ばけばけに思うこと
小さい頃、イタズラをしたり言うことを聞かなかったりすると、祖父母によく「モウコが来るぞ!」と脅されたものだ。その言葉を耳にするだけで、「モウコとはどんなお化けなのだろう」と想像を巡らせ、怖くてたまらなかった記憶がある。地方によっては「モッコ」「モコ」とも呼ばれ、子どもはその名を聞くだけで泣き止んだり、悪さをやめたりしたという。実際、青森県には「モッコ」が登場する子守唄も伝わっているようだ。
この「モウコ」の正体については、いくつかの説が語られている。最も広く知られているのが、「蒙古(もうこ)」に由来するという説である。鎌倉時代に二度日本へ侵攻した元(モンゴル)の軍勢を「蒙古軍」と呼んだことから、その恐怖が「泣く子を攫う山の化け物」のような存在として語り継がれ、「モッコ」や「モウコ」になったのではないか、というものだ。私も大人になってからこの説を知ったが、一方では「モウコ」という言葉自体には本来の意味はなく、ただ「音の怖さ」を意識した擬音語に近いという説もある。つまり「モウコ」は、その響きだけで子どもを戒めるために生まれた“しつけ言葉”だったというわけだ。小生も、どちらかといえばこの響きの怖さに怯えたタイプである。
ほかにも山の霊的存在説、アイヌ語・北方語源説など諸説あるが、いずれにしても、この地方には「ナモミ」のように、地域ごとに受け継がれてきた教育的な戒めの風習があり、「モウコ」と呼ばれる“ばけばけ”の存在も、その一つだったのだろう。正体は分からないままでも、「地域に残る恐怖と戒め」の象徴として、ふと「モウコが来るぞ……」という言葉を耳にすれば、昔むかしの記憶が今にそっと語りかけてくるのかもしれない。
2026年は馬年
岩手は古くから馬産地として知られてきた。しかし、時代の移り変わりとともに牛が主流となり、中世には馬産地でもあった宮古地方でも、今や馬を飼育する農家の姿は見られなくなった。
馬の面影をとどめるものとして、南部曲がり屋や絵馬、そしてチャグチャグ馬子の行事などが挙げられる。南部曲がり屋は、宮古ではほとんど現存せず、県内でも資料館などでその姿を見る程度となっている。日常の風景の中からは、すでに遠い存在だ。一方、絵馬は今も藤畑の駒形神社などで目にすることができる。絵馬とは、馬の絵を描いた板を祈願、あるいは願いがかなった感謝の印として神社に奉納するものだ。かつては逆に、神社から授けられた馬の絵を馬屋に祀る習わしもあったという。馬は古くから神の乗り物として神聖視され、国家の安泰や雨乞いといった重要な祈願の際には、天皇や有力者が生きた馬を神社に献上してきた。祭りや祈願の場で神の降臨を願い、生馬を奉納する風習もあったと伝えられている。しかし、愛馬を手放すことを惜しみ、やがて生きた馬の代わりに板に描いた馬を奉納するようになった。それが絵馬の始まりとされている。近年、正月に八幡宮などの神社を訪れると、本殿脇には受験生たちの合格祈願の絵馬がずらりと吊るされている。そこには矢を射る流鏑馬の絵が描かれ、「当たり矢」にあやかる意味が込められている。自分の名前と志望校を書き入れ、合格を願うこの風習は、「あたり絵馬」と呼ばれているそうだ。
1月から2月にかけては受験シーズン。絵馬に願いを込めることは、ただ神に祈る行為にとどまらない。それは、これまで積み重ねてきた努力を確かめ、これから先も歩み続けると自分自身に誓う、静かな決意表明でもある。神社の境内に吊るされた絵馬が、冬の風に触れてかすかに鳴る。その音に耳を澄ませながら、人々の願いと想いが重なり合い、やがて春へと続く道をそっと照らしていくように感じられる。
2026年年頭にあたり
新年明けましておめでとうございます。さて、2026年の幕開けとなりました。新たな年の宮古の展望を、試みにAIに聞いてみました。「前提として人口減少は止まらない。一時的に人と金が流れ込む局所的なチャンスは増える。横ばいから緩やかな縮小の中に、点で明るさがある年になる」――そんな答えが返ってきた。
日本経済全体を見れば株価は上昇している。しかし、地方の宮古で暮らす私たちの足元に、その実感はほとんど無い。水揚げは減り、燃料代や物価は上がり、賃金は横ばいのまま。水産業をはじめ、町を支えてきた産業が力を失いつつある現実を、誰もが肌で感じている。そんな中、今年も外国クルーズ船が、昨年以上に宮古港へ寄港する予定である。人が増えれば町が潤うのでは、という期待がある一方で、観光だけで地域が一変するほど、現実はそう簡単ではない。だからこそ、多くの人々の努力によって、地域経済に少しでも潤いをもたらす仕掛けが、これまで以上に求められてきている。何の準備もなければ、にぎわいは一瞬で消えてしまう。今年もインバウンドや国内観光客が宮古を訪れてくれることだろう。多くの人を迎える意味は、決して小さくない。宮古には、三陸の海とともに生きてきた仕事があり、震災を乗り越えてきた記憶があり、観光地化されすぎていない日常の暮らしがある。それらを飾らず、正直に伝えることこそが、町の価値につながっていくはずである。
2026年に必要なのは、大きな成長を夢見ることではなく、小さくても確かな報いを積み重ねることではないだろうか。地元の店で少し売り上げが立つこと。話を聞いた人が、宮古の魚や物産を選んでくれること。「また来たい」と思う人が一人増えること。その一つ一つが、次につながっていく。足元を見つめながら、あきらめずに。宮古は今、自分たちの町をどう伝え、どう守り、どんな未来へつないでいくのか。その行方に、静かに期待したいと思う。
秋の風景
「今はもう秋 誰もいない海」――そんな歌の一節がふと浮かぶ。
かつてはこの言葉の通り、夏の喧騒が過ぎた海辺に、静かな秋風が吹き抜けていた。空は澄み、波の音が遠くに消えていく。その静けさの中に、確かに「秋」という季節の気配があった。しかし、今やどうだろうか、暑かった夏が一気に過ぎ去ったと思ったら、いきなりのこの寒さ。秋を感じる季節が無いに等しく感じる。
歌人・石川啄木は詠んでいる。「学校の裏の図書庫の秋の草 黄なる花咲きし 今も名知らず」。この歌はかつて山口地区にあった「寄生木記念館」の建物が、啄木が通った中学校の図書庫であった。啄木はそこに寝転び、この歌を詠んだであろう。何気ない日常の片隅にも、秋はそっと息づいていた。名も知らぬ花の色に心をとめる――啄木が眺めたそんな秋は、小生も感じることもなく、いつのまにか遠ざかってしまったように思う。季節は駆け足で過ぎ去り、心の中に残るのは、ほんのわずかな風の記憶だけ。
それでも、港にはいま多くのクルーズ船が姿を見せている。真っ白な船体が秋の光を受けてきらめき、岸壁には笑顔があふれる。遠くの海からやってきた旅人と、それを迎える人びと。その賑わいの中に、過ぎゆく季節のぬくもりが映っている。静けさと躍動が交わる港の風景こそ、残り少ない秋の情緒をいまに伝えるものなのかもしれない。
SDGsに学ぶ
SDGsを学ぶ研修会に参加した。企業の社員や行政職員、そして議員など30名が参加。
研修会ではカードゲームを通じた地方創生に資するSDGsのほか、地方自治体の役割やビジネスとの関係を学んだ。すべてを理解したり、ゲームのシステムを理解するには時間が足りなかったが、その基礎となる考え方を改めて学ぶことができた。
今や環境や貧困、教育などから「誰一人取り残さない」という理念であるSDGsが生活の中に取り込まれていく時代にもなった。地球規模の課題から身近な地域や社会、企業を持続可能なものにするための目標が掲げられ、それに向けての様々な行動が求められている。SDGsは国連が定めた世界共通の開発目標ではあることから、自分の生活とは遠く離れた目標に受け取られがちでもあるが、その内容は我々の身近な生活と関連するものが多くある。食品ロス、ゴミ処理、海ごみやプラスチックなどがそれであり、特にも2050年にはプラスチックをはじめとする海洋ごみの量が、魚の量より多くなるともいわれている。このような背景から持続可能な社会をつくるために、私たちはSDGsの達成に向けて何ができるのか。まず言えることはこれらの課題を「自分ごと」として捉えることであろう。自分たちの身近な生活を見直す初めの一歩が「持続可能なまち」を創っていくものであろう。
いいイロプロモーションで街のイメージアップ
「浄土ヶ浜いい色プロモーション2021」の応募が100通を超えたという。地域の魅力を発信するため新たなまちのイメージとしての色を作り、シティプロモーションに活用していこうというもので、市内や全国からの応募があったという。これから選定委員会などで絞り込み、11月に市民総選挙で浄土ヶ浜の地域色を決定するということだが、やはり地域振興につなげるためにはイメージとともに、そこに文化や歴史、物語が加わることでその価値を高めていくものでなければならないだろう。現在、岩手には12色の地域色があり、それぞれが地域ブランドとしてその魅力を発信していくのだという。本市では浄土ヶ浜の色を決定した後、新しい観光船への使用、ロゴマーク、地場産品への活用へと幅広く展開を考えているようだ。個人的に地域色を思い浮かべる時、海との関わりが多いことからブルー系をイメージするが、四季によってその色の表情は全く違うものだったり、あるいは時間帯によっても変化する。「マジックアワー」という言葉がある。映画の作品もある撮影用語だが、日没後の「太陽は沈み切っていながら、まだ辺りが残光に照らされているほんのわずかな、しかし最も美しい時間帯」のことを言う。個人的にこの時間帯の色も大好きである。特にも夏に海の上から早池峰山を眺めると、淡い金色に輝く背景に山のシルエットが浮かび上がる風景は至福な時間でもある。改めてそんな色のことを考える機会にもなった今回の「いいイロプロモーション」。宮古といえばどんな色か、皆さんもイメージしてみてはいかがか。
災害の記憶を伝える
秋は台風や洪水などの災害シーズンでもある。かつてのカスリン、アイオン台風、そして近年の台風10号(2016年)、19号(2019年)は大きな被害をこの地域にもたらしている。近年は地球温暖化のせいでもあるのか豪雨が頻繁に発生し、各地で大きな被害が発生している。災害はもちろんこれだけではない。この地域においては地震津波の災害は歴史上において宿命的なものであるほか、火災や戦災、そして陸海空の事故など過去には実に様々な災害が起こっている。幾度となく襲われた災害の記憶の中で、2011年3月の東日本大震災は「歴史に学べ」という大きな教訓を残した。これを機に防災については、過去から学ぶという考え方も広まっている。過去、この地域で起こった様々な災害は津波、台風、洪水、火災、戦争による空襲、そして遭難や航空機事故などがある。もちろんこれ以外にも多くの災害の記録がある。これらはともすれば時間の経過とともに風化し忘れ去られがちとなり、後世に語り継ぐ機会も少なくなっているであろう。災害の記憶を伝えていくことは、来るべき災害から命を守り、防災意識を高めるためにとても重要である。過去の災害を知りそこから学び、これからの災害にどう備えるのか。その地域や土地が過去に経験した災害の記録と記憶は、後の防災や減災につながるものになるものだろう。いずれ過去の災害を忘れて、想定外の大災害にしないためにも過去に学びたいものである。
山笑うー。
山笑う。とは俳句の春の季語で、まさしくそんな春の山が明るい日々が続いた5月のある日、閉伊川支流の小国川流域でアユの放流が始まったので足を伸ばした。汗ばむような陽気だが川を渡る風と清流の音が心地良い。そんな清流に住む川魚は人々の詩情をそそり、閉伊川においても様々な歌が詠まれ、いろんな作品が多く残されている。宮古の歌人、故駒井雅三は「若鮎ののぼる季なり瀬は速に 淙々として川波白し」と詠んだ。季節の情景が浮かび上がるとともに、風の匂いも感じられる。高原や渓谷の自然の風の香りほど私たちの心を和ませてくれるものはない。アユたちが放流された川の水はキラキラと光を反射していた。新緑の上を駆け抜け、水面を渡る風には初夏の香りもほのかに感じさせてくれた。さて、6月に入ると梅雨の季節にもなる。梅雨は梅雨でまた詩情をそそる。昭和の歌謡曲ではよく「雨」が降る。そしてよく「ぬれる」のである。そんな雨を歌ったものが多かった。一方で「しっぽりぬれる」という言葉もある。これは男女間のきびの切なさが込められているものでもあり、雨にぬれるというのもそのきびの延長にあるものであろう。西日本ではもう梅雨の季節に入った。今年の当地はどんな梅雨になるのか。長いのか、空梅雨になるのか。ともあれ雨は万象をぬらすことであり、昭和の雨の歌を思いこしながら季節の変わり目を楽しみたいものだ。
失われた校歌
(その1)宮古市の北西部に位置する田代地区。東西に流れる田代川とその支流に点在する集落のあつまりで、西に亀岳山(1,112m)、峠の神山(1,229m)がそびえ、山と山にはさまれた細長い盆地を形成している。この地に明治9年に創立した亀岳小学校(前身は田代小学校)が2021年3月で145年の歴史に幕を閉じた。これでまた一つ学校が消え、千人余の同窓生が歌い継いできた校歌も消える。ここの校歌は駒井雅三によるものだった。昭和37年に制定されたもので、同小中学校の校歌として歌われていた。詩の内容は1番が、亀岳小中学校が自然の恵まれた環境の中にあることをあらわし、2番ではその昔、この地域の産業の基盤となっていた豊富な地下資源や森林資源、そして信仰の山である亀ヶ岳の様子を誇らしく、3番では活気ある宮古と子どもたちのことについてのべ、ゆったりと堂々とした曲調で歌われている。学校の統廃合と共に消えゆく校歌。それぞれの校歌にはその土地の歴史や文化、産業、そして教訓などが記され歌い継がれてきた。震災後、校歌で注目されたのが田老第一中学校のもので、「防浪堤を仰ぎ見よ〜」の歌詞の一節が、防災のまちとしての進むべき道が示されているとのことだった。震災を教訓にこの校歌そのものが生徒たちの精神的な「防波堤」になっているようにも思える校歌でもある。これも駒井雅三の作詞である。いずれにしても校歌は自分が通っていた学校の象徴の一つでもあり、自分自身の青春の証でもある。統廃合で失われていく校歌だが、これらを復活させ音源として保存し歴史の証として残していくことも望まれる。
(その2)小中学校、あるいは高校の校歌には、地域の山河や海などの自然景観、地元の歴史や文化の誇り、そして産業などを歌い上げている内容のもので作られている。ふるさとのまちを象徴する景観資源の価値を、在校生たちに認識してもらいながら地域愛に結びつけてほしい願いが込められているものだろう。しかし、閉校して失われた校歌に限らず、その歌詞にある風景や社会事象が時代とともに大きく変化していることにも気づく。校舎の移転や在校生の減少、産業の変化などにより、校歌の内容と学校の窓から見える実際の景観とが著しく異なっていることもある。在校生の数を高らかに歌い上げているものもあるが、今やその数も遠い昔。それでも校歌が描写してきたその地域の文化や歩み、景観は大切にしたいものだ。昔には戻れないが、大切なことはこれらの歌詞の中の文脈を読み取り、その地域の歩んできた価値を知ることであろう。早池峰、閉伊川、太平洋とこの地域に生まれ育った人々が自然と親しみながら歌い繋いできた校歌。そしてこれからの子どもたちが校歌に残されている原風景を、時代とともにどのように感じとっていくのか興味深いところでもある。