「平戸の宝」シリーズ
私たちが住む「平戸」の知ってるようで知らないことや、後世に残したい、伝えたい地域のことにスポットをあてる「平戸の宝」シリーズを連載します。先ずは、現在の平戸小学校区の町名の由来について、郷土史研究者の近藤司さんに話を聞きました。
私たちが住む「平戸」の知ってるようで知らないことや、後世に残したい、伝えたい地域のことにスポットをあてる「平戸の宝」シリーズを連載します。先ずは、現在の平戸小学校区の町名の由来について、郷土史研究者の近藤司さんに話を聞きました。
シリーズ1 「ところの呼び名さがし 」
▶第1回「岩の上町」 ▶第2回「新町」 ▶第3回「職人町」 ▶第4回「戸石川町」 ▶第5回「鏡川町」 ▶第6回「木引町」 ▶第7回「大野町」 ▶第8回「明の川内」 ▶第9回「紺屋町」 ▶第10回「大久保町」 ▶第11回「木引田町」 ▶第12回「築地町」 ▶第13回「宮の町」 ▶第14回「浦の町」 ▶第15回「魚の棚町」 ▶第16回(最終回)「崎方町」
シリーズ1-第1回-「岩の上町」
平戸大橋と並ぶ「山姥崎」
岩の上の由来となった「岩」
「岩の上」とは実に奇妙な名前である。単なる「岩」ではなく、その上に視線を向け、そこに何かがあるということを想起させるからである。加えて、その岩はどこにあるのか。
好奇心がかき立てられる町名「岩の上町」。『平戸録』という古い書物に「岩ノ上」という文字がある。そこには、「白浜 浦、山姥崎ノ間、岩石ノ上」とある。「白浜浦」は現在の白浜地区であり、かつては白砂が広がっていた。また、猶興館高校の真向かい、白浜地区と中の崎地区を隔てる、わずか40m程度の高さの海食崖の先端を「山姥崎(ヤマンバザキ)」 と呼ぶ。山姥の由来は不明だが、そこにはかつて、ヒラドツツジの原木がいくつも自生しており、山姥の髪飾りのように美しかったといわれている。
実際、小字図にもおおよそ山姥崎周辺が「岩ノ上」と記されてあり、地元の人もそう呼ぶ。従って岩とは、この山姥崎から南西に伸びる海食崖の岩層のことであることが分かる。
岩の上町は、砂岩の田平層と礫の混じる南竜崎砂礫層、その上に玄武岩が覆う地層を成している。平戸地域の玄武岩の黄色風化土は耕作に適している。実際に耕作地として江戸時代より利用されてきたが、これは海浜に近く、肥料の調達が容易であったことも関係すると思われる。また、多くの家中屋敷が集中しており、現在でもその名残りをとどめている。
人々の生活の糧を生み、また多くの家中屋敷をいただくこのところの呼び名が、いつしか広範囲に広がり、町名へと展開していったことがうかがえる。
シリーズ1-第2回-「新町」
平戸小学校近くの冨江橋
◇何が新しいのか?
新しい町があるのは、これに対して古い町があるからだ。一般に「ニュータウン」とは、人口が密集した中心部より郊外へ形成された町のことである。
実際、平戸城下が描かれていた最古の地図『1621 年平戸図』には、現在の「新町」の位置にまばらの町屋が見られる一方、イギリス商館周辺の町屋は非常に密であったことが見てとれる。
慶長9年(1604 年)に「平戸新町」の住民が伊勢神宮へ参拝している記録があることから、すでにこの時までに 「ニュータウン化」は起こっていたと思われる。
◇一番新しい町
藩政期、新町は現在の新町交差点から大手の坂側に向かって「富之町」「大 吉町」「富江町」とさらに細かい呼び名 が付けられた。
「富江町」は、寛文5年(1665 年)に平戸城下で最後に造られた最も若い 町である。現在は「富江橋」という橋名のみ往時を偲ぶことができる。私が小学生の頃までは、ムクロジの大きな木が橋のたもとにあり、秋には石鹸の代用となる実をいくつも落としていた。それも今は思い出のみに残るだけである。
シリーズ1-第3回-「職人町」
大工町より南に伸びる 「新道の坂」
◇職人さんがいる町なのか?
現在、職人町に職人はいない。だが、私が子供の頃までは実際に大工がいた。 他にも鉄工職人、木工職人の姿もあったが、「今は昔」という枕詞とともに語らなければならない事実に一抹の寂しさを覚えてしまう。
職人町は、南北に伸びた道沿いに町屋が向い合せに並ぶ町である。それぞれの町屋は、西から「大工町」、「桶屋町」、「 鍛冶屋町」と呼ばれ、各々の町名に因んだ職人が集住していた。また、町の最北部、その東西に伸びる道沿いには、白銀細工を専門とした職人の町「細工町」があった。
職人町は、この四つの区域の総称として江戸時代より呼ばれ続けている。この区域は整然と区画され、それぞれの町は、小路という小さな道でつながれており、 俯瞰すれば碁盤の目のようにも見える。
◇新しい町
藩政期、職人町は旧城下の南限に位置した。碁盤の目のような区画と述べたが、 例外的に大工町の道のみがさらに南へ不自然に伸びている。この道は、ある目的のため正徳三年(1713)に造られた。
平戸藩第五代藩主であった松浦雄香が病で亡くなると、その遺体を隠居所のあ った大垣より葬儀を執り行う雄香寺へ運ぶため、「葬送のためのショートカット」の新たな道を設ける必要に迫られた。この道はその際に造成され、所の名として「新道(シンミチ)」と呼ばれるようになった。その後、大工町から一直線に走るこの道は、葬送の道から大垣方面と旧城下をわたる人々をつなぐ生活のための重要な道路となり、今も人々の暮らしを支えている。
シリーズ1-第4回-「戸石川町」
古の陶工の里「高麗町」
◇コウライマチ
「砥石」が「磁器」に変わるとは俄かには信じがたい。しかし、砥石として著名な「天草石」は、現在「天草陶石」として磁器の製作には欠かせないものになっている。
はじめて砥石を磁器の原料とし、三川内焼白磁を完成させたのは平戸藩の陶工・今村弥次兵衛である。彼の祖父・巨関は、文禄慶長の役の際に平戸領主であった松浦法印によって朝鮮半島より連れ帰られた陶工らの一人であった。彼ら陶工は城下外れ戸石川が流れる傾斜地に集住させられた。そのため朝鮮民族の呼称である「高麗人」が住むという意味で、所の呼び名は「高麗町」となった。
◇なぜ、そこに町ができたのか?
戸石川沿岸では「砥石」が採れた。戸石川町の町名の元となっているこの川名は「砥石が採れる川」という意味であるのかもしれない。実際、古い書物に「砥河」という字があてられている例を目にする。
この川沿いに「職人町」がある。大工等が集住した町であるが、彼らの命である鑿(ノミ)や鉋(カンナ)をメンテナンスするのに砥石は必要不可欠なものであった。
城下外れの石がよく出る川近く、大工等の職人たちを集めたように、時の領主が陶工を集めた背景は、この地の石が陶磁器に変わらないかという淡い期待が滲んでいるように感じる。彼らはその後、 良い石を求め中野さらに三川内へと移り住んでいく。そして、偶然にも三代後に、期待外れであった町名の石が、世界的にその名を知られるまでに至る「白磁」へ姿を変えることを一体誰が想像だにできただろうか。
シリーズ1-第5回-「鏡川町」
旧蓮華院方面を望む
◇「カガミ」とは?
日本で一番長い川は、信越地方の「信濃川」である。しかし、この川は所によって呼び方が変わる。新潟では「信濃川」、長野では「千曲川」と呼ばれている。川は、流れている場所によって名前を変えるのだ。
平戸市鏡川町を流れる「川」は、水源を杉山地区より発し、旧蓮華院(現在の誓願寺付近)に至り海に注ぐ。かつて、旧蓮華院辺りにこの川の大きな深みがあった。その大きさに関して、古い書物に 「町四方ニアマレリ」との記述がある。 しかし、一町が約 100m であることを考えれば、著者がいささか誇張したのであろうことは想像に難くない。人々はこの深みのことを「カガミガワ」と呼んだ。
すなわち、「鏡川」とは本来、旧蓮華院側の大きな川の深み、「渕」の名であった。古よりこの渕の水は清く、平安末期の歌人・西行法師が歌に詠む程であったと 伝わることから、光り輝く「鏡」という名が付けられたと言う。
◇「蟹ヶ渕」
この渕である「鏡川」には別名があった。「蟹ヶ渕」、すなわち蟹が生息する渕という意味の名である。蟹と言ってもただの蟹ではない。甲羅の大きさが三畳程もあるこの渕の主である。「町四方」 の渕であれば、これだけの巨体も賄いきれるのかも知れない。室町時代、この巨蟹は近隣の子供を餌食としていたため勇敢な侍に成敗された。
今はこの渕も、その名さえも失われ、 所の呼び名として「カガミ」だけが残った。そして、この名はいつしか川全体の名となり、さらに川が流れる土地そのものの名となって、今の私たちのくらしにつながっている。
シリーズ1-第6回-「木引町」
「木引海道」の起点
◇「海道」
現在、バスに乗り平戸から中野へ向かうには、千里ヶ浜経由の「前目」から向かう方法と、神曽根ダム経由の「西目」から向かう方法の二通りがある。
一方、旧藩時代に人々が歩いた中野への道は千里ヶ浜も神曽根も通ることはなかった。当時の人々は、大膳原から川内峠を越えて中野へ至る道。または、赤坂から木引の「川内越」と呼ばれる坂を登って前者の本線へ合流する道のいずれかを歩いた。この合流点付近には、旧藩主の乗った駕籠が休憩する「カゴタテバ」や、茶屋も商っていたようで「チャヤノツジ」という所の呼び名も今に残る。
古い書物に、この「川内越」の道は「木引海道」と記されている。「海道」とは海沿いに通じる道の呼び名である。木引の眼下に広がる古江湾は鎌倉時代初頭、臨済宗の開祖・栄西禅師が中国より帰朝した港としても高名であり、ここは中世において人と物流の起点となり得た。
木引は海の玄関口として、また平戸および川内に向かう人々にとって峠越えの重要な起点であった。
◇塩商人の大成
バス停「木引入口」下の海岸沿いに「塩焼」と呼ばれる場所がある。古より製塩に供した土地である。
「木引海道」から川内峠に至ると一つの石が目に付く。鎌倉時代末期、一人の塩商人が川内峠を越えて憩う間、傍にあ った石に塩を摘んで安満岳に向かい自身の成功を願った。すると祈念の験が現れ、ついには平戸から川内を領する地頭の座に上りついたという伝説が残る。人々は、 この塩商人を「大渡長者」と称するようになった。
木引を通って運ばれた塩は、いつしか莫大な財を生み、件の長者を介して平戸松浦家へ引き継がれていくことになるのである。
シリーズ1-第7回-「大野町」
大野町に広がる「野」
◇野とは何か?
『日葡辞書』は、戦国末期の日本語をポルトガル語で解説した辞書である。その中で、「Noni naru(野になる)」という言葉がある。「野になる」とは、比喩として「人が住めないほど荒廃する」という意味であると記されている。「野」とは当時、「何もない」という概念であった。
「野」は平らな広い土地や山の斜面というイメージがあるが、上記の概念で考えたときそこは、家や木々もない 山の斜面ということになる。
すなわち、「大野」とは何もない広大な山の斜面という意味になる。実際、大野には「川内峠」があり、野焼きによって現在も「野」が保たれている。かつて、ここでは牛が放たれ、またここに育つ萱は古くより屋根材、肥料等に使われ人々の生活に欠かすことの出来ないものであった。
◇野の開発
一方、文久3年(1863 年)に描かれた『平戸島瀬戸筋之図』において大野地区全域は「川内峠」を除きほぼ田畑であったことが見てとれる。当地が実り豊かになったのは、松浦党の大野氏が当地を治め開発したからに他ならない。江戸初期に作られた田畑の台帳を見ると、大野氏とそれに縁深い「天性軒」という寺院を中心に開発が行われたことが伺える。この寺院は当地に多くの田地を所有していた。
現在も、寺院にちなむ所の名が残る。漫画、『サザエさん』ではないが、「ふぐ田」という地名がある。これは、「仏具田(ブグデン)」で収穫された米を仏に供え、使うための田という意味である。
今、人びとの糧となる田畑の上に広がる30haにも及ぶ巨大な野は、かつての生活としての場から平戸屈指の景勝地へと変わり、多くの人々の目と心を楽しませている。
シリーズ1-第8回-「明の川内町」
「明の川内」と呼ばれる谷あい
◇川内とは
現在放送中のNHK朝の連続テレビ小説『らんまん』、その舞台は高知県である。「高知」の呼び名は、二本の川に挟まれた場所に土佐藩主の居城があったため川の内側、すなわち「川内」という意味合いをもって「コウチ」と名づけられたようだ。
「明の川内」町内に、「明の川内」と呼ばれる場所が存在する。丁度、西肥バス「明川内」バス停よりやや中野方面側の谷あい、そこが件の場所である。ここには二本の川が流れ、平戸側からさらにもう一本が加わりそれが合流して「明の川内川」となって海に注いでいる。
昔、中野から平戸へ向かう商人が丁度、この地にたどり着いた際に夜が明けたため「明の川内」と名付けたと言う伝承が残る。実際、当地は前目沿いの東向きの立地であり夜明けを肌で感じることができる。
◇セカンドハウス
江戸時代初期、当地の畑の台帳に「別当屋敷」という地名が見える。これは、志々伎山の政務一切を取り仕切る「別当職」であった円満寺の別院があったことを物語る。また、「梅屋敷」という所の呼び名も残る。これは、平戸藩第五代藩主であった松浦雄香の居宅があった故地に第十代藩主の松浦観中が梅の木々などをもって別荘地を造営したためそのように称されている。
松浦雄香はこの地を「春ヶ谷津」と称した。この呼び名は春のように温かい陽射しを得られる穏やかな場所を想起させるに十分である。「谷津」とは東日本で一般に使われる谷あいの湿地を指す言葉であるが、当地一円も豊富な水に恵まれ川をはじめ多くの湧水を目にすることができる。
日当たりがよく、水に恵まれた明の川内は古くから海辺のヴィラとして名を馳せており、また斜面を利用した棚田は今もなお海とのコントラストをもって非常に美しく光に映えている。
シリーズ1-第9回-「紺屋町」
染物を洗った鏡川の流れ
◇「染物屋」
「サムライ・ブルー」とはサッカー日本代表のチームカラーを表した言葉である。「ジャパン・ブルー」とは明治期に日本を訪れた英国人が、町の至る所が藍染で彩られているのを見て称賛した言葉である。古来から現在に至るまで日本は青色に満ちた国である。
藍はどんな布地にもよく染まるが、殊に使用頻度の高い綿との相性は抜群であるため幅広く普及した。この藍染専門職は「紺屋」と呼びならわされ、江戸期には藍染に限らず染物屋そのものの代名詞となった。
当町にも江戸期には凡そ30軒余りの染物屋が存在した。職人町同様、職能名が所の呼び名とされた事例である。この場所に染物師が集住した所以は、鏡川河畔という立地が染物を洗うのに適していたためである。「紺」に因む藍染師こそ少なかったが、暖簾や幟を染め付ける「印染職人」が防染糊を洗い落とすために川を堰き止め、染め上げた布地を流れに棚引かせたという。
往時、この川の流れはさまざまな色に鮮やかに彩られたことであろう。
◇水とともに
鏡川を堰き止め多くの水量を確保するということは、また別の役割も想起させる。
当町のように密集した町屋は火に弱い。『寛政七年町方仕置帳』には「鏡川(中略)水流夏冬之無差別、水をせき留置候」とある。実際に、防火のための用水としても鏡川は常に堰き止められていたことが確認できる。
明治期に至り多くの染物屋が廃業し、現在は2軒を残すのみとなった。今となっては、川での洗いも防火の堰もその姿を見ることは叶わない。ただ、変わらぬ川のせせらぎのみが、私たちを優しく往時へといざなってくれる。
シリーズ1-第10回-「大久保町」
昭和24年5月30日の除幕式
◇観光事業
昭和24年5月31日、長崎日日新聞の紙面は平戸郊外のある盛大な行事を次のように報じた。
「祈りと感激の中に 浮び上る胸像」。
日本に初めてキリスト教をもたらした聖フランシスコ・ザビエルは、1550年、平戸で教えを宣べ伝えた。この聖フランシスコ・ザビエル平戸来訪400年を記念する事業は、単なる宗教的行事にとどまらず当時の平戸町長、平戸商工会長が臨席する、町をあげての一大イベントであった。
一方で、平戸では依然としてカトリック信徒への偏見が根強く、太平洋戦争に至ると敵国のスパイとみなされるなど困難な状況が続いていた。この中で、信仰を観光事業とリンクさせ聖フランシスコ・ザビエルの胸像を製作し、これを成功裏に終わらせた立役者がいた。当時の平戸観光協会長・森永俊二郎氏である。氏は信徒であることを公言し、医師として町民のみならず近隣の多くの病める人を癒した。これが万事ではないものの、徐々に信徒が受ける眼差しは温かいものへと変わっていったと言われている。千数百名が見守る中で、胸像除幕を務めた16歳の少女が氏の愛娘であったことは雄弁にこのことを裏打ちするものである。
◇遠く地の果てまでも
現在、大久保町「遠見」にあるフランシスコ・ザビエル記念碑はまさに件のものである。所の呼び名は偽らざる土地の個性であり、「遠見」とはその名の通り遠く見晴らせるという意味がある。除幕の日、信徒たちは遠くまで広がるここからの眺めに、自分たちのこれからの果てない可能性を思い重ねたことであろう。
「歴史とロマンの島」を標榜する平戸にとって観光とカトリック教会は最早切り離すことができないものとなっている。 その重要な契機となった聖人の碑は、今もこの地から遠く未来を見つめている。
シリーズ1-第11回-「木引田町」
てんじんさんの常夜灯
◇てんじんさん
8月、夏の終わりを告げる木引田町天満宮の「天満宮祭典」は、祭神・菅原道真の月命日である25日に執り行われる。菅原道真は寒さに耐え清い香りを発する梅をこよなく愛した。そのため社殿は瓦に至るまで「梅紋」で溢れている。そもそも、この地は「天満町」、「天神町」などと呼ばれた。天満も天神も、菅原道真が死後に送られた神号の「天満大自在天神」の略称である。
木引田町は藩政期、この「天神町」に加え「吉野町」、「善積町」の3町で構成されていた。今も天満宮を「てんじんさん」と呼び、「天神橋」など過ぎし日の所の名を目にすることができる。
◇常夜灯
「てんじんさん」には、ひときわ目を引く大きな石灯篭がある。地元の方は「常夜灯」と呼んでおり、付近を航行する船の安全を守るために夜通しここに火が灯されたと言う。正確な時期は不明であるが少なくとも、現在の新町付近まで船が着いていた時代のことであろう。
ここからは遠く北の広瀬灯台から南の職人町一帯まで見晴らすことができる。 広瀬灯台の手前にある「常灯ノ鼻」は寛永20年(1643年)、船見番所とともに「常夜灯」が設置された所の呼び名である。
職人町が祀る琴平神社境内にも「常夜灯」が残る。「常灯ノ鼻」が平戸湊の入り口ならば、「てんじんさま」は湊で最も狭くなる中間点、湊最奥の琴平神社の灯はその終点と、点々と続く灯はまるで空港へ着陸する飛行機の誘導灯のようだ。
「常夜灯」と一緒に平戸の海と向かい合う。今、交通の主力は車となったが、当時どれほど多くの船がこの界隈を賑わせたものか。風とともに流れ来る華やかな祭の太鼓と笛の音は、一瞬の内に往時へ誘ってくれるかのようである。
シリーズ1-第12回-「築地町」
築地町の龍(ジャ)踊り
◇幸橋
「幸橋の影清く、緑も深し城の跡」
七五調の懐かしい響き。平戸小学校校歌冒頭は「幸橋」にフォーカスされる。この橋は寛文9年(1699年)に架橋され、もとは板橋であった。当時、平戸は城再建の機運が高まる時期であり、新城と町屋をつなぐ橋に希望を込め「幸」という字が充てられていることはなお感慨深い。
この橋より上流は未だ海の中であり、時が経るにつれ土砂の流入から干潟となっていった。藩は町屋の手狭を解消するためこの干潟の埋め立てを計画、文化元年(1804年)に5年の歳月を費やし、この干潟は埋め立てられた。埋め立てには、大膳原や新馬場の土を用いたとされる。その際、幕府へ提出した申請書には「幸橋内潟御願書」とあるため、この地は「幸橋内潟」という所の呼び名であったことが伺える。従って、出来上がった埋め立て地の正式な呼称は「幸町」となり、また埋め立て地の意味である「築地」とも呼ばれるようになる。その後、明治に至り、この「築地町」が正式な町名として採択された。
◇龍踊り
埋め立て地の北端には金刀比羅神社が据えられた。この神は元来、漁や海上交通の守り神として信仰されるもので、インドの龍に似た神がルーツであるとされる。水難を避けるために祀られたこの龍神は明治期に別の形で具現化することになる。
龍は水を司る神として崇敬され、雨乞ひいては五穀豊穣の祈願を以て中国とその影響を受けた長崎で踊られた。広く世に知れた「龍踊り」である。海の上に建った町、築地においても平戸の総鎮守たる亀岡神社、秋の御神幸祭で「龍踊り」を奉納する。当町の成り立ちを思えば、これは必然であったように思う。
秋の清々しい空に響くドラと太鼓の音は、まさに龍の咆哮のよう。築地の龍は元来の町名の如く人々の幸せを願って平戸の町々を巡っている。
シリーズ1-第13回-「宮の町」
宮の渡頭
◇平戸港市
ポルトガル語で市場のことを「mercado」と呼ぶ。聞き馴染みのある当町のマーケットと同じ呼び名だ。このマーケットの前に一本の道が海に向かってのびている。この道には呼び名がある。「宮の渡頭」、これは神社前の埠頭という意味である。ここは、本来道ではなく実は海にのびた波止場であり、後にその周辺が埋め立てられ現在の姿になった。長年住み慣れた人間にとって想像し難いものだ。
この周辺は「宮の前」とも呼ばれる。「神社の前」という意味であるが、信心の象徴である神社と物資を運ぶ埠頭の間にはいつの時代も人と物とが行き交う。中世、ポルトガル船が平戸に入港して以来、この「宮の前」が平戸城下の中で最も盛況を極めた「市」であったことは間違いない。狭い通りに様々な国の人々と物がひしめき合い喧噪と熱気が辺りを包む。西の都と評されたかつての平戸港市の中心はここなのだ。
◇宮とは
「七郎さん」。平戸南部地区で、使いに行ったまま、なかなか帰って来ない人のことを指す言葉である。この由来は、志々伎山の祭神である志自岐大菩薩が、配下の「七郎権現」を平戸へ遣わしたが、そのまま平戸に残り未だに帰って来ない伝承による。この「七郎権現」が鎮座した所が「七郎宮」である。宮の町は藩政期、「宮之町」、「本町」、「安富町」で構成されており、「宮之町」に「七郎宮」があったことが町名の始まりであろう。この宮は、明治13年(1880年)に亀岡神社へ合祀されるまで当町のシンボルとして尊崇された。
「宮の前」が最も華やかなになるのは9月14日から7日間行われる秋の祭礼であった。神輿が市中を巡り、流鏑馬が奉納された。騎士が町内を一直線に走り幸橋前まで3個の的を射抜く姿に観衆は歓呼の声を上げた。
「七郎権現」は海の神であり、また戦の神でもある。渚を駆け抜け、勇壮に矢を射る騎士の姿は志々伎から平戸へ長い旅をしている祭神そのもののようだ。
シリーズ1-第14回-「浦の町」
湾曲した浦の頂点付近
◇浦の賑わい
「津々浦々」という言葉がある。日本のあまねく地のことで、それは隈なく全てにおよぶ。どんなに入り組んだ隅の地でさえも。すなわち、「浦」とはそのような場所の意味である。一般に「浦」は、陸地が湾曲して海などが陸地の中に入り込んでいる地形とされる。そこにできた町が「浦の町」である。
藩政期、当町は「延命町」、「福寿町」の二町で構成されていた。当町は、その地形的な特徴上、船の出入りが頻繁なため古くは貿易商人の屋敷や蔵が多くを占めた。明治期までに繁華街は宮の町、木引田町へ引き継がれるが、そのルーツは、まがいなく当地である。
当町の賑わいは幼い頃に見た「延命茶市」が瞼に浮かぶ。新学期を迎えた頃、たくさんの出店がびっしりと軒を連ねる様は子供にとって、まさに魅惑のるつぼであった。
◇志自岐谷
放物線を描くように湾曲した浦の頂点には何があるのか。そこは旧保健所跡地の石垣が見える。藩政期、ここには旧平戸藩主の一門である松浦氏の邸宅があった。この家は土地の名を冠し「志自岐谷松浦家」と呼ばれる。
「志自岐谷」とは当時、志々伎山を管理した円満寺の下屋敷等がこの谷に存したことに由来する所の名前である。かつて、円満寺の僧侶は毎年、正月、五月、九月に祈祷を行うため野子から平戸城へ向かったが、下屋敷はその際の別邸であった。
「志自岐谷松浦家」は初代の男子誕生に霊験があった「志自岐谷天満天神」を尊崇した。社を修理し社地を広げ町人も自由に参拝できるよう道を造った。その後、明治25年に社地を移し浦の町天満宮として現在に至っている。
「延命茶市」は、この浦の町天満宮の例大祭に合わせ行われていた。あの頃の賑わいは、かつて津々浦々にまで聞こえた中世貿易都市平戸の姿を彷彿とさせるものであったことだろう。
シリーズ1-第15回-「魚の棚町」
エビス顔の祭神と「ゴシンタイ」
◇魚屋
「塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店」
俳人・松尾芭蕉の句。冬の時化で新鮮な魚が入らず鯛の干物がわずかに店先に並ぶ。干乾びて異様に目に付く鯛の歯ぐきが、一層冬の寒さを際立たせるという内容であろうか。
この「魚の店」は「ウオノタナ」と読む。なぜ、店を「タナ」と読むのか。「店」とは元来、「見せ棚」の略であるとされる。店舗の前で商品を板に乗せ道行く人の目に留めさせて購入してもらう。この商品を載せる横に長い板を「棚」と呼び、見せる棚で「見せ棚」、さらに店のことを「オタナ」などと呼ぶようになった。
当町は築地町埋め立て以前は、町名が示すよう海に面し、芭蕉の句同様、魚屋が軒を連ねる町であった。
◇エビス
魚の棚町は藩政期、「恵比須町」と「大黒町」に分かれていた。恵比須とは、「海の向こうからやってくるもの」という意味の言葉であった。海からやって来る恵み、それは豊かな海産物。従って、「エビス様」とは漁の神として知られ、その姿は釣り竿や魚を持った満面の笑みが特徴的だ。
「エビス様」は七福神の一員として、縁起物でよく目にする。「大黒町」の「大黒」も七福神「ダイコク様」の意味であり、米俵に乗り福袋と打ち出の小槌を持った姿が知られる。「ダイコク様」は五穀豊穣、すなわち農業の神である。旧藩時代、「大黒町」には米屋がいくつもあった。海の幸と、山の幸の集まる町、すなわち、城下の台所がここにあったのだ。
「恵比須町」には「エビス」という所の名がある。ここには恵比須神社が鎮座しており、「ゴシンタイ」、「ゴシンセキ」と呼ばれる石が祀られている。この石は毎年、海より迎えられそしてまた海に返される。5月、この「ゴシンタイ」が迎えられ
ると神社の大祭が始まる。
海からやって来る恵み、それが「エビス」である。1年の幸せを願い、その思いを石にこめ、今年も賑やかな祭囃子は奏でられるだろう。
シリーズ1-第16回(最終回)-「崎方町」
沖合の「イカヅチ」
◇岬にあるもの
16歳、猶興館の文化祭でミニ水族館をつくるという企画を仲間が提案した。僕は、子供の頃から泳ぎ親しんだ「イカヅチ」近くで海の生き物を拝借しようと連れ立った。放課後、夏の終わりは日が傾くのも早い。あっという間に闇が辺りを包む。そこから見上げた先には二つの明かりが見える。丸く満ちた月と、岬に灯る常夜灯。
この岬にのびる町屋が崎方町の景色だ。1584年に記された『御参宮人帳』に「さきの町」とあることから、平戸港市の末端にあるこの「常灯ノ鼻」沿いに町が形成されて行ったことが読み取れる。藩政期、当町は商家が軒を連ね「常盤町」、「祝町」、「大福町」の三つで形成されていた。いずれも縁起を担ぐ商人らしい町の名付けである。
◇雷~イカヅチ~
「イカヅチ」とは、小川の波止沖にある岩礁で子供の頃はよくその手前で泳いだものだ。「イカヅチ」は雷と同じく、その荒々しく厳めしい岩の形状から名付けられた所の名であろう。
同じく「雷」と名の付く所は、ここから見える平戸瀬戸で別名「雷ヶ瀬戸」とも呼ばれた。猶興館校歌にある「雷峡とどろく松浦の海に白亜の学び舎わが母校」とは、まさしくこの海における潮汐の劇奔を謳ったものである。
激しさが強調されがちな平戸瀬戸ではあるが、当町と縁の深い作詞家・藤浦洸氏は『海の中の故郷』で「瀬戸がたるむ」、すなわち、潮の流れの止まったこの海をこう表現している。
「古い港の月の夜は 乳色瑠璃色 がらす絵ばい」
額縁に切り取られたかのような、美しい描写。この景色もまた大切な平戸の宝に違いない。
平戸瀬戸の怒涛を照らす光は岬に灯る。16歳、これから向かう世界はいったい何が待ち構えているのか。荒れ狂う闇の海原であったとしても、優しく光を映す魅惑の海原であったとしても、希望の灯がある限り、きっと迷わずに進むことができる。
とどまることのない時の流れの中で、岬の灯は今も変わらず遠く闇を照らし続けている。