○ まずは最初に、今年( 2018 年)の正月に〈古伯耆〉が発見されたという記事を「朝日新聞」からの引用文で。
奈良・春日大社が所蔵する太刀について、12 世紀の平安時代後期につくられた「古伯耆[こほうき]」と呼ばれる最古級の日本刀だったことが分かった。春日大社が 22 日発表した。……
日本の刀剣は、古代遺跡での出土品や正倉院宝物などにみられる反りのない「直刀」から、平安後期に反りなどの付いた現在の日本刀の形が成立。伯耆国(現鳥取県中西部)で作られた「古伯耆」などが最初期のものとされる。
刀は無銘で、刃の長さが 82.4 ㌢。鞘[さや]などの外装は南北朝~室町時代に作られた黒漆山金作太刀拵[くろうるしやまがねづくりたちこしらえ]とされる。大社によると、刃文の特徴などから古伯耆の中でも最古とみられる「安綱[やすつな]」の作の可能性がある。このほかに古伯耆は十数点の国宝・重要文化財がある。東京国立博物館の酒井元樹主任研究員(日本工芸史)は「これだけ長寸の古伯耆で、外装も残っているのは珍しい」と話す。
太刀は 1939(昭和14)年、宝庫天井裏から発見された 12 振りのうちの 1 振り。刀身がさびていたので詳細が不明だったが、2016 年度から第 60 次式年造替[しきねんぞうたい]を記念して研磨したことで詳細が判明した。刀は 30 日から、春日大社国宝殿で展示される。3 月 26 日まで。…………(宮崎亮)
〔『朝日新聞』 2018 年 1 月 23 日 朝刊 (p. 33) 〕
○ ここで、伯耆の刀匠「大原安綱」について、郷土の資料を参照しよう。
大原安綱
名は三郎太夫、または太郎太夫という。伯耆国大原刀匠の祖であって、古今屈指の名工である。以後、伯耆の地には刀匠が輩出した。源氏の鬼切、利仁将軍が越前気比宮に奉献した太刀[たち]、および、坂上田村麿が伊勢神宮に奉献した太刀は、いずれも安綱の作であるという。「源頼光から伝えられた新田義貞朝臣の鬼切という太刀は、伯耆国会見郡の大原五郎太夫安綱という鍛冶が一心清浄の誠を以て鍛え出した剣である。」とある。
完成された太刀姿を示した安綱の作刀は、永延(九八七-九八八)ごろと伝える古備前友成などに共通するところが多いという学者もあるが、はっきりしない。けれども今、会見郡には大原の地名はない。『太平記』三十二番巻「直冬上洛のこと附鬼丸鬼切の事」の条に出ている。『伯耆民談記』には、安綱は、河村郡(今の倉吉市内)大原の者とし、鍛冶屋敷の地名が今もあり、ここに住んでいたとある。
大原安綱が刀にそりをつけたことは、直刀の場合突くことが主であったのに対し切りつけることが主となり、片方だけ刃をつけることとなった。そして実用的効果を表わすとともに曲線美を得て優美な姿を持つことになった。
〔『倉吉市史』 (p. 868) 〕
太刀 銘 安 綱(国宝名物童子切安綱) 東京国立博物館蔵
刃長 二尺六寸四分、反り 八分九厘、鎬造り、庵棟。…… 中心生ぶ鑢目切り目釘穴棟寄りに二字銘「安綱」と切り「安」の字よりも「綱」の字が大きくなるのが特色である。
室町時代より天下五剣の一として名高く、秀吉の所有となり家康に伝えられ、江戸時代は作州津山の松平家に伝来し現在国の所有となっている。この童子切が源頼光と結びついて伝説化したのは室町時代のこととおもわれる。安綱在銘刀中最右翼でありかつ典型作で、小板目の鍛えに地沸が厚く沸の深い小乱刃が変化に富んだ作風は天下五剣の称にふさわしい。
〔『因伯の刀工と鐔』 (p. 12) 〕
○ 今年「大山開山 1300 年祭」を予定していた鳥取県では「古伯耆物」の報道を受けて、翌月には知事が春日大社を訪問したことが、地元紙で報じられている。伯耆国を代表する山の祭りに、まるで合わせたかのような「古伯耆物」の発見ではあった。
最古級日本刀「古伯耆物」―― 県に貸し出し検討
鳥取県の平井伸治知事が 14 日、平安時代末期の伯耆国(県中西部)で作られた最古級の日本刀「古伯耆物[こほうきもの]」を所蔵する春日大社(奈良市)を訪ねた。花山院弘匡宮司は、伯耆国の刀工「安綱[やすつな]」顕彰組織を発足する平井知事の提案に同調。春日大社の国宝殿で現在展示中の古伯耆物を鳥取県に貸し出す可能性も検討する意向で、奈良に眠る「伯耆の名刀」は広く脚光を浴びつつある。(深田巧、今井壮)
鳥取県は伯耆国「大山開山 1300 年祭」の一環として、安綱ゆかりの刀展示を今夏に予定。鬼の酒呑童子[しゅてんどうじ]の首を切ったという伝承がある国宝「童子切[どうじぎり]」(東京国立博物館所蔵)で名高い安綱に焦点を当てることにしている。
一方、神殿に奉安された神宝は「神社界として美術品扱いできない」(春日大社関係者)事情がある。特に、古伯耆物であることが最近判明したばかりの日本刀についてはまだ「門外不出」だが、安綱顕彰や日本刀の魅力を発信する組織の趣旨を踏まえ、花山院宮司は「(貸し出しも含め)前向きな話をしていきたい」と語った。
両氏が申し合わせて 14 日に設立した組織の正式名称は「名刀『古伯耆物』日本刀顕彰連合」。平井知事は「刀剣に憧れる若い人も増えている。日本文化を見直すチャンス」と呼び掛け、花山院宮司は「大和と伯耆の歴史の中で進めていきたい」と応えた。
〔『日本海新聞』 2018 年 2 月 15 日 (p. 23) 〕
―― 春日大社で発見された〈古伯耆物〉についての、鳥取県の公式見解は、
● 鳥取県公式ホームページ「とりネット」報道提供資料ページ に、次のように記されている。
○春日大社の宝庫で見つかった太刀が伯耆国(鳥取県の中西部)の刀工によって平安時代後期に製作された最古級の日本刀と判明したとの発表が1月22日になされた。
○持ち手付近の反り、刃文等の形状から平安時代末期に伯耆国で製作された「古伯耆物」と判断。また、古伯耆物であることは識者の一致するところであり、作者の銘はないものの、刀身の古さから、国宝「童子切」で有名な伯耆の刀工「安綱」の作の可能性があるとされている。
○ 詳細は、
http://db.pref.tottori.jp/pressrelease.nsf/webview/AF617C7F09FE4D914925822E0013F0FF?OpenDocument で確認されたい。
● また、鳥取県公式サイト「とりネット」知事のページ には、知事の会見が掲載されている。
大山[開山]1300年祭も始まりまして、おかげさまで大山寺で販売をされていましたけれども、特別の御朱印帳も完売をしたり、それから大山の切手も完売をしたり、非常に出だしは好調なのかなという手応えも関係者は感じておられます。このたび、私も向こう[春日大社]へ出向きまして、花山院[弘匡(かさんのいんひろただ)春日大社]宮司と御相談させていただきましたけれども、春日大社の宝刀であります安綱の刀を、春日大社の絶大な御協力をいただき、里帰りとして7月29日から始まります展覧会[特別展示「大山山麓の至宝」]に展示物としてお迎えをする、そういう話がまとまりました。このほかにも安綱ゆかりの刀を打診をしているところでございます。春日大社さんには心から感謝申し上げたいと思いますし、春日大社の刀剣のコレクションのすばらしさ、これもこうした機会を通じて、我々も一緒になってアピールをしてまいりたいというふうに考えております。
〔知事定例記者会見(2018年5月25日)( https://www.pref.tottori.lg.jp/275403.htm#7 ) 〕
○ この、春日大社からの〈古伯耆物〉の〝貸し出し〟は実現した。
【好評開催中!】2018/7/29 ~ 8/26 大山山麓の至宝 ~「大山」ゆかりの刀を中心に~
伯耆国の刀匠「安綱(やすつな)」在銘の太刀3口をはじめ、春日大社所蔵の古伯耆(こほうき)などの大山ゆかりの刀を中心に、国重要文化財《銅造観世音菩薩立像》などの大山の重宝、あわせて計97点を一堂に展示します。
〔米子市美術館 -Yonago City Museum of Art- ( http://www.yonagobunka.net/y-moa/ ) 〕
―― 展示内容の詳細は、上記のリンクからたどって確認されたい。
さて鳥取県西部、伯耆国(ほうきのくに)に位置する、海抜 1,729 m の大山(だいせん)は、〈伯耆大山〉とも〈伯耆富士〉ともいわれる。その頂上が一般には標高が 20 m 低い、1,709 m の〝弥山〟とされていることについては、
● 鳥取県公式サイト「とりネット」警察本部 にて、次の情報が確認できる。
大山(だいせん)は、中国地方の最高峰(弥山から標高1,709メートル)であり、北西側の姿から別名「伯耆富士」との愛称が付けられ、全国各地から愛好家の方などが来訪され登山を楽しまれています。
※大山の最高峰は、標高1,729メートルの剣ヶ峰ですが、そこまでの縦走路は崩落が激しく危険なため立入り禁止になっています。現在、大山の頂上は標高1,709メートルの弥山となっています。
〔大山登山情報/鳥取県公式サイト「とりネット」警察本部 ( https://www.pref.tottori.lg.jp/policedaisen/ ) 〕
――〝弥山〟のほぼ真東に〝剣ヶ峰〟は位置し(東北東に約 1.45 °)、座標間の計算によると、水平距離で 567 m ほど離れている。
上に引用した『倉吉市史』に、安綱は「伯耆国大原」の刀匠であることが書かれていた。それに続けて「以後、伯耆の地には刀匠が輩出した」とあるけれど、伯耆の国には明治時代に活躍した宮本包則がいる。
○ 宮本包則(みやもとかねのり)の、郷土の資料にある記録から。
宮本包則翁は我が郷土出身者中最も優れたる人にして、明治の正宗と称され恐れ多くも上は天皇の御守刀、伊勢の皇大神宮の御宝刀より、其の他全国名ある神社の御宝刀を鍛うる事其の数実に多し。校下大字大柿村の中央津山街道の横に翁の功を賞せし碑あり。
〔『宮本包則刀剣展』 (p.2) 〕
彼の来歴の概略を知ることのできる書に「伯耆国刀工、元能登守菅原包則履歴」なる一冊子がある。それによって、郷土の刀鍛冶として名を知られた包則を知りたいと思う。
この書の編者は河村郡西郷村の岩根則重であって、包則の弟子であると自記している。おそらく、最も信頼できる包則の研究書であろうと思う。その書によると、
「吾が師、宮本包則は幼時は沢次郎、後に志賀彦と称す。姓菅原。元横木氏。後宮本氏に改む。父を惣右衛門といい代々醸家であった。母は石原氏(木地山村)で名は多加といった。師は其の第二子で、天保元年(一八三〇)八月二十五日(実は文政十三年)河村郡大柿村に生れた。
其の隣接する大原の地は古昔、刀工の名手安綱・真守等の住せし処である。……
…………
慶応二年(一八六六) 勅命によって、聖上(孝明天皇)の御太刀(長さ二尺三寸)を鍛えて奉る。
同三年三月二十三日、能登守に任ぜられる。
明治元年正月、官軍の東征に従い、大津の陣中にあって戦刀数口を造る。二月二十五日草津駅において大総督有栖川宮へ陣中鍛える太刀一口を献じた。
同年夏、三条西卿(季知)より佩刀を作るべき旨を命ぜらる。卿に告げて曰く
「洛東稲荷神社の後山、三か峰は名匠宗近が参籠して鍛冶せし遺跡である。包則も其の轍を踏み、閣下の刀を造らんと欲す。」
と、乃ち同神社の許可を得て仮居を構え、七月五日より沐浴斎戒して卿の刀を鍛うるに、同月十一日俄に勅命を蒙り、今上の御太刀(二尺三寸)及び御短刀(八寸五分)を鍛えて奉る。因って御賞として金四十三両を賜う。此の鍛錬中(八月十五日)卿自ら来りて見る。
最後に刀一口を造りて神社に納参。…………
〔『続 三朝町誌』 (p.528, pp.529-530) 〕
―― 伝記の詳細は各資料によられたいが、『続 三朝町誌』の 530 ページには、明治元年に「伊勢皇太神宮の御造営につき、御太刀三十二口を鍛造して上納した。」と続き、535 ページに「大正十五年に他界した。」と、記録されている。大正十五年( 1926 年)は 12 月 25 日に、昭和元年となった。
江戸時代の末( 1830 年)に生まれた宮本包則が、「帝室技芸員」に任命されたのは、明治 39 (1906) 年のことであった。余談ではあるが。七十七歳の祝賀を喜寿という。
同じ時代、明治 37 年に創業した米子製鋼所の鋼は、「少なくとも明治 41 年から大阪造幣局の貨幣極印用として買上げられてきた」ことが、先に〝〈印賀鋼〉最強伝説 〟で確認できた。
けれども、その原材料となったはずの砂鉄の採取地は、明確な記録が未だ確認できていない。資料を探していたおりのことだ。それには当時の事情が関係すると、教えられたことがある。おそらくは 21 世紀の現在と違い、門外不出の企業秘密としなければ、鉄製品の製法等は、すぐに盗まれ、あげくのはてにはブランド名を模した粗悪品の横行などが、当然の時代ではあったのだろう。
○ 日本刀の素材の砂鉄も、ならばいっそう原産地の明記されたものは皆無であろうと思われたなか、〝帝室御刀鍛冶〟宮本包則作の銘に「余川山ノ蹈鞴テ造ル」と刻まれた太刀があった。太刀の銘文と、その解説を参照しよう(次の資料には、太刀の銘文がはっきり読めるよう撮影された原寸大印影がある)。
石原孟明氏蔵
於東京□□□竹田生明治三十五年十一月吉日
□□□祖石原荘次郎ガ寛延二年伯耆国河村郡竹田谷
余川山ノ蹈鞴テ造ル□鋼ヲ以テ其五代孫石原平八郎君為作之
解説
包則の母方、石原家への為打である。石原家は、大柿村と同じ河村郡竹田村の「木地山」である。この木地山は、岡山県に近い国道一七九号線沿いにあり、中国山脈の懐にある。この近くの余川山より蹈鞴[たたら]にて造る鋼にて、この刀を鍛えたとあり、木地山字今井谷たたら遺跡との関連もある。ここの鉄山墓地には「村下[むらげ]孫四郎」なる宝暦年間の墓もある。母方の地より東京迄玉鋼を運ばせ、鍛えた貴重な一振りである。但し、この鋼を後に使ったとの作刀は今のところ無い。―――― 銘文中、於東京[伯耆国]、裏は[包則母]かと思われる。
〔『帝室技芸員 宮本包則刀六十撰』 (p. 59) 〕
下に、伯耆国の地図を示す。一番東側のマーカーは「穴鴨」である。
先に引用した『宮本包則刀剣展』の 32 ページにも、同じ太刀の解説付き印影がある。その解説に「余川山とは、当時で云う所の河村郡穴鴨村の近くである。」という一文がある。
現在の地図で「三朝町穴鴨」は確認できる。「穴鴨」の東に「木地山」がある。西には「下西谷」が接していて、その付近で国道 179 号線に国道 482 号線が合流しており、合流地点の少し西、国道 482 号線の南側に〈竹田神社〉があることが確認できる。
以下、引用・参照文献の情報