自分でも驚くのだが、幼いころ歷史的假名遣に興味を抱いて四十年近く經ってしまった。この閒さまざまな知己を得た事に先づ以て感謝したい。特に國語問題協議會や文字文化協會、また荒魂之會など多年の恩誼は忘れられない。
興味のない方には信じられないかもしれないが、歷史的假名遣や正體漢字の復活を目指す「國語國字運動」は戰後70年を經た現在も脈脈と續いてゐる。それは例へば尺貫法や舊曆の再評價のやうなもので、贊否はともかくとして「現代社會の制度設計」として耐へ得るかどうかが決定的に重要、つまりは「使へてなんぼ」なのである。 これは「古典を古典として樂しむ」とか「過去の實態を客觀的に硏究する」態度とはおよそ異る志向である。「日本人なら着物で生活しよう」に近い感覺なのかもしれない。「古代服飾史」よりも「仕立てと着付」なのである。
しかし歷史的假名遣は公的な立場を逐はれてゐる事もあり、實務的な經驗がやせ細って久しい。たとへば「ゆう(勇)」と「いう(友)」でなぜ書き方が異るのか、具體的な解說をこれまで見た事がない。假名遣を理解する上でかなり重要なポイントであると個人的には思ふのであるが、こんな些細な差が氣になる人は今どきゐないのだらう。 悔しい事ではあるが「傳統を大切にしよう」といった文化論の方が壓倒的に樂しい。ただし理念先行型は感情の吐露に終始する例が多く、どうも感心しない。人によっては本格的な國語學を志すかもしれない。前者と違って大いに意義があるものの、それが歷史的假名遣の復活と何の關係もない事に氣づいていづれ愕然とする筈である。
私は同好の士に 「先づは簡單なものでよいから、自分なりの辭書を編んでみませんか」 と語りかける事にしてゐる。辭書は世界の縮圖のやうなもので、思はぬ場面で都合の惡い例語が現れる。おのづと歷史的假名遣の現代的意義は何だらうと考へ込むやうになる。非常に效率の惡い方法であるが、しかし理念の奴隸から逃れる最も效率のよい方法であらうと思ふ。 先の大戰の敗因は目的の缺如にありと聞く。自分が何を目指してゐるのか常に自省してゆかう。