物理と化学の視点はどのように融合するか?
電子は、私たちの身の回りにある物質だけでなく私たち自身の中にも普遍的に存在する粒子であり、多様な性質の起源になっています。金属や半導体中の電子の流れは、電気伝導性の起源であり、電力の供給や情報処理を可能にしています。超伝導体中の電子集団の量子干渉状態は電圧によって制御できるため、超伝導素子を使った量子コンピュータが開発されています。磁性体中では電子のスピンが規則的に配列しており、そのダイナミクスからは発電・変圧・モーター・情報の記録などの機能が生まれます。このような物理現象だけでなく、電子は原子核を繋ぎとめる化学結合や、その繋がり方が変化する化学反応にも関与しています。ダイヤモンドの固さはsp3混成軌道の電子が形成する共有結合に由来しており、金属の延展性は伝導電子が形成する金属結合に由来しています。また、燃料に火がつき、食物が生命の動力に変換されるといった化学反応が起こるとき、電子は炭素や水素から酸素に移動しています。以上のように、電子の働きは物理・化学の両分野で中核を担っています。
物理・化学の発展によって、多様な物質や化学反応、物理現象が開拓されてきました。しかし、それぞれの分野が高度化するにつれて、確立された概念同士の関係が複雑になり、分野間の繋がりが見えにくくなっていると感じています。したがって、高度化した概念を分野を超えて融合させて行くことで、新しい研究の展開が生まれると考えています。このような狙いを持ちながら、電子状態と原子配置の安定性をシームレスに理解する枠組みを探究し、新現象・新物質の開拓を行っています。
Introduction
物質中の電子が持つ「多体性」「量子性」「非平衡性」は私の研究の根底にある重要な概念ですが、研究が進むたびに新たな側面が明らかになり、その全貌を説明しきることは難しいです。少しでも興味を持つ人が増えればという意図で、これらの概念の一側面について書きます。
電子は原子核からは引力を、他の電子からは斥力を受けながら運動しています。原子核は電子に比べてとても重いので、原子核が止まっている状況で電子の運動を考えるという近似がよく成り立ちます。しかし、電子同士の斥力に関しては、他の電子が止まっている状況で電子の運動を考えるという近似が成り立たないことが多いです。言い換えると、ある電子の運動が他の電子の運動に影響を与え、その影響が自分自身に返って来るという「多体性」が顕在化しやすいということです。多体性を理解することは、物質中の電子の運動だけでなく、元素の集合体から物質が合成される過程、宇宙空間での星の誕生や運動、生命や生態系の進化、経済活動や社会現象にも関係しており、難しくも面白い課題です。
電気伝導現象の理解の基盤となるバンド理論では、原子核や他の電子との相互作用で電子軌道が形成され、電子はエネルギーの低い軌道から順番に占有して行くと考えます。近いエネルギーの電子軌道をひとまとまりにしたものをエネルギーバンド、電子軌道が存在しないエネルギー領域をバンドギャップと呼びます。エネルギーバンドの途中まで電子が占有している場合は、小さなエネルギーを加えるだけで電子は異なる軌道に移ることができるため、物質は金属のような高い電気伝導性を示します。エネルギーバンドが電子で満たされている場合は、電子を異なる軌道に移すためにはバンドギャップを超えるエネルギーが必要であるため、物質の電気伝導性は低くなります。このように、バンド理論は金属・半導体・絶縁体の存在を理解する基礎になっています。しかし、電子同士の斥力の効果を考えると、必ずしも電子はエネルギーの低い軌道から順番に占有するとは限りません。同じ軌道を占有した電子間の斥力のエネルギーが、高いエネルギーの軌道とのエネルギー差を上回れば、低いエネルギーの軌道に空きがあっても電子は高いエネルギーの軌道を占有します。このように、電子間の斥力によって、多様な電子状態が実現する可能性が広がります。
伝導電子が電子間の斥力によって形成する「電子相」は、物質の化学組成や、温度・圧力・磁場などの物質が置かれる環境に依存して様々です。通常の金属相の他には、伝導電子が互いの反発で動けなくなったモット絶縁体相、伝導電子が対を形成した超伝導相、伝導電子が規則的に配列した電荷秩序相、伝導電子のスピンが規則的な構造を形成した磁気秩序相などが挙げられます。最も安定な電子相は、温度・圧力・磁場などの物質が置かれる環境が決まれば一つに定まるので、環境を変化させて最安定相が変化すると「相転移」が観測されます。相転移は多体効果が顕著に現れる現象の一つです。
電子の運動を理解するためには「量子性」を考える必要があります。電子は「ナノメートル」の世界で運動しており、人間が認識できる「メートル」の世界の常識が通用しません。例えば、物の運動を知るためには位置や速度を知る必要がありますが、電子の位置を知ると速度が分からなくなり、電子の速度を知ると位置が分からなくなるというようなことが起こります。このような量子性の難しさは、位置や速度というような科学で使われる言語が、人間の経験を基に構築されていることに由来すると思われます。仮に人間がナノメートル程度のサイズだったら、量子性を日常的な感覚で理解できるのかもしれませんが、さらに小さな世界で起きていることを「量子性」と定義するのかもしれません。
研究の目的は、無数に存在する電子(1 mm3 の固体中に1020 個程度)1つ1つの運動のすべてを知ることではなく、その集合体である物質の性質を理解することです。この場合、電子の集団の振る舞いを、統計分布の観点から理解する考え方が有効です。例えば、金属中で起こる電気伝導は、ある方向に流れる電子と逆方向に流れる電子の個数との差によって理解できます。また、水の状態が固体・液体・気体の間を変化するのは、水分子同士を繋ぎとめようとする電子の個数の変化によって理解できます。物質を一定の環境において十分な時間が経過すると、統計分布が時間変化しない「平衡状態」に落ち着きます。平衡状態は物質の理解の基礎になりますが、電気伝導や化学反応を理解するためには統計分布が時間変化する「非平衡状態」について考える必要があります。
研究成果
物質中の電子が示す非平衡現象に関して、以下のような研究成果をあげました。
電子間の斥力のエネルギーを考慮すると、電子は低エネルギーの軌道に空きがあっても高エネルギーの軌道を占有することがあります。このような電子状態を持つ物質は、特殊な電気伝導現象を示します。電子が他の電子からの反発力のせいで動きにくくなるとは限らず、超伝導や熱電効果のような機能性が現れ得るのは興味深いです。
1つ目の例は、キャリアドープされたモット絶縁体κ−(BEDT−TTF)4Hg2.89Br8です。結晶格子の格子点に存在する軌道あたり1つの電子が存在する場合、バンド理論に基づくと金属状態であることが予測されます。しかし、電子間の斥力によって1つの軌道に1つの電子しか占有しなくなると、電子が結晶格子の各格子点に局在化したモット絶縁状態になります。κ−(BEDT−TTF)4Hg2.89Br8は、このモット絶縁状態からわずかに電子が引き抜かれた状態が実現している物質です。すると、1つの軌道に1つの電子が占有できなくても、電子は非占有の軌道に移動することができるため伝導性を持ちます。このような電子状態において、通常の金属とは異なるキャリア数や統計性、電荷とスピンの自由度の分離、BEC的な超伝導状態などの特殊な伝導状態が実現することを明らかにしました。
Phys. Rev. Lett. 114, 067002 (2015).
Nature Communications 8, 756 (2017).
Phys. Rev. X 12, 011016 (2022).
2つ目の例は、磁気スキルミオン物質MnSiです。磁気スキルミオンと呼ばれる渦状の磁気構造と相互作用しながら伝導する電子は、位置に依存してスピンの向きを変えながら伝導することに起因して、あたかも磁場中に存在するかのように振る舞います。この磁場によりスキルミオン物質中では、ホール効果(電流と垂直方向に電圧が発生する効果)やネルンスト効果(熱流と垂直方向に電圧が発生する効果)が発生することが知られていました。これらの伝導現象は定性的には説明されている一方で、定量的な予測のためにはスピンのゆらぎや伝導電子の散乱などの非平衡現象を包括的に理解する必要がありました。MnSiの準安定スキルミオン状態においてホール効果とネルンスト効果の温度依存性を測定し、第一原理計算による理論予測と比較することで、スピンのゆらぎや伝導電子の散乱がスキルミオン由来の伝導現象に与える影響を明らかにしました。
物質中の電子は、温度・圧力・磁場などの物質が置かれる環境(熱力学変数)に依存して、金属相・絶縁体相・超伝導相・磁気秩序相など様々な電子相を形成します。熱力学変数を十分にゆっくり変化させて最安定相が変化すると相転移が観測されます。しかし、急冷のように速く熱力学変数を変化させると、相転移が起こる前に電子が動けなくなり、準安定相が形成されることがあります。このような急冷による相制御法は、鉄鋼やガラスなど原子配置の準安定相の生成には広く用いられてきましたが、電子相制御の研究においては10-1 K/secを超える速い冷却速度はほとんど用いられていませんでした。
1 mm3の試料では103 K/sec、10 μm3の試料では108 K/secにも及ぶ冷却速度の実験を行うことで、有機導体における電荷ガラス、カイラル磁性体における準安定スキルミオン相、遷移金属カルコゲナイドにおける準安定超伝導相、マンガン酸化物における準安定強磁性相など、多様な物質中で準安定電子相を発見しました。
Phys. Rev. B 91, 041101(R) (2015).
Nature Physics 12, 62–66 (2016).
Nature Materials 15, 1237–1242 (2016).
Science Advances 3, e160256 (2017).
研究手法
物質中の電子が示す非平衡現象を観測するために、以下のような研究手法を用いています。研究を発展させるためには、これらの手法だけでは不十分で、多様なアイディアや技術を持つ研究者との共同研究が不可欠です。
電気抵抗測定では電流を流したときの電圧を測定し、熱起電力測定では熱流を流したときの電圧を測定します。電気抵抗の値には、物質中で電子がどのように流れ、どのように邪魔されているのかという情報が集約されています。電流と熱流のミクロな起源の違いに焦点を当てると、熱起電力からは電気抵抗とは別角度から電子の振る舞いが見えてきます。以上のような考えを基に実験で得られたデータを見ながら想像を働かせて、電子の振る舞いをできる限り詳細に描写します。
物質中の電子は無限に速く動くことはできません。したがって、急冷のように速く環境を変化させると、電子は環境変化について行けなくなり、遅く環境変化した場合とは別の状態が現れることがあります。急冷実験は特殊な装置を使わなくてもできるので、試料の性質や測定環境に合わせて急冷方法を提案します。
実験結果は常に現実に起きる事象を示している一方で、実験者も把握しきれない程の要因が関わっています。このような個別事象を他の事象と包括的に理解するためには、単純な要素だけを抜き出して何が起こるかを数値シミュレーションで調べる研究が有効です。