最も印象に残っているのは、南牧村への移住を決めそこで活動する者らの話だ。彼らは皆口を揃えて「私はこの南牧村に骨を埋めるつもりだ。」と言った。それを言わせるだけの何かがこの南牧村にはあった。私がそれに完全に共感したかは別として、それは多かれ少なかれ、南牧村の未来を本気で憂い活動に奔走する精力的かつ地元思いな人々であったと私は思う。
高い確率で起こりうる現実として、南牧村の人口は絶対的に減少傾向を維持し、「限界」を迎える。しかし、今回の研修を通じ肌感覚として感じたことは、「意思あるところに道はできる」ことであり、南牧村にはその意思が強くあることであった。その結果が、今回お話を伺うことのできた若者の移住という結果に現れているのではないかと思う。また、大学もなければ高校さえもないこの村が、私たちのような学生を受け入れてくださることも非常に双方にとってのメリットがあり、村の戦略として賢いという風に感じた。
少しサディスティックなきらいは否めないが、果たしてこうした意思が消滅を宣言された村を救うことができるのか、今後も注目し関わっていきたいと思う村であった。
―T.Sさん―
地元の方が夜の交流会の時におっしゃっていた「俺は南牧村の人口が0になっても南牧村が好きだし残る」という言葉が非常に印象に残っている。南牧村の行く末、現状を正しく認識しながらもそれに立ち向かわんとする覚悟、思い、生きる姿勢がこれほどまでに如実に顕れた言葉はなかったのではないか。
しかしやはりマクロな視点で見たときに、現状1900人程度の人口で今もなお80人/年で単調減少しているという状況で3,4人/年の移住者が来るかどうかの間をさまよっていることは問題だ。一番わかりやすい原因は空き家の整備が追い付いていないということだったが、その手続きを移住者自身やボランティア、NPOなどを上手く活用して負担してもらう、などシステム面での改革がない限り、この現状を打破するのは難しいと感じた。
何もしなければ減る、良くても現状維持という状況の中で、現実と向き合う人もいれば現実逃避する人もいる、でも今の暮らしに満足しているしわざわざ住み慣れた場所を離れて外に行くこともない、という考えのもと暮らしている人が大半であるように感じた。この状況は高度経済成長期をとうに終えた今の日本の現状と重なる部分があると感じた。例えば、国債、年金、少子高齢化、取り組むべき課題が山積している中、これらの問題を打開しなければ国が破たんしてしまうのはほぼ自明であるにもかかわらず国民は「信頼」というよくわからない言葉を頼りに納税し、海外の投資家も巨額のお金を預けて暮らしている。
いや、しかし、一方で今回の南牧村での探検で何か光を見た気がした。それは「ヒト」である、と今回の旅で改めて理解したのはやはり今回お話してくださった田中さん、浅川さん、五十嵐さんとの対話がきっかけである。今の日本が成り立っているのも結局は「ヒト」。事業が成り立たなくても、「ヒト」がいる限りそのコミュニティーは存在し続けるし、その人に吸い寄せられるように魅力的な人が集まっていく。村長さんや地元の方々がリーダーシップを発揮し、それに共感する人がどんどんと増え、10年~20年後には規模は縮小しつつも人口動態が正常に戻り、平穏で幸福な生活を送る笑顔あふれる村になっていることを期待してやまない。また、自分もその一助になれればと思う。
―T.Tさん―
「地方創生」とはいったい何なのだろうか、収益赤字の道の駅を作ることだろうか、話題を読んで人を呼び、財政的に潤いをもたせることであろうか。地域活性の最終的なゴールは一体なんなのだろうか。今回、南牧村の訪問を経て、これらの問いに対するヒントが得られたと思う。と同時に、人口減少していく日本社会のあり方について考えるヒントを得られたのではないかと思う。
高齢社会化する中で、地域が目指すことは、浅川さんが仰っていたように「健全な人口ピラミッドの維持」というのもなのだ。そしてそれも突き詰めれば、コミュニティの維持―人口は減少して規模は小さくなれど、若い人がいて、南牧村の伝統が末長く受け継がれていくような、持続的なコミュニティの維持―こそ地域が最終的に目的とするところである。そうなれば、そこに必要なのは、大きな産業や、持続性のない奇抜なプロジェクトではない。必要なのは、地域にある資源を使った、小さけれど、次世代にも渡って持続していくことのできる小さな産業なのである。五十嵐さんの取り組みのように、自然農法や、杉の活用など、収益は大きくないが、長くやっていける産業の存在が必要なのだ。
都市社会学者リチャード・フロリダが自身の著書で繰り返し述べているように、情報で人が繋がれる時代に、場所は人を惹きつけ、人は人を惹きつけていくことで地域は発展していくと述べている。南牧村の伝統、自然条件、助けてくれる人の存在が、五十嵐さんを惹きつけ、そして五十嵐さんの取り組みの発信が、次の人を惹きつけていくのだ。しかし、ジャーナリストのジェーン・ジェイコブスの発言にある通り、新しいアイデアや試みを否定する存在「潰し屋」が地域を衰退に持ち込むとされ(リチャード・フロリダ(2014)『新クリエイティブ資本論』井口典夫訳、ダイヤモンド社)、南牧村にも少なからずそういった方がいると田中陽可さんからお聞きした。村で新しい試みを実践していこうとする人に寛容であること、そうすれば、村が人を呼び、人が人を呼び、そして村が新しく来る人にとってより魅力的な場所になり、さらに人を呼ぶ。そういった良い循環が生まれていき、村が挑戦していく村になってくれることを強く願った。
―N.Nさん―
僕はこれまで地方創成に全く興味がありませんでした。地方が衰退したところで都市の活性化は疑いようもなく、日本の大勢に大きな影響なんてあるはずもない、と高を括っていたのです。しかし、勉強会やスタディツアーを通じて考え方が改まったような気がします。地方の活性化が都市の活性化にもつながる、いや、都市の活性化とは全く独立のものとして、日本全体の活力を下支えしているのは、実は地方なのではないか、と思い至ったのです。
僕の出身地は富山県富山市のある農村です。いわゆる「平成の大合併」の折に富山市と合併して以来、それまでにも進行していた高齢化と人口流出はいよいよ歯止めがきかなくなり、どこからどうみても「限界集落」の苦境に陥りました。それなのに、「富山市の一地域」と見なされるためにいっこうに注目されず、救いの手が差し伸べられる気配は全くありません。一方の南牧村は同じ「限界集落」でも活気が違います。どうしてでしょうか。勉強会の段階で僕が立てた推論は以下の通りでした。つまりは、他市町との合併を拒んできたがために、「限界集落南牧村」として注目を集め、地域おこし協力隊や国からの補助金といった援助を得られてきた、それによって何とか村経営を維持することが出来ている。しかし、スタディツアーで南牧村を訪れ、その仮説は浅はかであったと思い知らされました。合併の回避もひとつの重要な要素であることは間違いないでしょう。しかし、それに先立って最も地方農村の生死を分けるのは、住民の地元愛、それから衰退への危機感、創成への活気なのでした。それが僕の出身地と南牧村との決定的な差なのです。村長さんをはじめ、南牧ビデオクラブの神戸さんご夫婦など、南牧村にはやる気と熱意に満ち溢れた方々がたくさんおられます。村の皆さんの話を聞いていると、言いようのない嫉妬心に苛まれました。僕の故郷も何とかしたい、いや、何とかできるはずだという思いがふつふつと湧き出したのです。
南牧村へのスタディツアーにおいて、僕の地元愛が呼び覚まされるとともに、それこそが日本全体の活気に直結するのだということに初めて気づかされました。今後何らかの形で地方創成、特に僕の故郷の活性化に直接的・間接的に関わっていければと思っています。
(文:仲井成志)
2017年6月2日
神宮には豊かな自然が広がり、神聖な雰囲気が醸し出されています
みなさんこんにちは!今回から二度にわたり、5月27、28日に実施された第二回スタディツアーの活動報告をしたいと思います!
第一回は「高齢化率日本一」の群馬県南牧村でした。緑豊かなその地には、日本人の原風景とでも言うべき世界が広がっていました。都会で生活する僕たちにとってあまりに新鮮でセンセーショナルな体験を通して、日本という国の奥行き、その実像を掴むことができたように思います。
さて、第二回の訪問先は「伊勢・志摩」。伊勢には言わずと知れた伊勢神宮が堂々と鎮座し、志摩は昨年「伊勢志摩サミット」が開催された地でもあります。留学を控えた僕たちJISSがその地を訪れることに、一体いかなる意味があるのでしょうか。ここではまず、訪問先を「伊勢・志摩」に指定した、その動機を探ってみましょう。
【どうして伊勢・志摩へ?】
日本人は「無宗教」と形容されることがあります。確かに、キリスト教徒のように誕生時に洗礼を受けることはありませんし、毎週日曜日に教会へ赴き、ミサに参加することもありません。事あるごとに天を仰ぎ、神に祈りを捧げることも非常に稀でしょう。しかし、それだけの理由で日本人を「無宗教」と短絡的に決めつけてしまうのは適当でしょうか。むしろ日本人は、多分に「宗教的」であると言えるかもしれません。というのも日本人は、あらゆる宗教の信仰を完全に内面化していると言えるからです。お盆になると里帰りし、お墓参りを勤めます。クリスマスには七面鳥(今ではケンタッキーが主流派?)を家族で頬張り、そうかと思えばお正月には初詣のため神社に赴くのです。さらに言えば、多くのカップルは教会で結婚式を挙げるでしょう。以上はすべて、宗教的な信仰として(少なくとも意識的に)行っているものではありません。それぞれは慣習となり、伝統となり、日本人の心の中に内面化されているのです。そこにはキリスト教もなければ仏教もない、ということもできるかもしれません。日本人の「信仰」は種々雑多に混ざり合い、だからこそある特定の「宗教」としては表面化しないのです。
それでは、日本人のアイデンティティは一体どこにあるのでしょうか。海外、とくに西欧では、宗教の信仰とそれによって生じるコミュニティのうちに自らのアイデンティティを見出すことが往々にしてあります。そう考えるならば、私たち日本人は、何をもって「日本人」たることを知るのでしょうか。そもそも日本人とは何なのでしょうか。JISSのメンバー全員に共有されているこの問題意識は、容易に答えが導かれるものではないでしょう。そもそも、答えがあるとも限りません。しかし、以下で明らかになるように、伊勢・志摩には、その一つの光明・筋道となるべき「鍵」が隠されているのです。それを探す、言わば「トレジャーハント」が、伊勢・志摩へのスタディツアーの意義であり、目的でもあるのです。
【1日目:日本人のルーツに関わる、「外宮」の存在―山本武士さん】
伊勢に足を踏み入れた僕たちを迎えてくださったのは、伊勢の魅力を内外に発信することを目的に設立された「JUING合同会社」の代表、山本武士さん。また山本さんは、「外宮参道発展会」の会長でもいらっしゃいます。神宮参拝を前に、伊勢神宮の魅力や今日的意味を、メンバーにレクチャーしていただきました。
講演の中心テーマとなったのは、神宮は内宮だけではないこと、さらにいえば外宮なくしては神宮が成立しないこと。「伊勢神宮」には「内宮」と「外宮」が存在し、その両者に存在する全125社の総称が「伊勢神宮」であることは、あまり知られていないように思います。メディアや書籍で取り上げられるのは主に内宮で、参拝者数で見ても昭和39年以来、外宮は常に後塵を拝してきました。しかし実は、神宮の正式な参拝順序は、はじめに外宮、そののちに内宮であり、参拝者数に大きな開きが出るのはおかしなことと言えるかもしれません。当然、外宮を訪れる時間的余裕がない人もたくさんおり、内宮のみに参詣することを批判することはできません。しかし山本さんは、外宮の存在の重要性を指摘され、内宮と外宮の両方を訪れてこそ伊勢神宮の真髄が理解できるとおっしゃいます。
内宮の天照大御神がその名の通り(天照とは太陽の光を指します)強大なエネルギーをもって世界に調和をもたらすとするならば、そのエネルギーを与えるのは外宮の豊受大御神(食を司どる神)であり、その点で外宮の存在は非常に大きいのです。山本さんは、「生きていくエネルギーを後世に伝えていくことは、今日だからこそ重要」とおっしゃいました。食生活の「アメリカ化」によって「質」よりも「量とスピード」が重視され、食の大切さが軽視されている今日においてこそ、生きること、そしてそのエネルギーのありか(すなわち食)を辿ることには大きな意味があります。山本さんが「神宮が内宮とともに外宮を守り続けてきた意味を考えて欲しい」とおっしゃる時、恐らくそこには、外宮こそが神宮の根幹を成すものであり、外宮こそが日本人らしさの象徴であるという強い思いがあるように思います。日本人にとってソウルフードである米(コメ)。外宮はその米を収める穀倉にルーツがあるのではないかとする説があります。それに、1500年間毎日2回続いている「日毎朝夕大御饌祭」や毎年の「神嘗祭」は、古いものをそのまま維持するという直線的な永遠性ではなく、古いものを何度も何度も新しく焼き直す、という遠心的な永遠性を象徴しています。ここには四季を重んじ、散りゆく桜を愛でる日本人の感性・美意識が如実に現れているといえるでしょう。
【1日目:神宮参拝、「かたじけなさに涙こぼるる」】
山本さんからレクチャーを受けた後、実際に神宮での参拝に臨みます。正式な参拝順序に従い、僕たちははじめに外宮、続いて内宮に赴きました。外宮は引き続き山本武士さん、内宮は若林新平さんにご案内いただき、それぞれの社に祭られている神やその現代的意味、さらに正式な参拝方法などを教えてくださいました。この場を借りて感謝の言葉を述べさせていただきます。ありがとうございました。
さて、以下では筆者個人の感想を述べさせていただきます。参拝の体験はひとりひとりの心の内面と深く関わるものだと思うからです。なお、その他のメンバーの感想については2日目のレポートに掲載する予定ですので、そちらも併せてご参照ください!
[感想]
山本さんのお話には大変興味深いご指摘がいくつもありました。外宮と内宮が一体となった「神宮」には、日本人の意識に通奏低音のように流れ続ける「何か」があるはず。私は参拝を前に、その「何か」を自分の中に取り込もう、と心に決めました。
実際に外宮、そして内宮に足を踏み入れ、大都会東京での日常生活とは明らかに異質で神聖な空間で心を研ぎ澄まし、参拝したとき、初めて実感として「何か」が胸の奥底に浸透していくような感覚を味わいました。日本人のルーツはまさにここにあるのではないのか、そして全ての日本人は最終的にはここに行きつくのではないのか。そして、僕のアイデンティティはここ伊勢神宮にあるのではないのかという、ある種の納得。
西行はかつて伊勢神宮を訪れた際、「なにごとの おわしますをば 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」(ここにいったい何が いらっしゃるのか 分からないけれども そのありがたさに 自然と涙がこぼれおちるのです)と詠みました。もしかすると、そこにいう「なにごと」とは、未だ知り得ぬ自分自身の真の姿、すなわち自らのアイデンティティそのものなのかもしれません。探し求めていた自分のルーツを見出すことは、「涙こぼるる」ほどの感動を生むものなのです。
伊勢神宮には、間違いなく「何か」があります。その感じ方は人それぞれでしょうが、日本人であれば誰でも納得できるような「何か」であることは間違いありません。私は神宮への参拝を通じて、たしかにこの「何か」を心の眼で見た気がするのです。
【1日目:式年遷宮と日本人らしさ―深田一郎さん】
僕たちは、山本さんの案内のもと、「式年遷宮記念 せんぐう館」に入場しました。「式年遷宮」とは、およそ1300年前から今日に至るまでほとんど断絶せずに続いている伊勢神宮独特の伝統で、20年に一度、内宮・外宮全ての社殿を建て替える、というものです。この式年遷宮の意義や日本人にとっての意味について、学芸員の深田一郎さんから解説していただきました。
深田さんは、伊勢神宮は遷宮と言うお祭りを通して、永遠を作り出しているのだとおっしゃいます。これは山本さんがおっしゃる「円心的な永遠性」と重なる部分があります。ギリシアのパルテノン神殿は、「直線的な永遠性」を代表するものでしょう。そこには確かに、かつて存在したものが「そのまま」現代にも生き続けています。伊勢神宮はそれとは対照的に、20年ごとに全てを「更新」することによって永遠性を生み出します。ただ更新するのではありません。もともとあったものを「そのまま」、新たに作り上げるのです。それ故建築資材や技術、社殿の外見などは1300年も前から何一つ変わっていないのです。その意味で伊勢神宮は、パルテノン神殿とは異なる「永遠性」を象徴しており、それが多分に日本人の感性との関りの深いものであることは疑いようもありません。
深田さんは「変えてはいけないものと、変えなければならないものの総合こそが伝統である」とおっしゃいました。慣習を大切にしながらも、その時々に合わせて柔軟に生き方を変えていく日本人特有の感性が、ここに透けて見えるのではないでしょうか。
【まとめ】
写真家でエッセイストの稲田美織さんは、その著『水と森の聖地、伊勢神宮』(武田ランダムハウスジャパン)の中で、伊勢神宮を初めて訪れた際の感慨を、次のように表現していらっしゃいます。
私は、国連のパーティや様々な場面において、世界中の人々と語り合う時、自分が日本を何も知らないことを痛感していた。真の国際人になるというのは、まず、自分が何なのか、自分の根元を知ることなのだと切に思っていた。そして、ずっと気がついていた喉の渇きが、伊勢神宮との出会いによって、潤ってゆくことに、とても幸せな気持ちになっていた。本物の日本に出会えたのだと。(8項)
ニューヨークを中心に世界を股にかけて個展開催や展覧会への出品をしていた稲田さんは、9.11同時多発テロ事件を現地で目撃し、そのあまりの衝撃と絶望感から、世界中の聖地を旅し始めました。しかし、それでも拭えない喪失感。そこで訪れたのが、他でもない母国日本、そして伊勢神宮だったのです。
留学を控え、将来的に「真の国際人」となることを夢見ている僕たちJISSのメンバーにとって、稲田さんが指摘するように「自分が何なのか」を考え、「本物の日本に出会」うことが大切なのです。
次回はツアー2日目の活動報告です。2日目は2016年に「伊勢志摩サミット」が開催された志摩を訪れました。メンバーの感想文も掲載する予定ですので、どうぞご期待ください!
2017年6月4日
みなさんこんにちは!今回の活動記事は、前回に引き続き第二回スタディツアーの様子をレポートします。末尾にはメンバーの感想文も掲載しているので、是非最後までお付き合いください!
【伊勢志摩―「ローカル」と「グローバル」の共存】
1日目は伊勢へ。そこには日本人の原点とも呼ぶべき「何か」が確かに存在し、メンバーの心を少なからず揺り動かしたことと思います。
さて、2日目は三重県志摩半島の南部に位置する志摩市賢島を訪れました。みなさん、志摩といえば何を連想するでしょうか。真珠、伊勢エビ、あわびなどの名産品、人によっては「志摩スペイン村」が挙がるかもしれません。しかし、志摩とは切っても切り離せない「出来事」が昨年2016年に行われたことは、まだ記憶に新しいのではないでしょうか。もしかすると「賢島」でピンときた方もおられるかもしれません。そうです、志摩市賢島は「第42回先進国首脳会議」、通称「伊勢志摩サミット」が開催された場所なのです。伊勢志摩サミットには、G7およびEU首脳など、世界中からリーダーが集い、世界経済や気候変動、発展途上国の開発など実に様々な論点が議論されました。僕たちJISSは、日本人の内面に深く関わる最も「ローカル」なものとしての伊勢神宮と、伊勢志摩サミットが開催されたという意味で最も「グローバル」な場としての志摩市賢島が、電車で1時間もかからない場所に、言わば「隣接」していることに注目しました。日本政府は2016年のサミット開催地発表の際に以下のように述べています。
大小の島々や美しい入り江、日本の原風景ともいえる自然があり、豊かな文化伝統を世界のリーダーたちに肌で感じてもらえる。〔さらに〕三重県志摩市〔…〕の近くには伊勢神宮があり、世界のリーダーに日本の悠久の歴史を伝えるには格好の場所です。
(自民党HP、平成27年6月8日「伊勢志摩(三重県)に決定 2016年サミット」より。https://www.jimin.jp/news/prioritythemes/other/127916.html、6月4日閲覧)
「日本の原風景」が広がり、「日本の悠久の歴史」があるからこそ、伊勢志摩でサミットが開催されたのです。その意味で、伊勢志摩は「ローカル」と「グローバル」が融合し、私たちに世界の時間的・空間的ひろがりを感じさせてくれる場所となっているのです。
【2日目:サミット記念館―世界に思いを馳せて】
さて、伊勢市から電車で賢島駅に移動した僕たちを迎えてくださったのは、志摩市役所政策推進部の城山尚史さんと大屋正勝さん。お二方のご案内のもと、近鉄賢島駅二階に併設されているサミット記念館「サミエール」にお邪魔しました。「サミエール」には、「サミット」+「三重」+「見える」の三語がかかっており、「三重でのサミットが次世代からも見えーる」という想いがこめられているそうです。そしてなんとこのサミエール、僕たちが訪れたわずか2日前の5月26日に開館されたのです!何とも幸運な巡りあわせです。
サミエールには、誘致から開催決定までの決して平坦ではない道のり、さらに開催に向けて三重県民の皆さんがどのようにご活躍されたかが詳細に説明されています。世界中から首脳が集う「サミット」です。志摩市の職員様も「とても大変だった」とおっしゃいます。
しかし、いやむしろ大変だったからこそ、その充実感もひとしおだったそうです。「無事に職務をやり遂げられたこと、そして何より伊勢志摩を日本、世界中の人々に知ってもらう機会をいただけたことが誇りです」と城山さん。「世界を動かす」ことのスケールの大きさに大いに感激しました。
サミエールには他にも、実際にサミットで使用された円卓(一部座ることもできます!)やG7首脳等が記した芳名帳が展示されており、当時の雰囲気をリアルに感じることができました。
【2日目:海女さんを訪ねて―もうひとつの「ローカル」】
サミット記念館を後にした僕たちは、定期船に乗って「答志島」へと向かいました。目的は海女さんのお話を伺うこと。答志島には79名の海女さんが現役で活躍しており、志摩半島全体(761名)の約10%の方がおられます(海女文化国際発信事業実行委員会発行「志摩半島の海女」参照)。島に到着した僕たちは、早速海女小屋へ向かいました。海女小屋とは、海女さんが漁に出る前に体を温める場所です。答志島では、観光用に「海女小屋体験」が実施されており、現役の海女さんが囲炉裏で焼いてくださるたくさんの魚介類をおいしくいただきながら、海女さんの生のお話を伺うことが出来ます。僕たちは、漁の成功と安全を祈願して様々なお祭りや信仰が今日まで続いていること、さらに資源を後世まで守り続けるため漁獲量や種類に厳しい制限があることなどを教えていただきました。伊勢志摩には、神宮だけでない、もうひとつの「ローカル」があることを発見したのです。
【まとめ】
2日間にわたり、三重県伊勢志摩を巡った今回のスタディツアー。伊勢神宮では内宮と外宮の共存や遷宮から日本人特有の感性を学び、自らの日本人としてのアイデンティティを再確認しました。伊勢志摩サミットの開催地である賢島では、「ローカル」な地から「グローバル」な世界へと思いを馳せました。答志島では、古代から続くと言われる日本の伝統文化、海女さんを訪ねることで、伊勢志摩のもうひとつの「ローカル」を発見しました。
グローバルな人間となるためには、外に目を向ける視点(グローバル)だけでなく、内に目を向ける視点(ローカル)が欠かせません。まさに「グローカル」な視野を身に付けることで初めて、国際人となれるのです。その意味で、この伊勢志摩へのスタディツアーでは、「グローバル」と「ローカル」の融合を身に染みて感じることができました。
さて、以下ではメンバーから寄せられた感想文を掲載したいと思います。それぞれ何を感じ、何を思ったのか、言葉のはしばしから透けて見えるようです。
[感想① K.Kさん]
山本武士さんのレクチャーで最も印象的であったのは、内宮と外宮の比較である。〔中略〕戦前は第一次産業従事者が多くいたため太陽神を称える外宮の参拝者が多かったが、戦後は自己のルーツを発見する目的で内宮への参拝者が圧倒的に多くなった。これは自分が実際に足を運んで雰囲気の違いを感じることが出来た。内宮は周りに商業的施設が多く、人工的な空間となっていた。一方の外宮は自然的でより、神聖な空間になっていたと思う。私は神なるものに深い思い入れはないが、やはり自然に囲まれた環境に身を置くとなにか清らかになる気がする。これは「気がする」という感覚的・直観的な感情なのだが非常に重要であると考える。参拝の際に常に2度礼をし、2度手をたたき、最後に1度礼をするカタチを教わった。こういった儀礼なるものはどういった意味合いがあるのか不明だが、私は何度とこなす中で一種のルーティンワークだと感じた。徹底的に同じ作法を繰り返すことで意識を無にすることができ、神との交流が興るのではないのだろうか。
[感想② M.Sさん]
「常に新しい状態を保つことで、永遠性を維持する。」―伊勢神宮、「常若」〔とこわか。新しく作り変えることで「常」に「若」さを保つこと〕の思想の体現を目の当たりにした時、そのあまりの壮大さに私は足がすくんだ。連綿と続けられてきた人々の所業に対しての「畏敬の念」とでも言おうか。派手に彩られているわけでも、豪奢な装飾が施されているわけでもない神殿の数々には、それ自体にこの世の私たちと神を繋ぐかのような、神秘的な雰囲気が宿されていた。
今回の伊勢スタディツアーは、「日本人らしさ」の源泉に気づかされる大変貴重な一日となった。〔中略〕留学を控えて外界に目を向けがちな今日この頃だが、伊勢神宮に来て改めて日本人として初心に戻り、お辞儀をするたびに背筋が伸びるような爽やかな感覚であった。
「瑞々しく美しい稲穂が稔り栄える国」すなわち「豊葦原瑞穂国」〔とよあしはらのみずほのくに〕と呼ばれてきた日本。式年遷宮は日本のそうした豊かさによって続いて来た、とせんぐう館で説明を受けた時、すっと腑に落ちるものがあった。「日本っていい国だな。日本に生まれてよかったな。」と素直に感動した。日頃「当たり前」に享受している豊かな衣食住の「有り難さ」を改めて考えるきっかけになった。
[感想③ A.Kさん]
日本人は宗教観がないから世界で宗教対立や問題が起きてもわからない。今回のスタディーツアーは、こんな風に、宗教と自身の間に線を引いて俯瞰していた自分に気がつくとともに情けなくなった。
驚かされたのは、日別朝夕大御饌祭が1500年間1日4時間以上かかる儀式であるにもかかわらず毎日実施されているということだ。円心性により、神への永遠性を示そうとしているとはいうものの、今の私の生活からは考えられない世界がそこには確かにある、そんなことに驚かされた。世界に於いて200年以上続いている企業の60%が日系という数値はもう衝撃であった。これがいいのか悪いのかは、時代の潮流によって変わるのだろうが、そのような性質を日本人が有しているという事実をこの衝撃をもって、ある種体感できたのは大きな経験だったと思う。〔中略〕
水をすくうにも、神聖な水ゆえ、水面に顔を写さないように水をすくう尺の柄を非常に長くする、鏡〔三種の神器のひとつである八咫鏡(やたのかがみ)〕を作るにも鏡に最後まで顔が写らないように制作する。その一つ一つの想いに見て触れ、自分のDNAにはこの力があるのかと思った時、日本人とは、自分とはなんなのか、全くわからなくなった。
今の私を作ってきた歴史や祭事を理解したけれど今の私がわからない。こんな迷子な気持ちのわたしが心からほっとしたのは外宮内宮の自然と雰囲気だ。よくわからないけどまだここにいたい、こんな気持ちになった。〔中略〕想像を超えたパワーと伝統にすごい勢いで触れ、震えた今回。何を学んだと一言で言い表せずもどかしいが、この力と歴史に触れることができ、伝統の文脈の中に私が確かに日本人として生きているということが実感できたことは、本当に大きな学びだった。
[感想④ T.Sさん]
・伊勢志摩サミット記念館で一つ一つの展示をじっくり拝見した。そこから感じられたのは、伊勢志摩という土地の持つ伝統、文化、自然、人の層の厚さであった。今まではどこか都市/地方という単純な対立軸で日本を分類しているところがあったが、今回の訪問を通じてそれが全く無意味な分類であることに気づいた。伊勢志摩は一つの「くに」であった。・食べ物が「豊か」であった。伊勢志摩サミットでは三重県産の食べ物を各国首脳に提供するわけだが、そこでの趣向を凝らした食べ物は、伊勢神宮の外宮に奉られる豊受大神を彷彿させるものがあった。〔中略〕
・伊勢神宮では地面から湧き上がり立ち込めるような神聖で静謐な香りというか息遣いのようなものが感じられたが、志摩では美しい新緑と海と空の鮮やかな青と爽やかに流れる風に由来する、新鮮な「色」のようなものが感じられた。この伊勢志摩の自然が、人々を1500年以上魅了してきたものなのだなと素直に感動した。
・城山尚史さんは伊勢志摩サミットを行って良かったこととして「元々バラバラであった志摩市が一つになった」「志摩市が自分の土地の良さを再確認できた」ことの二つを挙げていたことが非常に印象に残っている。それは伊勢志摩がサミットの人々を魅了することで、日本の一地方としてではなく「くに」として、つまり独自の伝統、文化、自然、人を持つものとしてのアイデンティティを確立したと考えるからである。これはポスト東京オリンピックにおける「東京人」を確立する上での重要な指針にならないだろうか。その土地の伝統、文化、自然を認知できておらず、東京の土地に誇りを持てていない人は実は多くいるのではないか。私は渋谷のスクランブル交差点は「スゴイデスネ」と言われてもあまり喜べないが、この本質はここにあるのではないか。サミットという機会を最大限活用した伊勢志摩のように2020年の東京オリンピックを通じて私自身が、あるいは東京に住む人が「くに」としての東京を再発見できることを期待してやまない。
[感想⑤ R.Kさん]
答志島でお会いした地元の方が「東京の人は志摩のことなんて知らんでしょう、何かサミットで有名になったみたいだけどねぇ」とおっしゃっていたのを聞いて「志摩=サミットの開催場所」と安直に位置づける事にたいして慎重でなければならない(サミット前もサミット後も、そこに住む人は一貫した生活を営み続けている)と思う一方で、城山尚史さんの、伊勢・志摩がサミット開催地に選ばれたことでこの地域が素晴らしい場所なのだと再確認できたという言葉を聞き、また伊勢・志摩サミットをきっかけにその土地のことを知る機会が地域外の人にも与えられたことを考えると、やはりサミットの持つポジティブな面での影響力を考えさせられる。私たち自身、サミットが開かれた土地として志摩を訪れその景色の雄大さや、海女文化、人々の暮らしや美味しい食事を知ることになったのだから尚更だ。そうしてサミットのポジティブな面に感謝すると同時に、開催当時世界各地でテロが起き多くの被害者が出ている状況下で伊勢・志摩サミットが何事もなく無事に開催・終了され地域の人々にとってサミットが地域に不安定をもたらす災厄の元とならなかったことに安堵し、そうするために尽力した多くの人々の存在を思って今回のスタディツアーの学びの成果としたい。またサミット開催にあたり、城山さんが地域の人を巻き込んでいく方法として警備の地域化を図ったり警察の人に協力してもらったりするなど様々な手段を講じていたことにも感銘を受けた。専門としている学問上、知らない人、そもそも興味ない人を巻き込んで何かしらの行動を起こすことの難しさを感じているからだ。城山さんのお話から、関心の外にいる人々を引き寄せていくための方法を僅かながら掴めたと思う。