2025年 9月7日(日) 13:30-15:30 ふらふら哲学カフェ(第22回)
「期待されるのは、嫌じゃないですか? 」
会場:石川県西田幾多郎記念哲学館 5階展望ラウンジ
参加者16人
当たり前だけれど、期待されるのは嫌じゃない、という人もいる。期待されると、相手から求められている気がするし、それに応えたいとモチベーションにもなる。それはそうなんだけれど・・・基本的には、期待されると嬉しいけれど・・・相手の期待の程度が高いとハードルが高く感じることもあるし、自分が頑張りたい方向と違う方向で期待されると嫌だ、という人もいる。これはきっと、期待に応えたい、と思うからこそ辛いのだろう。
誰から期待されるか、も重要かもしれない。自分のことをよく知っている人から期待されるときは、この人ならきっとこういう風にやってくれるという具体的なイメージがあって、信頼してまかせてくれているんだ、と思って期待に応えたいと思うし、相手がどんな期待を抱いているのか分かりやすいから、ちゃんと期待に応えられる。けれども、よく知らない人から無責任に期待されても困る。私がどんな能力を持っていて、どんな仕事が得意なのかを知らないのに、できるよね、って勝手に期待して仕事を押し付けられるとか、あまり親しくない人から「いい人だと思っていたのに、ひどい‼」と言われたり。どうやら、人は勝手に期待された場合でも、どこかで期待に応えなければ、という気持ちになるようだ。そうだとすると、期待されるのは迷惑なことかもしれない。
とはいえ、だれからも期待されない、という状況を想像すると、それも辛そうだ。期待されるということは関心を持ってもらえるということだと、対話の中で誰かが言っていた。勝手な期待であれなんであれ、なにも期待されないのは、さびしい、というだけでなく、他者とかかわりを持つことが出来なくなるのかもしれない。自分自身のことを考えると…実際、迷惑だったりもするけれど、周りの人から勝手に期待されて、それになんとなく応えたり応えなかったりして…私自身も、周囲に勝手に色々なことを期待して生きているな、と思う。
(スタッフN)
2025年 8月9日(土) 13:30-15:30 ふらふら哲学カフェ(第21回)
「時間を無駄にしたな、と思うとき 」
会場:石川県西田幾多郎記念哲学館 5階展望ラウンジ
参加者9人
哲学カフェって、2時間考えたところで、結論が出るわけでもなし、多くの場合、それぞれがかかえている悩みが解決すると言うよりも、新たな疑問をたくさんかかえて帰ることになるので、まあ、時間の無駄だろう、とも思うのだけれど・・・
今日のテーマは「時間を無駄にしたな、と思うとき」。朝から晩まで、アルバイトで一日が終わってしまったとき。ぼんやりとYouTubeやドラマを見ているとき。時間を無駄にしていると思うかもしれない。そこにはなにか満たされない感覚がある。でも、同じドラマを繰り返し見て、そのことで満たされる、と言う人もいる。
時間の無駄、を考える時、仕事だと目的がはっきりしているから、その目的に対して最短距離じゃないと、無駄だと思える、というコメントがあった。人生を考える時は、目的がはっきりしていないから、何が最短距離かは曖昧で、だから、簡単に無駄か無駄じゃないを言うことはできないのかもしれない。仕事だけじゃなく、人生のことも考えると、遠回りでもいいんじゃないか、という人もいる。
個人的に気になったのは、失敗して怒られた日に、ミートボールご飯というジャンクなごちそうを食べて鬱々とした気分を忘れる、という話。怒られて傷ついたその感情を引きずるのは無駄だから美味しいものを食べてすぐに忘れた方がいい、という人もいる。けれども、傷ついたという自分の感情をなかったことにするようで、なにか自分が感じたこと自体を無駄にした気がする、という人もいた。捨ててもいい感情と、捨ててはならない感情があるのだろうか?
人はなにかを無駄にした、と思ったとき、その無駄を回収して、無駄ではなかった、と言いたいみたい。なにか辛い思いをしたとして、でもその経験がその後の人生の糧になったと思えると無駄が回収できたような気がして安心する。でも、無駄な時間は、そうやって回収しなければならないものなのだろうか・・・
(スタッフN)
2025年 7月12日(日) 13:30-15:30 ふらふら哲学カフェ(第20回)
震災カフェ「頑張るって、どういうこと? 」
【シリーズ震災カフェ】では震災後の生活のなかで気になるテーマを取り上げていきます。被災した人、被災していない人、どなたでもご参加ください。
会場:石川県西田幾多郎記念哲学館 5階展望ラウンジ
参加者6人
震災に関連して、たとえば「頑張ろう 能登」という応援のメッセージを付けたトラックが町の中を走って居たり、新聞やテレビでも被災したけれども頑張っている人が紹介されるなど、「頑張る」という言葉を目にすることが多いような気がする。けれども被災した人の中には、その「頑張る」という言葉に、モヤモヤとしたものを感じる人もいる、ということを知ってこのテーマに設定しました。
対話のなかでは、そもそも、震災とは切り離しても、「頑張る」という言葉には、モヤモヤした思いを持っている人がいるのだな、と感じました。頑張るというのは、何か不自然な努力をしているイメージだから、自然体で仕事をしているときに「頑張っているね」といわれると、妙な気がする、とか、マラソンをさせられている時に、沿道の走っていない人に「頑張れ」といわれるとイラっとするし、でも、自分が望んでやっていることに対して「頑張れ」といわれるのも変な気がする、という声もありました。とはいえ、特に、自分が目標を立てて、そのために努力しようと思って、「頑張ろう」と自分でいう場合は、とてもポジティブなイメージがある。
他人に「頑張れ」という場合を考えて、スポーツ選手などを応援する場面の話題にもなりました。その場面では、選手を応援するという建前の上で、実際には選手との一体化を楽しみつつ、自分自身を鼓舞しているのではないか、という声もありました。そうやって応戦してもらって、選手自身の励みになる場合もきっとあると思うけれど、例えばテレビの前で応援している場合などはどうなのだろうか・・・励ます、とか、応援する、とかいうことが、実際何をしていることなのか、よく分からなくなってきました。
他人から励ましてもらうと、ありがとう、と感謝しなければならないような気がするというのが人間の情というものでもあるので、被災地の人々は励ましに感謝しているかもしれないけれど、本当のところ、被災地にとって必要なのは、励ましではなく、支援なのではないか、という風にも思いました。いや、でも、励ましたり励まされたり、という関係にも、何かとてもいい意味がある様な気もするし・・・
(スタッフN)
2025年 6月15日(日) 13:30-15:30 ふらふら哲学カフェ(第19回)
「大人とは」
会場:石川県西田幾多郎記念哲学館 5階展望ラウンジ
参加者17人
今回の哲学カフェは石川県立看護大学で哲学対話について学ぶ学生たちが企画・運営をし、テーマを決めるのも、進行役も学生達が行いました。リラックスして対話ができるように、会場にマットをしいたり、音楽をかけたり、いろいろと工夫をしてくれたようです。
それで、テーマですが、学生たちは、大学を卒業することを見据えて、大人になりたいという望みを抱いたり、大人にならなきゃいけないという周囲からの期待にプレッシャーを感じたりしていたようです。
対話では、まず、参加者が大人をどう考えているのかを聞いてきました。ちゃんとした大人になることは、いいことだと思っている参加者が多くて、経験を積んで、責任を持てるのが大人、相手の立場や背景を読み取って話ができるといった声がありました。なかには、大人という言葉に、つまらない、ずるい、といったネガティブなイメージを持っている人もいました。個人的には、子どもなど、守りたいと思っている人に対して、真剣に伝えるべきことを伝えようとしている大人は「大人」という感じがするという発言が気になりました。大人である、ということは、自分以外の誰かの為に真剣になれるということなのかもしれない。
対話の後半、治療を終えた子どもに対して、歯医者が「大きく口を開けて偉かったね」と褒めたら、子どもが「当たり前のことだから、褒めないでください」といった、というエピソードが紹介された、色々と考えさせられた。「褒める」ということは、自分を優位に於いて相手を子ども扱いすることなのかもしれないし、子ども扱いをするということを相手を自分の都合がよいように操作することなのかもしれない。
褒めるって、子ども扱いをすることなのかな、と考えていたら、「お世辞」という話題が出てきた。お世辞は、褒めることの一種だろうけれど、子どもじゃなくて、大人に対していうことが多い。そして、お世辞を言われた人は、それをお世辞だと気がつかなければちゃんとした大人とは言えない。そうすると、お世辞をうまく使いこなせるのが、大人なのかもしれない。なんだかこんがらがってきた。
(スタッフN)
2025年 5月24日(土) 13:30-15:30 ふらふら哲学カフェ(第18回)
震災カフェ「みんなで震災を愚痴ろう!」
会場:石川県西田幾多郎記念哲学館 5階展望ラウンジ
参加者5人
最初は、被害を受けた人を中心に自分の愚痴を言い合った。奥能登で被災して、ほとんど被害がないように見えるかほく市や金沢と比べて辛くなる、という人。直接的には被害を受けなくても、家族を連れて避難した経験から、今でも、地震のことが不安で、何時でも避難できるようにお酒が飲めない、という人。道路などの復旧が後回しにされている、という感情など。
でも、話をしているうちに震災のことをみんなで愚痴るのは難しいなあ、と感じた。被害を受けた地域と比較的軽い地域があり、同じ地域でも被害を受けた家とそうでない家がある。参加者一人一人にとっての震災がそれぞれ異なっていて、同じあの能登地震について語っているのに、どうしてこんなに違うのだろう、という思いがした。この、被害の違いが語りにくさにつながっていると思う。対話中、「自分はそれほど被害を受けていないので、愚痴る資格はないけれど」という人もいたけれど、そんなふうに思っていると他人と対話なんてできない。どんなに小さいことでも、その人にとって愚痴なのなら、その人には語る権利がある。地震の愚痴を言いながら、だんだんと、今後の防災のためにどのような対策ができるのかとか、最近の希望を感じるニュースとか、明るい話(一般論)に話がずれていく、と感じる場面もあった。しゃべっている人には、きっとそういう意識はないのだろうけれど、自分の愚痴を語り続けること、自分にとって嫌なこと、辛いことを直視し続けるのはエネルギーのいることなのだと思う。
そんなふうに互いにしゃべりにくさを感じながらの対話の時間だったけれども、その時間を共有したということで対話の場は静かに深まっていたように思う。対話の後半に、避難所のギスギスした状況を語ってくれた方がいた。その方が最初に語った愚痴は、なんというかまだよそ行きの愚痴で、その愚痴の裏には、いろいろな思いを抱えておられたんだなという風に感じた。他にも、「これ、言っていいかどうかわからないけれど・・・」と、被災当時、所属長からかかってきた安否確認の電話に対する愚痴をこぼす人もいた。命を守るために必死の思いで避難をして、携帯の充電は外部の情報得る命綱だったのに、そこに「大丈夫」と電話がかかってきた。「大丈夫です」と答えるしかなかった、なぜなら、一刻も早く電話を切って充電の減りを抑えなければならなかったから。誰も悪くない、その場にいたら仕方がない、けれども通常の状況ではありえない辛い経験があって、そうした愚痴を吐き出すためには、一見無駄ともいえる対話の時間をみんなで共有することが必要なのだと思う。
(スタッフN)
2025年 5月10日(土) 13:30-15:30 ふらふら哲学カフェ(第17回)
医療専門職学生のための哲学カフェ
「服装/医療者に思いやりは必要か」
会場:石川県立看護大学図書館 がんばルーム
進行:菊地建至(金沢医科大学准教授)
参加者8人
今回は金沢医科大学の菊地先生に進行をお願いしました。参加者も、医療専門職の学生に限定して、テーマ設定も、そのあたりを意識しています。
最初のテーマは服装。参加者は、大学1年の学生ばかりだったので、入学当初、当たり障りのない服装を着ていたけれども、5月になると、だんだん自由になってきたという話にみんな共感していた。今回の哲学カフェも、初めて参加するという人は、どんな服装にすべきか悩んだという人もいた。新しい場所に行くとき、ひとは、当たり障りのない服装にしたいと思うものなのだろうか。医療系の学生なので、実習の時の服装の制限や、髪色の制限には関心があるようだ。基本的には、ルールを守った恰好にするつもりのようだけれど、髪色など、どの程度まで許されるのか、その境目を考えると結構あいまいでわからなくなってくる。そもそも、なんで服装に制限があるのかな。
もう一つのテーマは「医療者に思いやりは必要か」ということだった。医療職は思いやりが必要とされる職業だと思われているようだ、ということがまずは前提としてあって、そこから対話が始まった。思いやりが必要だという考えもいっぱい出たけれど、感情的になってはいけない立場、場面もあるのではないかという声もある。対話を続けていくと、感情的であるということと思いやりがあるということは同じことなのか。感情と知性の関係。知的な思いやり?のようなものはないのだろうか、ということも考えた。そんな話の中で、医療者は泣いてもいいのか、ということも話題になった。プロなら泣いてはいけない?業務に差しさわりがなければ泣いてもいい?いろんなタイプの医療者がいたほうがいい?色々な声が交錯する。
個人的には、思いやりのことを「自分の身を削って」何かをするイメージだという声に衝撃を受けた。医療者の現場は、確かに遊園地みたいに楽しい場所じゃない。辛い思いをしている人が多い場所だとは思う。そういう辛い場所にあえて身を投じて働こうとしている学生たちのことを私は常々尊敬しているし、すごいなあ、と思っている。それは献身的で、自分の身を削っているということなのかもしれない。けれども、何かが違う、と私は思ってしまう。例えば、私が患者だったとして、看護師さんが私のことを思いやっていろいろとよくしてくれて、それが「身を削った思いやり」だとしたら、そんな思いやりはしないでくれといいたくなる。私は、誰かのために自分が身を削るのも嫌だけれど、誰かが私のために身を削るのも嫌なのだな、と気づかされた。
(スタッフN)
2025年 4月26日(日) 13:30-15:30 ふらふら哲学カフェ(第16回)
「職場や家庭に愚痴は必要か?」
会場:石川県西田幾多郎記念哲学館 5階展望ラウンジ
参加者17人
多分、何か問題があったり、不満があって人は愚痴をいう。そうだとしたら、愚痴ばかり言って問題が永遠に解決しない職場より、すぐに現実的な解決策を模索できる職場の方がいいのでは、と対話をする前には思っていた。けれども、対話のなかでは、多くの人が、職場に愚痴はなくならないし、無くならないほうがいいという。なぜ、愚痴は必要なのだろうか?
世の中には、愚痴すらいえない職場もある、という人もいて驚いた。なるほど、愚痴すらいえないほど人間関係の辛い職場よりも、愚痴が言える職場の方が随分ましだ。
個人的には、高校時代に多めの課題がだされて、友人たちと「こんな量の課題あり得ない」と愚痴っていた、という話が面白かった。この人は、課題を出した教師や高校に文句があるわけではなかったという。そうではなくて、みんなで「ありえない」と言い合うことで、自分たちが何か大きなチャレンジをしているような気分になることが目的だった。確かに、目の前に同じ課題があっても、それを〈当然こなすべき課題〉として受け取るか、〈普通はとても不可能だけれども、私たちならギリギリできる課題〉として受け取るかで、テンションが変わってくる。愚痴には、文句を言うのとは違った、別の効用があるようだ。
(スタッフN)
2025年 3月16日(日) 13:30-15:30 ふらふら哲学カフェ(第15回)
「みんなで愚痴るのは、なんで楽しいのか?」
会場:石川県西田幾多郎記念哲学館 5階展望ラウンジ
参加者10人
みんなで愚痴るのは、なんで楽しいのか?自分の本音というか、腹を見せる、それが心地よい、という人がいる。自分の本音がみんなに受け入れられたら、確かに楽しそう。でも、愚痴って、本当の本音、というか、自分の一番深刻な悩みなのだろうか。みんなで愚痴るのは、お笑いの延長というか、ネタみたいなものだ、という人もいる。みんなで軽く楽しく愚痴を言い合うときは、本当はだれも深刻には受け止めていない。うちの上司は職場にしょぼいお菓子しか買って来てくれないとか、最近の若い人の流行にはついていけないとか、他愛もない愚痴をみんなで言い合ってストレスを発散しているだけなのだ。内容は何でもいいから愚痴を言い合うと仲間意識が高まって安心する、ということもあるみたい。どうやら、何人かが集まって楽しく他愛もない不平不満を言い合うタイプの愚痴と、深刻な内容を一対一で吐露する愚痴とを区別した方がよさそうだ。
楽しい愚痴パーティと、深刻な吐露では、かなり雰囲気が違うけれど、似ているところもある。不思議だけれども、人は深刻な悩みを吐露する時、吐露する相手は、自分の話をよく理解してくれる人がいいけれども、具体的な解決のためにすぐに行動する親切な(おせっかいな)人は避けたいとも思う。吐露するのは、問題を解決するためではない。それから、何かを要望する時に「これは愚痴になってしまうかもしれないけれど」とあらかじめ断ると、それは、要望が通らなくても仕方ないとあきらめていますが、聞くだけ聞いてください、という意味になる。愚痴る時、人は問題の解決自体はあきらめている。
個人的には、深刻な悩みを吐露できない、という人の話が興味深かった。軽い愚痴合戦なら、みんなで愚痴を言い合うから楽しくできる。でも深刻な悩みを吐露した時、相手が聞いてくれているのだな、と思うと、途端に吐露できなくなる、と言っていた。愚痴を聞いてあげる、というと優しいようでもあるけれど、どこか上から目線というか、対等ではない関係になっている。そうなると、心が閉じてしまう。愚痴を言うとき、人は自分が愚かなことをしているというみじめさにうすうす気づいている。だからこそ、一方的に愚痴を聞いてもらうのではなく、みんなで愚痴を言い合って、みんなで愚かになるのが心地よいのかな、などと考えていたら、あっという間に時間になってしまった。
(スタッフN)
2024年 12月22日(日) 13:30-15:30 ふらふら哲学カフェ(第14回)
震災カフェ「日常にもどるってどういうこと?」
会場:石川県西田幾多郎記念哲学館 2階喫茶室
参加者6人
能登の震災から間もなく1年になろうとしています。震災によって当たり前だった日常が失われ、日常にもどりたいと考える人や、避難生活が長引いて、それが日常になりつつあることにモヤモヤを感じる人もいるのではないかと思って、今回のテーマを設定しました。
今日は、会場の都合で、5階の展望ラウンジが使えない、ということで、特別に喫茶室の隅を使わせていただきました。見晴らしのいい5階も素晴らしいですが、喫茶店も落ち着きます。
今回のカフェに参加された方は、必ずしもご自身が直接被災した、というわけではないですが、それでも地震に対する不安やショックがあったり、ボランティアなどで関わる中で、自分の日常が奪われた、何かこの一年の生活は日常ではなかったような感覚を持っている人が多かったです。
日常が戻ってきた、という、なんといいますか安心感のようなものの正体はなになのでしょうか。
被災地のスーパーで、店員さんとお客さんがなんでもない世間話をしているところ、日常を感じた、という人がいました。誰かと話ができることに人は「日常」といいますか、安心感を感じるのかもしれません。
カフェの最後の方で、突然、認知機能が衰えてきたご高齢の親族のお話をされた方がいらっしゃいました。昼も夜も分からなくなってきているようで、そこには「日常」がないのではないか、と心配する発言でした。
それを聞きながら、昼の後には夜が来て、夜の後には昼が来る、という風に未来が予測できて、生活に繰り返しのリズムがあると人は安心感を抱き、「日常」を感じるのかな、と考えました。知り合いの先生の中にも、京都の大学で働きながら、週末は静岡の自宅に帰る、という生活を続けておられた方がいました。ずいぶん変わった生活だと思っていましたが、その先生にとっては、それが当たり前のリズムになっていて、自然なことだったのかな、などと考えました。
(スタッフN)
2024年 10月5日(土) 13:30-15:30 (出張哲学カフェ)
「震災後、モヤモヤすることは?」in 能登高校
会場:能登高校視聴覚室
主催:能登高校を応援する会/能登高校魅力化プロジェクト
依頼を受けて進行をさせていただきました。
参加者 15名
依頼を受けて、能登高校で哲学カフェの進行をさせていただきました。
能登町で哲学カフェが開催されるのは、たぶん、はじめてです。
高校生と地元の方が集まっている。一番若い参加者は、小学生、一番人生経験の長い参加者は66歳?の公民館長さん。地域の方の中には、代々地域で生活してこられた方だけでなく数年前に移住してきたという方、災害支援のボランティアで来られている方がいる。高校生の中にも、国内留学という形で親元を離れて能登高校に通っている人もいる。
絵を描くワークや震災関連のクイズゲームで参加者の緊張をほぐしてから、哲学対話が始まる。
2週間前に豪雨災害に見舞われた直後で「雨で道路が通れなくなったのになかなか対応に来てくれなくてモヤモヤした」という人もいた。SNSなどで、地域と関係のない人が「能登は復興する必要がない」などと書いているのを目にするとモヤモヤした人もいる。
ボランティアにはすごく感謝しているのに、火事場泥棒のニュースなどもあり、外部から来た人のことを心のどこかで疑ってしまう自分自身にモヤモヤするという高校生。国内留学で、震災発生時に能登にいなかった高校生からは「自分は被災していないから震災のことを話していのか不安だった」という、被災していない側のモヤモヤもあった。話ができない、という思いは、多くの人がもっていたように思う。被災して経営していたカフェがつぶれた、という男性は、本当は被災したこともみんなにいじってもらって笑い合いたいのに、皆、暗い雰囲気でいじってもくれないとも語っていた。話すことも辛い、ということはもちろんあるのだろうから、震災の話題を避けることは思いやりなのかもしれない。けれど、お互いに傷つけないようにと語り合うことを避けることで、モヤモヤとした思いが自分の心の中で行き場を失って余計に重苦しいものになってしまうのではないかと思う。
豪雨災害の後、救急車や自衛隊などの支援車両をみて、突然、涙が出てきた、という女性がいた。なぜ涙が出たのか、「無力」だから。「無力」という言葉が私には印象に残った。それは、直接的には、自分は重機の操縦も、肉体労働もできないということなのだろうけれど、それだけではないような気がした。彼女自身、復興のために何もしていないわけではない。話を聞くと、被災した子供たちのために日々働いているという。私には十分に力になっているように見える。それでも、むしろ、これまで地域のために力を尽くしてきたからこそ、今回の豪雨災害を受けて「無力」という言葉が出たのではないか、などと想像する。言葉の奥に複雑な思いや経験があって、言葉の表面的な意味だけを聞き取ったのでは、全然足りていないという気がする。
帰りの車の中で、思い返したのはネコの話をしてくれた高校生のことだった。彼女の家のネコは震災時に家から飛び出し、一日、帰ってこなかった。ネコは帰って来たけれども、またいつネコがいなくなるか、今でも心配でモヤモヤする、と静かに語っていた。たかがネコ、といういい方もできるのかもしれないけれど、「今でも心配してしまう」というのはどういう気分なのだろうかと想像する(想像が追いつかないな)。
(スタッフN)
2024年 9月7日(土) 13:30-15:30 ふらふら哲学カフェ(第13回)
「ずるいな、と思うとき」
会場:石川県西田幾多郎記念哲学館 5階展望ラウンジ
参加者 14名
ずるいなと思う人。
ちゃっかりして、頼みごとがうまい人。しゃべりのテンポがいい人。努力ではどうにもならないものを持っている人。
たとえば、足のサイズが大きくて気に入った靴を履けない人は、足の小さい人のことがずるいな、と思うし、バレーをやっていて、背の低い人は、背の高くて簡単にブロックする人のことをずるいと思う。
それから、これは人じゃないけれど、大谷君のデコピン、可愛すぎて、ずるい‼
いろいろな場面で、ひとは「ずるい」って思っているみたい。
人のレポートのアイデアを盗んで本人よりもいい成績を取る人は、たぶん、本当にずるくて悪い人だと思うけれど、それほど明確に悪いわけではないないんだけで、なんかずるいな、と思ってしまうこともある。反対に、自分に何の非もないのに、周りからずるいと思われることもある。そして、そんなとき、なぜだか申し訳ない気持ちがしてしまう。ずるくて申し訳ありません、という気持ちになる。でも、これって変なのではないだろうか?
参加者の中で、「ずるい」という言葉を「ラッキー」とか「いいね」ぐらいの、カジュアルな感じで使っているという人がいた。
たとえば、定食の盛り付けが自分だけ大盛だった時に、
「あ、大盛だ。ズルじゃん(ラッキー)」
「えー、ほんと、ズルいなー(いいなー)」
「ズルでしょ(いいでしょ)。いえーい!」
本当にこんな言葉遣いがあるのか、ちょっと信じられないけれど、ずるい人が悪い人でないのなら、ずるくて何が悪いのかと開き直ってもいいような気がする。「ズルでしょ。イェーイ」と、言っている社会の方が面白いかもしれない。
そもそも、他人のことをずるいといっている人も、ずるいといわれている人もどちらも悪くなくて、本当に悪いのは「ズルい」と思うような出来事が生じる環境、社会、制度なんじゃないか、という話も出た。足が大きくて好きな靴が履けない人がモヤモヤした思いを抱くのは仕方がないけれど、足が小さい人が悪いわけじゃない。恨むべきは、大きなサイズの靴を作らないメーカーの方だ。あるいは社会保障や税制の制度の中で、損をしているように感じる人が、得をしているように見える人のことを、ズルいと思うことがあるけれど、本当に恨むべきなのは不完全な社会制度の方だ。
こんなふうに「ずるい」の背景を考えると、ずるいと思ったり、ずるくて申し訳ないと思ったりすることが、ちょっとバカバカしいような気持になった、そんな対話でした。
(スタッフN)
2024年 7月21日(日) 13:30-15:30 ふらふら哲学カフェ(第12回)
震災カフェ「ひとごと・自分事」
会場:石川県西田幾多郎記念哲学館 5階展望ラウンジ
参加者 6名
被災した人、被災していない人。ボランティアをしている人、していない人。いろいろな人がいる中で、震災が自分にとってひとごとなのか、自分事になっているのかを考えるところから対話がスタートした。
被災した友人のことを、理解したい、自分事として考えたい、という人。他人のことを自分事にしすぎるのは大変だという人。被災された方への「頑張ってください」とか「大変ですね」という声かけは、被災を「ひとごと」にするようにも感じられるからよくないと聞いたけれど、気にしすぎなのではないか・・・などと、いろいろな声がありました。
「ひとごと」の範囲はどのあたりなんだろうか?家族や自分の会社は自分事?自分の家族も「ひとごと」と感じられるときもある?
後半、親子関係の中で、あえて、「ひとごと」ととらえることが、家族を尊重することになるのでは?という話も出てきました。たとえば、子供の進学や就職に対して、親が子ども自身のことだからとひとごと扱いすることは、冷たいかもしれないけれど、子供を尊重することなのかもしれないなと考えました。
(スタッフN)
2024年 6月16日(日) 13:30-15:30 ふらふら哲学カフェ(第11回)
「なぜか人の目が気になるとき」
会場:石川県西田幾多郎記念哲学館 5階展望ラウンジ
参加者 10名
今日は看護大学の学生が進行を担当。若い人が進行をすると参加者もリラックスするのかしゃべりやすそう。
最初はみんな人の目が気になるエピソードを喋ってから対話が始まる。おひとり、あれこれ考えて、やっぱり自分は気にしたことないという人がみなさん驚いたようで、どうしてそんなふうに思えるのかと興味津々でした。自分の弱点も見てもらいたいって、自然体な受け答えで、かっこいいな、とおもう(でも、私の場合は「なぜか」気になっちゃうんだよな・・・)。
人の目を気にした方がいいのか、気にしない方がいいのか。ありのままを見てもらう、というあり方がかっこいい、とも思うのですが、他人からどう見られているのかを意識することはいい面もあるじゃないかというコメントもありました。ものを書いたり描いたり、新聞に投稿してみたり、積極的に他人に見てもらいたい、ということもある。見てもらいたいけれど、見てもらいたくない、という微妙な心持ちもある。私が考えていたのは、「見せる」ことと「見られる」ことの違い。庭の草が生えていたり、それをむしっている姿を見られるのは自然なことだけど、作品を書いて見せたり、新しい服を買って、髪型を変えるのは意識的に「見せる」こと。SNSなんかも意識的に「見せる」世界かな。私の場合、自然な形でまわりから「見られる」のは気にならないけれど、「見せる」の場合は、すごく自意識過剰になって人の目が気になってしまう・・・とか考えていました。
後半は、子育て中に人の目が気になって、本当はそんなことはしたくないのに、親らしい振る舞いをしてしまったという話から、親の顔がテーマに。自然と親の顔になるのだという人、自分の親がはじめから親の顔をしていたことを不思議だという人、親の親でない顔を見たという人…親は親の顔をしていないといけないのかなと考えているうちに時間になりました。
(スタッフN)
2024年 5月19日(日) 13:30-15:30 ふらふら哲学カフェ(第10回)
「震災後、温度差を感じるとき」
会場:石川県西田幾多郎記念哲学館 5階展望ラウンジ
参加者:8名
まずはいろいろな場面で温度差が感じられているのだなということ。ある方からは発災直後は自分ごととして感じていたのに、時間が経つにつれて慣れて来てしまっているという自分の中での温度差、ボランティアによく行かれる方からは支援に関心のある人とそうでない人の温度差を感じるという声が聞かれた。また、一時的に避難所に身を寄せたという受験生は、本当は被災された方の方が大変なはずなのに自分は2週間後に迫った共通テストに影響しないが気になっていて、自分のことを心配していることが嫌だったという。
とはいえ、一番切実に温度差が感じられるのは、被災の程度が比較的高いひとと低いひとの間、被災したひとと被災していないひとの間である。被災した知り合いのことが心配なんだけれど、どう声をかけていいのか分からず、連絡ができなかったという方もいた。反対に、被災した方の中には、被災者同士ではいつも時間を忘れて震災のことを語り合うようになって町内会のつながりが強くなった反面、被災の程度が低いひとは震災の話を嫌がって関わろうとせずに腹が立つ、という人もいる。
被災者は辛さがわかっているもの同士で喋っているのが楽しいし、分からんもんとしゃべってもつまらない。それはそうなのかもしれない。わからない人はなまじ理解しようとするよりも、わからないと言ってもらった方がいい、という話も、そういうものかもしれない、と聞いた。けれども、同じ熱量の人とだけしか話をしないというのは、苦しい状況を生むのではないかとも考えた。被災の程度は皆バラバラなのだから。被災の悩みはその人が置かれた本当に個別具体的な状況から出てくるということも話しながら感じていた。同じ家族の中でも受け取り方にはズレがある。
この哲学カフェには被災の程度の高いひとも低いひともほとんど被災していないひともいた。温度差はあったはずだ。けれども、予定を20分もオーバーして、ストップをかけなければ、いつまでも話は尽きなかった。家族に似も話せなかった思いを、ここで初めて語ったとい人もいる。参加された皆さんはこの出会いをどう感じたのだろうか?
(スタッフN)
2024年 4月13日(土) 14:00-16:00 ふらふら哲学カフェ(第9回)
「震災後、モヤモヤすること 」
会場:石川県西田幾多郎記念哲学館 5階展望ラウンジ
参加者:11名
被災して避難されている方、一時期断水はしたけれどもすぐに復旧した方、ほとんど被害のなかった方、ボランティアで被災地に入られている方、様々な方が参加されました。
被災したけれども無事に避難できて、ある程度、支障のない生活ができていて、被災地に残っている方のことを考えると、幸せすぎる、と感じる、という方がいる。以前、能登に住んでいたのだけれども最近引っ越したから偶然被害に遭わなかったという方。震災直後の断水で困った際、親切な方に助けてもらってすごく感謝したが、断水が解消したあと、自分は被害の残っている地域に対して何もできていないという思い。被災地に住んでいる知り合いのことが心配なのだけれども、どのように関わったらいいか分からず、連絡できないという方。
幸せ、偶然、親切、心配などなど、さまざまなキーワードをめぐってモヤモヤした思いが語られました。皆さん、落ち着いた口調ではありましたが、心の中に抱えている思いがあったのだと感じました。そして、今回、話せなかった思いもあるのだろう、とも。
ボランティアで被災地に入られている方もいて、ボランティアについても様々な思いが出てきました。ボランティアに参加して被災地に行き、金沢に戻ると被災地との温度差を感じるという人もいました。温度差、というのは、今回、いろいろな面でモヤモヤの原因になっている気がします。哲学館のあるかほく市でも、液状化による被害がありますが、それはごく一部の地域で、温度差があります。震災について全く無関心に見える人もいるし、それなりに思いはあるけれども被害の実感が人それぞれにあまりに違いすぎるので、自分よりも被害の重い人とも軽い人とも震災を話題にできないということもあります。温度差があることが震災について語ることを難しくしているのではないかとも思います。
何時にもまして、モヤモヤの残る時間でした。
(スタッフN)
2023年 12月23日(土) 13:30-15:30 ふらふら哲学カフェ(第8回)
「理不尽だな、と思うとき 」
会場:石川県西田幾多郎記念哲学館 5階展望ラウンジ
参加者:6名
大雪で、誰も来ないかなと待っていると、ポツリポツリ参加者が集まってくる。
今日のテーマは、カフェを手伝ってくれる学生さんが、アルバイトで理不尽に怒られた‼としゃべっていたところから思いついた。カフェのなかでは、女性差別、障碍者差別といった差別にに関する「理不尽」が最初の話題になった。昔は「女性は大学に行かなくてもいい」って言われ、それはとっても理不尽だったけれども、周りの女性たちは理不尽とも思っていなかった、という。なんと理不尽な!
理不尽という言葉の効用(?)についても話題になった。いわく、私たちは何かうまくいかなくて、自分のせいだ、と負い目を感じてモヤモヤするときに、「理不尽だ」と言って逃げることができる。学生たちも、アルバイト先に来る理不尽なお客さんのことはそんなに嫌がっていない。理不尽な体験は、バイト仲間の中で楽しくおしゃべりする格好のネタになるのだそう。「理不尽」という言葉は、つらい状況をやり過ごしたり、逆転させて笑い飛ばす、したたかな言葉なのかもしれない。
理不尽なことはコミュニケーション不足から起こるのでは?というコメントから、コミュニケーションを取りにくい「不機嫌な人」に話が飛び、そこから「不機嫌な人」の不機嫌は一種の表現であって、なにもいってなくても「私のことを察してくれ‼」と強いメッセージを周囲にまき散らしていて、一種のコミュニケーションになっているのではないか・・・などなど、いつものごとく話はあちらへふらふら、こちらへふらふらと脱線を続けるのでした。
(スタッフN)
2023年 9月23日(土) 13:30-15:30 ふらふら哲学カフェ(第7回)
「いい人って、どんな人?」
会場:石川県西田幾多郎記念哲学館 5階展望ラウンジ
参加者:11名
「いい人」になりたい、という人がいる。でも、「いい人」って言われたくないという人もいる。というのも、「いい人」って、どうでもいい人であったり、誰かにとって都合がいい人って場合があるから。「いい人」という言葉にネガティブなイメージを持っているひとが結構多かった。
「サザエさん」でいったら、誰が「いい人」だろう。
主人公のサザエさんじゃない、人気者のタラちゃんでもない。
マスオさんは「いい人」かもしれない。磯野家では、婿養子でちょっと肩身が狭そうだけれども、それを感じさせないぐらい自然になじんでいる。どうでもいい人だけど、愛想もいい人で、会社では同僚に誘われて飲みに行く、都合のいい人。
でもよく考えたらマスオさんみたいな、一見どうでもいい人が、磯野家や会社の潤滑油になって社会を回しているのかもしれない・・・
今回はマスオさんをめぐる対話?になりました。
(スタッフN)
2023年 9月9日(土) 13:30-15:30 ふらふら哲学カフェ(第6回)
「あなたのオン・オフのスイッチは何ですか?」
会場:石川県西田幾多郎記念哲学館 5階展望ラウンジ
参加者:5名
「コーヒーを飲んで仕事のやる気スイッチをオンにする」「恋愛のスイッチがオンになった」「家に帰ってもなかなか仕事モードをオフにできない」など、 オンにするのも、オフにするのも苦労している人ががいるのではないかと思って、このテーマを設定しました。
当日は、仕事などで、やる気のスイッチをオンにしなければならないのに、なかなかオンにできない、ということで悩んでいる人が多かった印象です。子どもとか、生徒とか、他人のスイッチを押さなきゃいけない立場(?)の人だと、それはそれで、悩むことがあるみたい。
個人的に面白かったのは、推し活をされている方のコメント。推しは、ファンの欲望のスイッチを押して、いろいろグッズを買わせたり、イベントに越させたりする。まわりからみたら、なにバカなことをやって、と思われるかもしれないけれど、自分としては、スイッチを押してもらってしあわせ… スイッチを押されるしあわせってどんな感じかな?
(スタッフN)
2023年 7月15日(土) 11:10-12:10 ふらふら哲学カフェ(第5回)
「大人と子ども どちらが自由か? 」
会場:石川県立看護大学 図書室(がんばルーム)
参加者:16名
※今回の哲学カフェはオープンキャンパスの研究ミニイベントとして実施しました。
当日、お集まりいただいたみなさま、ありがとうございました。今回は、高校生による哲学カフェということとで「大人と子ども どちらが自由か?」というテーマで考えました。大人のほう自由だという人もいれば、子どものほうが自由だという人もいて、意見は分かれていたのですが、とりわけ、みんなの関心が高かったのは「校則」の問題。お化粧をしてはいけない、などの校則が高校には多くて、その意味で高校生には自由が少ないと感じている人が多かったようです。そこから、なぜ校則があるのだろうか、なぜ人は化粧をするのだろうか、逆に大人になるとお化粧をしなくてはいけない場面も多いのでは?といろいろな疑問が出てきました。(スタッフN)
2023年 6月18日(日) 13:30-15:30 ふらふら哲学カフェ(第4回)
「独身・結婚のキラキラとドロドロ 」
会場:イオンモールかほく (2F フードコート)
参加者:11名(要申込/先着順)
※今回の哲学カフェは、石川県立看護大学で「フィールド実習」を受講し、「愛と結婚」について学んでいる学生グループ6名が企画・運営するものです。カフェのテーマも学生のアイデアです。
(スタッフ 感想1)
男女による結婚観の違いについて直接聞くことができなかったけれど、結婚生活のキラキラとドロドロについて話しているときに男性は結婚に関してあまり良いイメージがなく、結婚したいと思う人が少ないのかと感じた。結婚している人の実体験のお話を伺ったときに私は元々結婚にプラスのイメージが強かったけれどドロドロの部分を沢山聞いた後は自分の考えが少しわからなくなってしまった。
(スタッフ 感想2)
結婚はキラキラしたものをイメージしていたけど、色々な話を聞いてドロドロした部分もあるということが分かった。
私は、結婚して好きな人と一緒に暮らすことがキラキラの部分だと思っていたけど、それだけではなく、好きな人との間に子供ができることや、自分を求めてくれる存在がいるなど、結婚した後に感じるキラキラとかいろいろなキラキラを知ることができて楽しかった。
また、結婚はキラキラしたものではなく社会的な制度だと思っている人もいて聞いていて面白かった。
(スタッフ 感想3)
自分は、結婚に対してドロドロのイメージしか持っていませんでしたが、結婚にはキラキラとドロドロの両面性を持ち合わせていることが分かりました。特に、愛し合う人とともに居られる喜び、自分に存在意義を与えてくれるというところが、とてもキラキラしていると感じました。今日の話を聞いて、自分の結婚に対するイメージが変わり、自分が将来結婚したいかどうかについてはまだ結論が出ていませんが、これからいろんな方々の話を聞いて自分の将来を決めていこうと思いました。
2023年 6月16日(金) 19:00-21:00 ふらふら哲学カフェ(第3回)
「「恋」から「愛」に変わるタイミング? 」
会場:オンライン会議システム(Zoom)
参加者:12名
※今回の哲学カフェは、石川県立看護大学で「フィールド実習」を受講し、「愛と結婚」について学んでいる学生グループ6名が企画・運営するものです。カフェのテーマも学生のアイデアです。
(スタッフ 感想1)私は今まで愛と恋の違いについて考えてきたけど、参加者の方の話を聞いて、愛と恋の違いは紙一重だと思いました。色々な人の意見であったのが、愛はなくても結婚できるということでした。また愛することは難しいということです。今回のオンラインカフェに参加して、個人の課題の「愛と恋の違い」が正直もっとわからなくなったけど、みんなで意見交流するのは楽しかったです。
(スタッフ 感想2)恋の「好き」は一方的なものだけど、愛の「愛する」は受け取る人が必要だという考えが印象に残った。恋は盲目になっていて、相手の好きな部分ばかり見てしまうけれど、愛は相手の嫌な部分も受け入れることができるというのが納得がいった。恋が愛に変わるという考え方ばかりしていたので、逆の愛から恋の考え方や、突然愛が始まるという考え方も知ることができて面白かった。恋から愛に変わる瞬間は、明確に定義できないし、人それぞれだと分かった。また、具体的に愛が分からず、曖昧なまま結婚するような人もいるし、1人を持続的に愛することは当たり前じゃないという考えを知って、必ずしも結婚には愛は必要ないのだと思った。愛があった方が結婚生活は楽しいだろうと思うけど、生き物係のような感覚で暮らしている夫婦や仮面夫婦、愛着で離れられない夫婦のように、愛が無くても成り立つ結婚もありなんだと思った。学校で最初に哲学カフェをしたときとは、全然違う考えをたくさん知ることができたし、より愛や結婚についての考えを深めることができて面白かった。
(スタッフ 感想3)今回初めて哲学カフェに参加しました。
恋と愛の違いで恋はどきどき、愛は落ち着くという意見が多かったです。愛にはいろんなあり方があるという話題になり盛り上がり、人によって愛のあり方や捉え方が違く面白かったです。
また恋が冷めるという話題になり、最近流行っている‘‘蛙化‘‘という話題について話したいなと思ったのと、愛は冷めると言わず冷え切ると言うという話題から、そもそもなんで愛は冷え切るのかなと思いましたが書記だったので突っこむのにためらってしまって後悔しています。。。(笑)
夫婦の中で愛が冷え切っている人と冷え切らず愛し合っている人の割合が気になりました。私だったら愛が冷え切った人と生活をするのはとても苦しいなと思い、愛する人とは愛が冷え切ることなく永遠に仲良く愛し合っていたいと思いました。
自分とは違う愛の捉え方をもつ人とお話をすることができてとても楽しかったです。
ご参加いただいた皆さん、ありがとうございます。
2023年 5月21日(日) 13:30-15:30 ふらふら哲学カフェ(第2回)
「手ぬきは罪か?」
会場:石川県西田幾多郎記念哲学館 5階展望ラウンジ
参加者:12名
【感想】
今回は2回目の哲学カフェの参加でした。
みそ汁の手抜きの基準で盛り上がり、手抜きの基準が人によって全く違うことが面白かったです。
自分が手抜きと感じることでも、他人は手抜きに感じないこともあることが分かって、人に迷惑をかけないのだったら、自分が生きやすい程度に手抜きしても大丈夫かなと思いました。
私は手抜きをする時に、手を抜くポイントを考える一手間がある(テストで全部は勉強しないで、大事なポイントを考えるなど)ので、手抜きに手を抜かないこともあるなぁと思いました。
今回も楽しかったです。(スタッフA)
2023年 4月29日 13:30-15:30 ふらふら哲学カフェ(第1回)
「なりゆきにまかせるのは悪いことか」
会場:石川県西田幾多郎記念哲学館 5階展望ラウンジ
参加者:9名
【感想1】今回、なりゆきに任せるのは悪いことか?というテーマで哲学カフェに参加しました。初めての哲学カフェで初めは緊張していましたが、皆さんの話を聞いていろんな価値観を知ることができ、とても楽しかったです。私は今まで、成り行きにまかせるのは自分らしくない気がして悪いことなのかなと思っていました。しかし、なりゆきに任せた結果の偶然の出会いを楽しんでいたり、不思議な成り行きが好きとおっしゃる方もいて、そういう楽しみ方があるんだなあと新しい発見ができました。(カフェ初体験:スタッフK)
【感想2】 「なりゆきにまかせる」のはいいことなんじゃないか、と考えているひとが多かったけれど、そうでないひともいた。なりゆきというか、周りの環境とか、常識のようなものに流されて、自分はどうしたいのか、本当の自由の望みは何なのかを考えてこなかったという反省?後悔?のような声もあった。それぞれに事情を抱えている。
話を聞いていて面白かったのは「なりゆきにまかせる」という時の「なりゆき」のイメージがそれぞれ違っていること。「環境」「世間」「常識」のような意味で使っている人もいれば、「偶然」「アクシデント」それから「おもいつき」というような意味で語っている人もいた。偶然やアクシデント、それからふとした思いつきが、よい出会いやアイデアにつながるから、なりゆきにまかせるのも悪くないよね・・・・とか。
この哲学カフェでは、脱線、寄り道、大歓迎なので、はなしは思わぬ方向へふらふらすすむ。大谷君って、小さい時から目標を一つに決めてブレずに来ているから、日本一なりゆきに任せない生き方しているよね・・・というところから、大谷君はそれでいいかもしれないけれど、みんながそんな人ばっかりだったらあんまりいい社会じゃないんじゃないか、とか。なりゆき=アクシデントできちっと立ててきたデートプランが崩れちゃったというつながりから、でもプランは崩れたんだけど「しょうがない」って愉快な気持ちになったんだ、というエピソードが出てきたり。その他、家事のこと、就活のこと、病気のこと、あんまりテーマと関係なさそうなことまでポロポロと出てきた。だいたいそういう話は、そのひとがいま一番気になっていることがらだから話が面白くて、聞くほうも興味を惹かれて、だんだん遠くのほうへ話が脱線していく。ああいい感じで、脱線しているな、と思っていたら2時間があっという間に過ぎて、カフェは終了。(スタッフN)