板敷山大覚寺は、親鸞聖人法難の遺跡として浄土真宗開宗弘通の有縁の地です。その由来を尋ねると、人皇後鳥羽上皇の第三皇子正懐親王は、比叡山で出家し周観大覚と名のられました。その後東国諸国を行脚された時、ここ板敷山の南麓に草庵を結ばれました。その時親鸞聖人が越後から常陸に来られており、笠間の稲田におられました。周観大覚は、自ら聖人のもとを訪れ念仏の深意を聞信しました。そして親鸞聖人の弟子となり善性房鸞英と名のりました。それ以来聖人に付き随って聞法して聖人のご教化を助けておりました。
当時、常陸の楢原の地に修験道の山伏の道場がありました。頭領の播磨公弁円は、山伏のまとめ役として、常に災害を除き厄をはらう法を修していました。また専ら現世の福利をもって人の心をおさめとり、人びとの崇敬の念をとても受けていました。しかし聖人のお念仏がひろがったことで、常陸の人びとは深く仏教の因果や業の理を知ったのです。これにより仏智回向の大悲を喜ぶ者が日に日に多くなり、修験道の法にたのむ人は少なくなってしまいました。
播磨公弁円は、自分たちの修験道の法門が衰えてしまったことに怒り、聖人を蛇蝎の如く怨みました。遂に自らの弟子三十五人と謀り、聖人に危害を加えようと、板敷山南麓の無住の庵に集まりました。弁円たちは何日も聖人の行化の行き帰りをうかがいましたが、出会うことが出来ません。そこで板敷山の山上に護摩壇を築き、三日三晩懸命に念じました。しかし聖人に何ら危害を加えることは出来ませんでした。
このため播磨公弁円はますます我慢ならず、刀杖を手にはさみ単身聖人のいる稲田の草庵に押し入ったのです。それにもかかわらず聖人は、ためらいなく草庵から出て参りました。播磨公弁円は、尊顔に向かって危害を加えようとする気持ちが忽ちに消滅し、それだけでなく後悔の涙を止めることが出来ませんでした。そして聖人に乞いてお弟子となり、明法房弁円と名を改めたのです。聖人四十九歳、弁円四十二歳の秋の時でありました。
聖人は、この優れたとても良い因縁を喜ばれました。そして山伏たちの集まっている先の周観大覚善性房草創の板敷の草庵に阿弥陀如来の影像を安置しました。この道場を大覚阿弥陀堂と称し山伏たちに百日間のご説法をされたのです。
年を経て三十年、建長三年(1251)十月十三日、明法房七十一歳にして浄土往生を遂げられました。京都洛中におられた聖人は、弁円の往生を聞き常陸の門侶にあてて、御感慨深い御消息を送られたのであります。聖人の御帰洛後十六年、聖人七十九歳の御年でございました。