コースの沿革

令和3年4月から「生物先端科学コース」がスタートしました!

沿革

京都大学農学部は大正12年(1923年)11月に設置され、その翌年に(1924年)、農林園芸学科・林学科・農林化学科・農林生物学科・農林工学科・農林経済学科の6学科が設置されました。

生物先端科学コースはこのうち農林生物学科に由来しています。

農林生物学科はその後、平成7年(1995年)(10学科を3学科に)、平成13年(2001年)(3学科を6学科に)の2度の農学部改組を経て、現在は資源生物科学科の一部となっています。

そして令和3年度(2021年度)より資源生物科学科はコース制を導入することとなり、農林生物学科を構成していた8分野(研究室)は「生物先端科学コース」として再結集します。

生物先端科学コースでは、農学部設置以来、農林生物学科の時代から連綿と受け継がれてきた、学問の基礎を最重要とする教育研究を展開しようとしています。


農林生物学科は、理学部の動物学・植物学の両学科(生物学科を分割して、 1921[大正10] 年に発足)と緊密に連携し、農林学の基礎となる生物学の教育・研究に携わることを意図して創設された。これは、基礎学(純粋科学)が、究極において、農林学および農林業の発展に貢献するとの考えに基づくものである(『京都大学農学部60年史』)。これが、その後の本学科の性格を大きく規定することとなった。このような性格の学科を新設の本学部に設置したことは、一方では社会に新鮮なインパクトを与え、他方では、実学としての農学のなかの異端として受け止められた。

―『京都大学農学部70年史』より

農林生物学科は、一つのきわだった特色をもつ。それは、農学部のなかにあって、きわめて理学的であり、研究・教育・学科運営すべての面において、個々の教官・学生の自主性を重んじることを伝統としてきたことである。これは、創設時の理念とその実現を目指した教授陣の構成に基づくところが大きい。

―『京都大学農学部70年史』より

京都大学は、別名、探検大学といわれるが、その中心的拠点が本学科であった。これは木原均今西錦司の両先達と、それに続く多くの人たちの活躍に負うものである。1938(昭和3)年の内蒙古生物学調査はその走りであるが、これには本学科より、木原均(隊長)、今西錦司、大井次三郎平吉功が参加した。この調査行がその後の生物学探検の出発点となった。

―『京都大学農学部70年史』より

(前略)このような、今はやりの言葉でいえば、学際的分野を担ってスタートし、 しかも自主性を重んずる気風に富んだ学科であったため、個性ある研究者が輩出し、顕著な学問的貢献をしてきた。(中略)ここではゲノム分析法を創案した木原均(文化勲章受章)、生物社会学に新分野を開拓した今西錦司(文化勲章受章)、わが国イネ科植物の分類学を大成した大井次三郎(国立科学博物館)、熱帯衛生昆虫学を確立した大森南三郎(長崎大学風土病研究所を創立)、実験個体群生態学を創始した内田俊郎(アメリカ生態学会名誉会員、日本農学会賞受賞)、林木の育種・遺伝学にユニークな貢献をした外山三郎(朝日森林文化賞受賞)、植物探検に大きな足跡を残した中尾佐助(大阪府立大学名誉教授、毎日新聞社出版文化賞受賞)、実験集団遺伝学の確立に寄与した向井輝美(日本学士院フィリップス賞受賞)の名を挙げるに止めよう。

―『京都大学農学部70年史』より

木原 均

The History of the Earth is recorded in the Layers of its Crust;

The History of all Organisms is inscribed in the Chromosomes.

地球の歴史は地層に 生物の歴史は染色体に記されてある。

(木原記念横浜生命科学振興財団HPより引用)


小麦の歴史はこの染色体に刻まれてあって、恰も地球の歴史が地層と云う書物で読めるやうに、こゝから小麦の分類や祖先の発見がなされるのである。

— 木原均『小麦の祖先』(1947年)


生命科学を地球の医師に

生命科学の一定義は、「生命科学は生命に関するすべての分野を総動員して人類生存の活路を見出そうとする総合学術である」としています。 生命科学の役割はたくさんありますが、とりわけ人口の爆発的増加、資源の枯渇、環境汚染等の対策には、全人類規模で当たらなければなりません。 地球は人間だけのものではなく、全ての生物がここで生を営んでいるのです。他の生物なしでは人間は生きることができません。 このままなりゆきまかせで行くならば、いつかは自滅することでしょう。 医師が人類の病気を予防したり治療するように、生命科学は地球の医師となって働いてほしいものです。

—1976年9月14日 北海道大学創基百周年記念講演

(木原記念横浜生命科学振興財団HPより引用)


1893(明治26)年10月21日東京生まれ 1986(昭和61)年7月27日逝去。

理学博士、日本学士院会員。

北海道帝国大学農学部卒、京都大学農学部教授(農林生物学科 実験遺伝学講座 (現・植物遺伝学分野) 初代教授)(1927-1956)、国立遺伝学研究所長(1955-1969)、(財)木原生物学研究所長(1942-1984)等を歴任。

高等植物の遺伝学、進化学の研究で数々の業績を残す。

特に「ゲノム説」の提唱(1931)、栽培コムギの祖先の発見、スイバによる高等植物の性染色体の発見、タネナシスイカの作出、 細胞質遺伝の研究等で世界的な評価がある。また、海外に植物探索行を重ねて数々のフィールドワークを行った。

日本のスキー草創期の一人でもあり、冬季オリンピック選手団長をつとめ、スポーツ界にも足跡を残した。

文化勲章(1948)、文化功労者(1951)、勲一等旭日大綬章(1975)を受章。

―木原記念横浜生命科学振興財団HPを一部改変して引用

今西 錦司

1902(明治35)年1月6日生まれ、1992(平成4)年6月15日逝去

氏は、独創的な発想と大胆な行動をもって、日本各地のニホンザルの生態研究を初めとして、動植物の生態についての広範な研究分野を開拓し、また、数多く海外学術調査団を組織して野外調査分野の発展に貢献されるとともに、我が国の霊長類学、人類学及び生物社会学を体系化し、これを世界的水準にまで高められた。特に、かげろうの生態研究から生み出された「棲み分け理論」は、ダーウィンの進化論と対峙する今西進化論として世界的に高い評価を受けている。

また、教育の面においても幅広く後進の育成に尽力されるとともに、文化勲章受章者として多方面に活躍されるなど、学術文化の向上に大きく寄与された。


<略歴>

昭和3年3月 京都帝国大学農学部農林生物学科卒業 (昆虫学講座(現・昆虫生態学分野)

昭和8年3月 京都帝国大学理学部講師

昭和14年12月 理学博士

昭和34年6月 京都大学人文科学研究所教授

昭和40年4月 日本人類学会評議員

昭和40年5月 岡山大学教養部教授

昭和41年4月 日本民族学会理事

昭和42年6月 岐阜大学長

昭和46年4月 岐阜県図書館協会会長

昭和48年6月 岐阜大学名誉教授

昭和49年6月 京都大学名誉教授

昭和53年4月 日本アフリカ学会顧問

<受賞>

昭和43年1月 朝日賞

昭和47年4月 勲ニ等瑞宝章

昭和47年11月 文化功労者として顕彰される

昭和54年11月 文化勲章

平成4年6月 従三位勲一等瑞宝章

―京都市HP「京都市名誉市民 今西錦司氏」を一部改変して引用

桐谷 圭司

1929年 大阪府生まれ、2020年2月2日逝去

1954年 京都大学農学部 農林生物学科卒業昆虫学講座現・昆虫生態学分野

1954年 京都大学大学院農学研究科博士課程中退

1959年 和歌山県農業試験場朝来試験地主任

1966年 高知県農業技術研究所専門研究員

1979年 農林水産省農業技術研究所昆虫科害虫防除第2研究室長

1983年 農林水産省農業環境技術研究所昆虫管理科長

1989年 アジア・太平洋地区食糧技術センター副所長

1996年 農林水産省農業環境技術研究所名誉研究員

アメリカ昆虫学会フェロー、日本応用動物昆虫学会名誉会員

紫綬褒章、環境庁長官賞、日本農学賞、読売農学賞、日経地球環境技術賞、日本応用動物昆虫学会賞などを受賞。

IPM(総合的病害虫管理)、IBM(総合的生物多様性管理)を提唱。「減農薬」という言葉を造語し普及させた、日本を代表する生態学者、応用昆虫学者。

地球温暖化、外来昆虫、総合的生物多様性管理、人為撹乱による生物多様性の変化など、膨大な野外調査・研究を行い、文字通り生涯現役を貫いた。