"KYOTO" group exhibition

性というテーマは、突然、自分の中にふと降りてきました。


今回の展示場所が銭湯だったということもあり、「江戸時代は混浴だったよな~」という心地よい連想と、公共の場で、裸での交流が銭湯くらいだったんじゃないだろうか、そんなことを考えていました。



性という言葉や歴史を調べるにつれて、調べれば調べるほどに「性」というものがよく分からないものだということがわかりました。頭では理解できるような気がしますが、それに実在感(リアリティ)を感じることが難しかったのです。


頭で理解した後に身体で理解が深まったり、身体が理解していることを頭が理解するようになったりして、それが暗黙知や身体的な概念になります。そうか僕は、僕が感じる「性」に向き合った方がいい、そう感じるようになりました。


それぞれがリアリティのある「性」に向き合うことが、今に意味のあるアートを生み出すのではないか、と考えました。そして、それぞれが生み出した物の総体が、現代の「性」を部分的にでも表現することにつながるだろうと考えました。


性は何によって規定されるのか、それがどのような変遷の歴史を辿っているのかが少しずつわかるようになってきました。男性器(ファルス)信仰であったり、女性器(ヴァギナ)仰であったりと、その言師の象徴は、世界に形を成して、今もなお至る所に遺っています。今では、それが残っていることを分からないほどに、当たり前の概念となり、私たちの行動を規定していることに驚きます。


この身体的な概念を探索する中で、「いき」という概念に出会います。「おまえさん、いきだね~」と聞くと江戸っ子のような印象を受けますが、江戸っこだけでなく、「いき」という概念によって、私たち日本人の「性」の捉え方が規定されているということに気づきました。


九鬼周造の研究を記した「いきの構造」では、「いきごと」と言えば、「いろごと」のことを意味するように、異性との関係が「いき」の根本要素となっています。


男女間の「緊張とゆるみ」の中にみてとる「いき」という概念は、知らず知らずのうちに、「色っぽい」、「美しい」、「魅力的」、そんな評価を無意識の内に与えています。染まっていることすら分からないのが、暗黙知であり、身体的な概念です。


今回は、果実という被写体をブループリントで写しています。果実の美しく繋った断面と咀職された野生的な断面の対比を用いて、「いき」という概念を表現しています。禁じられた果実のように魅力的で、食べた者と一体化しながら子孫を繋げる果実を象徴としました。


写真表面の砂糖の結晶(飴)は、作品と鑑賞者の境界に飴を塗ることで、作品と鑑賞者の境界を溶かす試みをしています。飴を舐めていたら、気づいたらなくなっていて体の一部になっている、そんな錯覚を作品に持って頂きたいと思います。「いき」という概念を明るみにすることで、日本人の「性」という文化に迫ります。


※より詳細な部分は、Youtubeの作品紹介で話している記録をご覧ください。