2-6 本牧の偉人伝

2-6 本牧の偉人伝


 本牧ゆかりの偉人としてまず挙げられるのは、本牧の名勝である三溪園を造った実業家、原富太郎が挙げられます。富太郎は、経営の主軸を生糸売込商から金融・不動産業へとシフトしていきました。また、様々な貴重な建築物を自宅に移築しただけでなく、優れた美術工芸品を守ろうと私財を投じて文化財保護を行っていました。

 小野光景は横浜の五大生糸売込商と呼ばれ、横浜の都市基盤整備を進め、横浜の発展に大きく貢献した1人です。横浜正金銀行の設立、横浜貿易新報(現神奈川新聞)の創刊など多岐にわたって活躍した方です。

 大谷嘉兵衛は日本茶の普及と品質向上に尽力し、現在、私たちが日常飲んでいる緑茶の礎を築き「茶聖」と呼ばれた人です。嘉兵衛は、日本の茶業の発展に尽くしただけでなく、横浜商業会議所(現:商工会議所)会頭を17年以上勤め、横浜の政財界の中枢を支えました。横浜の復興・発展のために多大な貢献をしました。

 下村観山は、原富太郎の支援を受け『弱法師(よろぼし)』など数々の作品を描きました。

 谷崎潤一郎は、大正時代数年間を本牧や山手で過ごしていました。本牧での暮らしは短かったようですが、本牧での暮らしがその後の谷崎作品に大きく影響を与えました。

 山本周五郎は戦後中区本牧元町に移住し、間門に部屋を借り「赤ひげ診療譚」など数々の作品を執筆しました。

 中島敦は横浜高等女学校(現横浜学園高等学校)で国語と英語の教師をしていました。彼は中区本郷町に転居し、「山月記」などの作品を発表しています。


原富太郎氏

小野光景氏