假名遣とは

そもそも假名遣とは何なのだらう。諸書を參照すると槪ね以下の如くである。

同音の假名を語によって使ひ分ける事、またその規則


ところがまた、「廣義では、假名の使ひ方全般を指す」ともある。ただし實際にはさういふ場面はほとんどないのではないか。たとへば從前より

「耐ヘ難キヲ耐ヘ、忍ヒ難キヲ忍ヒ(終戰の詔書)」

のやうに正式の文章は濁點や小書き假名「ゃゅょっ」を使はぬものだといふ認識があるが、通常これを「假名遣の問題」と捉へる事はない。あるいはまた「一ヶ所」「八ッ場(やんば)ダム」などの表記も同樣である。やはり假名遣といへば

「思ふ・思う」

など特定の假名、特定の言葉に限るのである。

よく引かれる例だが、櫻は「さくら」以外の書き方は考へられないが、紅葉は「もみぢ・もみじ」兩方の可能性があって紛はしい。さういった自明ならざる言葉を列擧して注意を喚起し、また規則化したのが假名遣の始まりである。つまり「他人と同じやうに書く」努力を通じて表記を安定させてゐるのである。「他人」といっても元は古籍を指すのが常識であったところ、現代人・現代文に限定してしまったのが現代假名遣であるとも言へる。

●表記の安定

表記を安定させる目的はひとへに讀み誤りを防ぐ點にある。「出づ・出ず」はそれぞれ「出た・出ない」と正反對の意味になる。島崎藤村作「椰子の實」の一節が「八重の汐々(しほじほ)」か、あるいは「八重の潮路(しほぢ)を」なのか論爭になったとも聞く。しかしながら假名遣が語の識別上で重要な役割を演じる場面はさう多くはない。漢字を倂用するからである。

たとへば「あつい」には「熱・暑・厚・篤」などの意味が異る別字があり、また熟語でも「市立・私立」など、同音の言葉の判別は多くを漢字に賴ってゐる。日本語は音韻が單純で同音語が非常に多いにもかかはらず、現代假名遣では讀みにくくて困る場面は滅多にない。「御自由に」と「五十二」を日常で閒違へる事はない。「吾妻さん」を「あずま」と書くと違和感があるが、「東さん」ならさほどでもない。我々は假名より先に漢字を讀み取ってゐるのである。漢字廢止が成功しなかった理由も此處にある。

英語にも昔から「綴字改良案」がいろいろあったが未だに實現してゐない。漢字に相當するものがないから、「發音どほり」に直すと卻って言葉の認識を妨げるのだらう。日本語でも假名文字專用であれば、今でも歷史的假名遣の必要性が高かったのではないかと思はれる。

●歷史的假名遣

さて「他人と同じやうに書く」ためには、何を參照すればよいかが最大の問題である。契沖の『和字正濫抄』の功績はこの原則を明らかにした事にある。歷史的假名遣の定義や解說には

・主として平安中期以前の典據に基いた假名遣

・萬葉假名にいろは假名をあてはめて解釋したもの

などといった解說が多い。昔の人が「もみぢ・もみじ」を閒違へなかったのは、「假名遣をきちんと守った」からではなく、「ぢ・じ」の發音が異ってゐたからである。江戶時代初期には全國的に同じ發音へと合流したといふから、それ以前の文獻を搜せばよいと推測ができる。また現代でも九州などの方言に「ぢ・じ」の區別が僅かに殘ってゐるので、これも參考になる。このやうな變遷は發音の種類によって大いに異り、すべての假名遣の根據が揃ふのが「平安中期以前」といふ事である。

ただしその「平安中期以前」には「ヤ行のエ」が存在したのはほぼ確實であるし、更に遡れば「上代特殊假名遣」といふ何らかの發音の區別があった事がわかってゐる。我々はたとへば「以呂波」を「いろは」に置き換へて疑はないが、果して萬葉假名の種類がいろは47字と同じであったかどうかはわからないのである。だから「萬葉假名にいろは假名をあてはめて解釋したもの」といふ解說は、歷史的假名遣が「平安中期以前」の實態を正しく反映したものではないといふ否定的な批判を言外に含んでゐるのである。

契沖や宣長以來の國語硏究を誇らしく思ひ、時には古典愛ゆゑ「古今を一貫する麗しき傳統」を感じる向きもあらう。しかし殘念ながら上述のとほり、さほど一貫してゐない事が硏究が進むほどにわかってきた。そもそも歷史的假名遣は單に現代社會のための表記法に過ぎないのだから、表記の安定が第一であって、文獻硏究の成果を正確かつ細かく反映させる必要はないのである。

時々「歷史的假名遣は古典のための假名遣」といった說明を見るが、たぶん「文語文」とした方が誤解を招かないだらう。たとへば「古典」が『源氏物語』を指すと假定しよう。平安時代に「歷史的假名遣」といふ規則は存在せず、發音に近い書き方をしたに過ぎない。敎科書などに揭載される文章は歷史的假名遣に合致しない部分に修正が施されてゐる可能性があるが、これは編輯方針に則って現代人が手を入れたのである。そもそも表記法はこれから書く文章にしか適用できない。もちろん歷史的假名遣の規則を認識しておくと古典文を讀む時にも迷ひがなくて便利には違ひない。また本來は口語文・文語文を問はず適用可能である事も強調しておきたい。

●現代假名遣

現代假名遣については各種の解說がある。多く「槪ね現代音韻に基く假名遣」といった說明がある。


明治以來、古用例の遵守を煩瑣に感じる聲はさまざまあった。いくつか改良案があったが、いづれも「耳で聽いたまま」つまり「假名遣といふ現象をなくさう」とする試みであった。だからこれを「發音式假名遣」などと稱するのは若干の矛盾を含み、また結局のところそれは完成しなかった。例へば「さういふ」を「そおゆう」、「往々」を「おおおお」と書くのは感覺としてやはり滑稽なのである。發音どほりならわかりやすいとは限らない。


恐らくは當初の熱い期待に反し、昭和21年吿示の現代假名遣は「發音どほり」ならざる使ひ分けをいくつか殘してゐるのは諸書に記載のとほりである。そしてこれは私自身の解釋であるのかもしれないが、わづかに殘った使ひ分け部分こそが眞の「現代假名遣」に相當し、その餘の說明は言はずもがなの付け足しである。


●原典尊重

ここでもう一つ、「原典尊重」あるいは「原文どほり」といふ考へ方も考慮に入れるべきだらう。假名遣が何らかの秩序を求めるのに對し、逆にさういった作爲を極力排除しようとする態度である。我々が敎科書や全集などで接する「古典」はしばしば歷史的假名遣に合ふやうに文章を修正してゐる。それを批判し、原典尊重以外は僞物であるとする主張もある。さうはいっても果してその原典が本物であるかどうか、また誰がさうだと判定し得るかわからない事もある。

近年は多樣化尊重の傾向ゆゑか、原文どほりをよしとする傾向にある。ただしあまり愼重になると、たとへば敎科書から有名な古典を引用する事すら、本當に古典の原文どほりかどうか躊躇せざるを得ないだらう。むやみに特定の方式こだはらず、たとへば現代假名遣の原文を引用する場合でも文章全體にあはせて歷史的假名遣で統一してよいではないかと柔軟に考へるべきだと思ふ。

ただしこれも場合によりけりで、時には原文どほりでないと價値がない事もある。野口英代の母の手紙は絕世の名文として知られるが、

おまイの。しせ(出世)にわ。みなたまけました。わたくしもよろこんでをりまする。

を歷史的假名遣または現代假名遣に改める氣にはならないだらう。要は見識次第なのである。

更に加へると、「歷史的假名遣の尊重」といふ言葉には二面性があるので注意を要する。

・ 過去の文獻をありのままに尊重する中で、歷史的假名遣も「かって存在した事のある規範」として客觀視する

・ 現在も有效な、社會的に認知された規範として尊重する

のいづれを示すのかによって、全く意味が異るからである。個人的な希望はもちろん後者である。

●表意派×表音派

假名遣や漢字など、國語國字問題の爭ひは明治以來の長きにわたる。そして表意主義と表音主義とは不俱戴天の仇のやうに論じる事が多い。なるほど思想としては相容れぬ面もあるのかもしれない。しかし實際の運用狀況に限っていへば、歷史的假名遣と現代假名遣との閒にさほどの差は見られないと個人的には感じる。過去を遡ればすべて秩序だつわけでもないし、現代の發音だけ觀察して單純に描寫できるわけでもない。

歷史的假名遣が古用例に從ふといっても、じつはあまり古用例に合致してゐるわけではない。現代假名遣が發音どほりであるといっても、さほど發音どほりではない。表記法の目的は表記の安定にあり、表意や表音はその手段に過ぎないから、別段これは咎めだてする必要もない。

ただしそれでは現實の運用狀況はどうなのか、案外この點は見過ごされてゐるやうに思ふ。以下は個人的な考へ方であって、特に參考文獻などは無い。それぞれの定義を、

歷史的假名遣 : 假名遣をなるべく保たうとする假名遣

現代假名遣 : 假名遣をなるべく減さうとする假名遣

とするのがよいのではないかと考へる。


●決定要素

假名遣を決定する要素は3つある。そして歷史的假名遣にせよ現代假名遣にせよ、この順番は入れ替らない。

(1) 現代音韻

(2) 語と語の關係

(3) 漢字表記との調和

(4) 書寫の習慣や古用例

先づ(1)であるが、假名は表音文字であって歷史的假名遣といへど現代音韻の枠をはみでる事はない。「がたいが良い」「ほうれい線」など由來のよくわからない言葉はそのまま表記する他ない。「あたらしい」が「あらたし」の後身であるからといって、「あらたしい」と書いてアタラシイと讀む事はできない。

次の(2)は、語と語の關係をなるべく單純にとらへ得るやうにする事を指す。現代假名遣で「言ふ」は「ゆう」ではなく「いう」となった。これは「いいます・ゆう」など動詞の活用で語幹が異る事を嫌ったためとも、「結ふ」との混同を避けたものともいふ。歷史的假名遣で「ありがたう」「思はう」などとするが、「その方が語幹が動かない」利點はしばしば強調される。

(3)は語の來歷と漢字表記の標準的音訓とが調和しない場合、後者が優先される傾向にある事を示す。「氣負ふ」は明らかに「きほふ(競)」の變化であり、「きほふ」が正しいとされる。しかし「氣負ふ」に振假名をつけるとすれば「きおふ」とせざるを得ないであらう。あくまで古用例に從ふとすれば、宛字への對應は非常に困難になる。この事情は現代假名遣でも同樣である。「慈姑」は「くわい」だが「具合」は「ぐあい」、また「頰」は「ほお」だが「猿頰貝」はカナ表記のためつい「サルボウ貝」となり、辭書どほりの「サルボオ貝」は劣勢である。

ただ、(1)とも關聯するが字音語で「がくかう(學校)」「うんうん(云々)」などは漢字表記に引きずられて、音韻の枠を越えようとする事がある。これは特定の語に限られ、同じく字音語であっても「にちほん(日本)」「しゅつらい(出來)」などとはしない。和語では同樣の例はない。「うっちゃり」を「うちやり」とは書かない。

以上の三條件に問題ない場合、歷史的假名遣では極力(4)の古例を守り、現代假名遣ではいくつか特定の語を除いて「發音どほり」とするのである。一般的には現代假名遣は表音的だから(1)、歷史的假名遣は表意的で(4)ばかりだといふやうに理解されてゐるやうだが、決してそんな事はない。表音的・表意的といっても、そのやうな傾向が強いだけだと理解しておいた方がよいだらう。

●細かいこと

假名遣の定義

同音の假名を語によって使ひ分ける事、またその規則

の細かい解說を試みよう。

「假名」とは何か。通常は「いろは四十七文字」に撥音の「ん」を加へ、更に濁點半濁點のついたものも含める。小書き假名「ゃ・ゅ・ょ・っ」は流儀によって使はない事もある。以上の假名文字は片假名・平假名どちらも同樣である。長音符號「ー」は假名文字ではないとされるが、「バレー」と「バレエ」など事實上の假名遣として書き分ける語があるから、假名に含めてもよいだらう。「ヶ(が)」は「竹」の異體字とされ、また假名遣の問題はおきない。

「同音の假名」とは何か。それはたとへば「オ」音に相當する假名文字が「お・ふ・ほ・を」四種類あるなど、表記を誤る可能性ある特定の假名文字を指す。「お・を」は常に同音となるが、「ほ」は語頭以外、「ふ」は「倒す」など特定の語に限るなど、細かい條件がつくものもある。「同音」の感じ方は時代や地域によって異り、また次第に增加してゐる。たとへば近年まで特定の方言で「か」と「くゎ」の區別があったが、ほぼ絕滅の狀態にあるといふ。「がくかう(學校)」や「あかほ(赤穗)」「あをめ(靑梅)」など、どこまで同音の假名であるか問題となる語もある。

「もみぢ(紅葉)」は「もみじ」と紛れるから「假名遣」として扱はれるが、「さくら(櫻)」はそのやうな可能性がない。なぜなら「同音の假名」に該當しないからである。また上代は淸音の「もみち」であったといはれるが、だからといって「もみち(紅葉)」とする事はない。現代音韻の枠を越えてしまふからである。「ぐあひ(具合)」は「ぐわい」と紛れさうであるが、漢字表記に助けられるためかあまりそれと意識されない例もある。

「語」とは何か。じつは言語學上の大問題であり定見は無いとも聞く。しかしここでは假名遣が言葉を書く時の規則であって、發音符號ではないといふ理解でよいだらう。

「語によって使ひ分ける」事が卽ち假名遣の根幹である。「いふ(言)」と「ゆふ(結)」は同音であるにもかかはらず表記が異り、書き方を閒違へると正しく解釋されない。これは現代假名遣にも引き繼がれて「いう(言)」と「ゆう(結)」は區別される。「きずく(築)」と「きづく(氣付)」のやうに、現代假名遣で新しく區別されるやうになった語もいくつか存在する。書き方が一定しないから「假名遣」の相違であるとは限らない。たとへば「うめ・むめ(梅)」や「ゲーテ・ギョエテ」はいづれも同じ語の「表記の搖れ」と解釋すべきであらう。「う」と「む」を混同するのは「馬」「鰻」「孫(むまご)」など少なくない。しかしいづれも異る言葉と「使ひ分け」をしてゐるわけではない。

「またその規則」とあるが、時に明文化されないまま習慣的に使ひ分ける事もある。菓子の「ボーロ」が南蠻由來であるといふ意識が薄れるとしばしば「ぼうろ」「ぼおろ」と表記される。ちなみに平成3年の文部科學省『外來語の表記(答申)』では「ボウリング」と「ボーリング」の語を擧げてゐるが、新種の「假名遣」であると解釋できさうである。