別ページの記述から 関連事項を再掲する
◉ 山田新一郎氏が鳥取県知事を拝命した翌年の明治 40 年 5 月には、当時は皇太子であったのちの大正天皇が、山陰鉄道の開通記念に〝風土記の時代には夜見島であった〟境港から上陸して鳥取県に来訪、米子・倉吉・鳥取に宿泊しつつ、鳥取県を東西に往復する鉄道の旅程を無事に終えて、その後、出雲大社のある島根県を訪問している。
旅の途中鳥取市に宿泊した折には、〈印賀鋼〉を鉄材として、刀工日置兼次による刀鍛冶の実演が、皇太子の前で披露された。その刀剣の銘は「明治四十年五月吉日久松山麓に於て兼次作」と切られたと記録されている〔『山陰道行啓錄』「鳥取縣」(p. 74) 参照(国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能)〕。
〖 ※ 日置兼次は、20 年前の明治 20 年 2 月 28 日、伊勢神宮の宝剣鍛造のために通勤していた靖国神社の鍛錬場にて鍛えた八寸五分の短刀一口「因幡兼光十二代日置兼次作」を皇太子(当時数え年九歳)に奉献した刀工である。〗
◉ ところで、かつて判明したところによれば、「米子製鋼所の鋼は、少なくとも明治 41 年から大阪造幣局の貨幣極印用として買上げられてきた」のだった〔〈印賀鋼〉最強伝説 のページ 参照〕。
―― そのような記録をたどれば、山田新一郎氏が鳥取県知事の職にあった時期はちょうど、鉄製品で、鳥取県の技術が日本一になる出来事が進行していたという、時代の流れを捉えることもできよう。
◎ 明治 40 年には、山陰鉄道の「上井-鳥取間(倉吉-鳥取間)」が開通した。そうでなければ、その年に皇太子は、米子から東進して、鳥取までの山陰鉄道の旅程を完遂することができなかったはずだ。しかしながら、場合によって「倉吉-鳥取間」の鉄道の開通は明治 41 年と記録されている。
―― このことについて調べてみると、皇太子が「鳥取」で下車したのは、「古海(ふるみ)」に設けられた臨時の停車場で、それは「千代川(せんだいがわ)」の西岸にあった。現在の「鳥取駅」は、そこから千代川を東に渡った先にある。ようするに明治 40 年の皇太子行啓には千代川を渡る鉄橋の完成が間に合わなかったのだ。
鳥取県庁や鳥取城跡のある久松山(きゅうしょうざん)〔敷地内の屋敷で刀鍛冶が披露された皇太子の宿泊先の「仁風閣」は久松山の麓にある〕を含む鳥取市街地は、千代川を渡った東側、鳥取駅の北に位置するので、つまり「倉吉-鳥取間」の鉄道の完全開通は千代川の鉄橋が開通した明治 41 年ということになるらしい。
※ 仁風閣の名称は皇太子に随行していた東郷平八郎によって命名された。余話として、現在は国の重要文化財となっている仁風閣の敷地内で、映画「るろうに剣心」の戦闘シーンを伴う撮影が 2011 年 9 月に行なわれた。
明治 40 年 5 月、嘉仁皇太子は山陰道行啓(さんいんどうぎょうけい)に際し、鳥取市にも数日滞在した。
当初は池田家の別邸として「扇御殿」の跡地に計画されていた、宿泊先の「扇邸」は、鳥取城趾の石垣がいまも残る久松山(きゅうしょうざん)の麓、城と鳥取の城下町とを区分する〝お堀〟の内側 ―― 山側 ―― に位置し、宿舎として使用される直前の明治 40 年 5 月 11 日頃に竣工した。
現在は鳥取県立博物館の建つ敷地部分は、扇邸の果樹園だったという。扇邸の仁風閣(じんぷうかく)が皇太子の宿とされた。上の文中にもあるが「仁風閣」の名は東郷平八郎による。
○ 2004 年に仁風閣から発行された資料で当時の詳細が語られている。命名に至る経緯を抜粋しよう。
明治天皇の山陰行幸[ぎょうこう]は「道路不便」などの理由で実現に至らず、ようやく嘉仁[よしひと]皇太子の行啓が明治 37 年 (1904) に内定しましたが、日露戦争の勃発で見送りになっています。この時は日本赤十字社鳥取支部を宿舎にする予定でした。
明治 40 年、ついに東宮[とうぐう]・嘉仁皇太子の行啓が実現します。東京・新橋停車場を 5 月 10 日に出発し、さきの日露戦争日本海海戦で司令長官をつとめた海軍大将東郷平八郎も随行しました。お召し列車で舞鶴に至り、14 日には戦艦鹿島で美保関[みほのせき]まで航行。翌 15 日に境に上陸、15・16 日は米子、17 日は倉吉に行啓しています。鳥取仮停車場に到着したのは 18 日のことです。池田侯爵・山田知事・藤岡市長ほか大勢でお迎えしました。鳥取に滞在した 18 日から 21 日まで( 3 泊 4 日)の御座所(宿舎)が「仁風閣」です。その命名は東郷平八郎によるものです。
…………
行啓の僅か 2 年前、東郷は連合艦隊司令長官として日露戦争日本海海戦にのぞみ、ロシアのバルチック艦隊を撃破した当時の英雄です。鳥取市議会もすぐに祝電を打ったようです。
東郷は行啓の随行で鳥取に滞在中、高等小学校と樗谿の招魂社に松を手植えしています。また仁風閣には池田侯爵の依頼により揮毫・命名された「仁風閣」の直筆が今も 2 階ロビーに残されています。
〔『仁風閣の周辺』(p. 8, p. 10) 〕
―― 5 月 20 日、扇邸の庭に設けられた鍛冶場に、刀工として日置兼次が参上した。
○ 1907 年に刀剣鍛錬が皇太子(のちの大正天皇)の前で実演された記録を引用する。
「刀鍛冶御覽」
二十日午後二時半扇邸內に散歩松の御手植ありたる後本縣名譽の刀工日置兼次氏の刀劍鍛練の事ありたり 殿下には扇邸內御山屋敷にて御覽あらせられたるが鐵材は伯耆國印賀鋼を以し鍛練半にして水に漬し冷却せしめたる後之を叩き割りて鋼の目合せを驗し上中下の三に別ち上を皮金と爲し中を峰金となし下は等分に鐵を合せて眞金と爲し更に鍛練前後九度に及びかくて京都稻荷山の土肥後天草の石因幡の堅炭を細末となして等分に混じ之を水に練りたるものにて刀身を塗り再び火中にて熱し更に水に漬し此の如くして燒刄を入れ後硏砥にて硏ぎ峰に赤金を嚙まし反を附けて最後に「明治四十年五月吉日久松山麓に於て兼次作」と銘を切り全く終へたるは午後三時五十分 殿下は終始熱心に御覽ありたりと承る兼次氏の名譽も大なりと謂ふべし
因に日置兼次氏は仁平と稱し先代は兼先と稱して鳥取藩の刀工なり仁平氏幼より父に學ひ長じて長船に到り後江戶に技を硏きぬ廢藩後舊里に居りしが先年陛下の伊勢大廟に納劍あるに際し倉吉の宮本包則氏と共に召されたるなり當年六十八歲の老體なり鍛劍御覽の向ふ槌を打ちしは左の四名なりし
福嶋伊平賢路△同人門人林芳造△籔片原町植村榮治△同人忰秀雄
〔紀念『山陰道行啓錄』「鳥取縣」(p. 74) 〕
◉ 因州刀匠日置兼次が伯州刀匠宮本包則とともに伊勢神宮の宝剣鍛造を行なったのは、明治 40 年 (1907) から遡ること 20 年前の東京だった。
伝記によれば、天保 11 年 (1840) の 6 月 8 日、日置兼次は因幡国の鳥取市二階町鉋工榎並東兵衛の三男として生まれた。その 10 年前の天保元年 8 月 25 日に宮本包則は伯耆国河村郡大柿村の旧家の二男として生まれ、そして昭和元年に歿したという。
1968 年に明治新政府が成立して 3 年後の明治 4 年 (1871) に「廃藩置県」があり、同じ年、文明開化の象徴として髷(まげ)を落とし刀を帯びないことを自由にした「散髪脱刀令(さんぱつだっとうれい)」が公布された。5 年後の明治 9 年 (1876) には「廃刀令(はいとうれい)」が公布され、その明治 9 年から、日置兼次は鳥取県庁に勤務している。「西南戦争」の前年である。
明治 18 年 (1885) に内務省神宮庁からの通達「伊勢神宮宝剣鍛造御用之儀」があり、日置兼次は宮本包則とともに、大小合わせて 3,800 本以上の宝剣を製作することとなった。
(その年に「太政官制」に代わって「内閣制度」が創設され、伊藤博文が初代の内閣総理大臣となっている。このとき、宮中を政治から離すために「宮内省」は閣外に置かれた。)◉ 靖国神社に設けられた鍛錬場で、鳥取県の因幡国と伯耆国をそれぞれ代表する二人の刀匠により大量の刀剣が鍛え上げられた。国が計画したこの事業は、古事記と日本書紀に残された記録を彷彿とさせるものがある。
◎ 古事記には垂仁天皇の時代に
「次印色入日子命者、作血沼池、又作狹山池、又作日下之高津池。」に続いて、
「又坐鳥取之河上宮、令作横刀壹仟口、是奉納石上神宮、卽坐其宮、定河上部也。」とある。
◎ 日本書紀には垂仁天皇三十九年十月の条に
「五十瓊敷命、居於茅渟菟砥川上宮、作劒一千口。因名其劒、謂川上部。」と記され、
「藏于石上神宮也。」とするのも、古事記と同じである。
現在の定説として「鳥取之河上宮」と「菟砥川上宮」は同じ場所を指す。鳥取は和名抄にある「和泉国日根郡鳥取郷」とされており、和名抄原典『倭名類聚鈔(わみょうるいじゅしょう)』で、和泉国日根郡に「鳥取〔止々利〕」が確認できる。「止々利」の読みは「トトリ」である。
The End of Takechan
○ 宮本包則は明治 39 年に「帝室技芸員」となっている。草信博氏による解説を参照しよう。
宮本包則の「帝室技芸員」とは戦前迄の制度で、現在は重要無形文化財制度であり、その保持者が所請「人間国宝」である。この帝室技芸員制度は、明治二十三年に日本画・洋画・彫刻等々の他刀工・金工なども選ばれ、刀工では「宮本包則」と「月山貞一」との二名であった。
〔『帝室技芸員 宮本包則刀六十撰』(p. 95) 〕
○ 宮本包則の略歴は先にも紹介した。前回の『続 三朝町誌』からの引用を再掲して、その後の消息を『宮本包則刀剣展』によって続けよう。
刀匠 宮本包則伝
彼の来歴の概略を知ることのできる書に「伯耆国刀工、元能登守菅原包則履歴」なる一冊子がある。それによって、郷土の刀鍛冶として名を知られた包則を知りたいと思う。
この書の編者は河村郡西郷村の岩根則重であって、包則の弟子であると自記している。おそらく、最も信頼できる包則の研究書であろうと思う。その書によると、
「吾が師、宮本包則は幼時は沢次郎、後に志賀彦と称す。姓菅原。元横木氏。後宮本氏に改む。父を惣右衛門といい代々醸家であった。母は石原氏(木地山村)で名は多加といった。師は其の第二子で、天保元年(一八三〇)八月二十五日(実は文政十三年)河村郡大柿村に生れた。
其の隣接する大原の地は古昔、刀工の名手安綱・真守等の住せし処である。……
…………
慶応二年(一八六六) 勅命によって、聖上(孝明天皇)の御太刀(長さ二尺三寸)を鍛えて奉る。
同三年三月二十三日、能登守に任ぜられる。
明治元年正月、官軍の東征に従い、大津の陣中にあって戦刀数口を造る。二月二十五日草津駅において大総督有栖川宮へ陣中鍛える太刀一口を献じた。
同年夏、三条西卿(季知)より佩刀を作るべき旨を命ぜらる。卿に告げて曰く
「洛東稲荷神社の後山、三か峰は名匠宗近が参籠して鍛冶せし遺跡である。包則も其の轍を踏み、閣下の刀を造らんと欲す。」
と、乃ち同神社の許可を得て仮居を構え、七月五日より沐浴斎戒して卿の刀を鍛うるに、同月十一日俄に勅命を蒙り、今上の御太刀(二尺三寸)及び御短刀(八寸五分)を鍛えて奉る。因って御賞として金四十三両を賜う。此の鍛錬中(八月十五日)卿自ら来りて見る。
最後に刀一口を造りて神社に納参。…………
…………
同年、伊勢皇太神宮の御造営につき、御太刀三十二口を鍛造して上納した。
〔『続 三朝町誌』「刀匠 宮本包則伝」(p. 528, pp. 529-530) 〕
因幡 山内良千 撰
宮本包則翁は、幼字[おさなあざな]は澤次郎、後[のち]志賀彦と称す。姓は菅原、本は横木氏、宮本に改む。父は惣右衛門という。世々醸家たり。母は石原氏、名は多賀、翁は其の第二子なり。天保元年庚寅[かのえ・とら](一八三〇)八月二十五日、旧鳥取藩の封内伯耆国河村郡[かわむらごうり]大柿村に生る。
………………
明治元年戊辰[つちのえ・たつ](一八六八)正月、官軍の東征に従い、大津陣中に在て戦刀数口を造る。
………………
同年、伊勢皇大神宮の御造営につき、朝命を受けて、御太刀三十二口を鍛造して上納す。
同二年(明治二年)己巳[つちのと・み](一八六九)、大刀一口を藩主池田侯(慶徳)に献ず。依て毎年金拾五円を賜うの命あり。
同年(明治二年)八月十七日、父惣右衛門郷里に病殁す。享年六十六。
同四年辛未[かのと・ひつじ](一八七一)歸国して、倉吉に住し、農工具の鍛冶を業とす。
同十九年(一八八六)九月、伊勢皇大神宮の御造営につき、鳥取の鍛冶日置兼次と共に内務省の命を受けて東京に来り、九段坂上靖国神社境内の鍛工場に於て、御太刀六十六口、御鉾[ほこ]四十二枚、及び御鏃[やじり]三千八百余を鍛う。*3 諸陵助足立正聲より贈れる歌あり、曰く、
伯耆國の鍛冶宮本包則が、こたひ造神宮の御料なる刀剣及鉾鏃をつくるへきよし、内務省の命をかふりて東京にきたり、靖国神社の内なる鍛工場にて、きたひ初めの式おこなひけるときよみおくれる(十月十五日) 正聲
真心もかねてきたへるますらをかつるきの太刀は神もめつらむ
又、兼次と両人に贈れる長歌あり。
刀工宮本、日置二氏に贈る歌 〔引用は省略〕
同二十一年二月(一八八八)皇子明宮(今皇太子)同齋場に行啓あり、鍛冶術を覧[み]たまう。乃[すなわ]ち短刀(長さ八寸五分)を作り奉る。其の御賞として羽織地を賜う。
同三月有栖川宮より王様護身刀を作るべき命あり、同年兼次と両人内務省の命を以て伊勢皇大神宮、明治四十二年御造営予備の料として御太刀御鉾を作て上納す。
同年十二月兼次及び東京の鍛冶石堂一光と同く、宮内省の命に因り、奈良正倉院御物宝剣の模造二十八口を上納す。
同二十二年(一八八九)十二月、官に乞い、志賀彦の通称を廃し、単に包則とす。
同二十三年(一八九〇)一月、又、有栖川宮の命を以て、王様の護身刀を作る。
同年三月、兼次と倶[とも]に、宮内省の命を受けて御太刀(長さ二尺三寸)各一口を鍛う。
同年八月十日、母石原氏郷里に病殁す。享年八十四。
同二十四年(一八九一)四月二十日車駕上野公園内美術協会に行幸のとき、同館前仮工場に於て鍛冶術の御覧を給う。因て相州傳、備前傳の焼刀法を短刀に施し、又、特に叡旨を奉じ長さ二尺三寸の太刀の焼刀をも作る。即日金五円の恩賞あり。翁時に年六十二、真に古来未曽有の光栄と謂う可[べ]し。
………………
翌二十一日、小松宮(彰仁親王)同妃と同所に臨み、焼刀法を覧たまう。翌年(明治二十五年一八九二)六月、兼次と倶に愛知県の命を受け、熱田神宮御造営料の御太刀御鉾御鏃を作り上納す。
………………
同三十三年(一九〇〇)五月十日、神代作りの太刀一口を献じ左の褒状を賜わる。
一、小刀 自作 壹 口 宮本包則
右
皇太子殿下御結婚奉祝ノ為メ 献納候段
御満足被 思召候事
明治三十三年五月十日 東宮大夫候爵中山孝麿
同三十四年(一九〇一)四月二十八日、皇孫裕仁親王殿下の御守刀を作る。
同年七月、池田候(仲博)嫡子(輝政)の守刀を作り、其の賞として金一万匹を贈らる。
同三十五年(一九〇二)六月二十八日、皇孫雍仁親王殿下の御守刀を作る。
同三十六年(一九〇三)三月、陸軍大臣(寺内正毅)の紹介にて、英国陸軍大臣よりの依頼に応じ、佩刀壹振(二尺六寸)を作る。
同年六月、船橋神社の御宝剣を作る。
同三十七年(一九〇四)十一月、仙台招魂社の御宝剣を作る。
同三十八年(一九〇五)一月三日、皇孫宣仁親王殿下の御守刀を作る。
翁常に敬神尊王を以て主とす。故に其の刀を鍛うるに當ってや、必ず齋戒し、天目一箇[あめのまひとつの]神に祈り、而して後に鎚を下す。當て自ら作る所の刀剣を、出雲大社、金刀比羅宮、以下諸祠に納め、又、鳥取藩勤王党二十士等に贈るの類、枚挙に暇あらず。…………
刀工菅原翁傳 明治三十八年五月二十日 印刷
著作者 山内良千 東京府東京市中郷区駒込吉祥寺町十八番地
明治三十九年(一九〇六)四月四日、帝室技芸員を命ぜられ年金百円を賜わる事となる。
明治三十九年六月、伊勢神宮四十二年御造営の御宝剣の御用を内務省より命ぜられる。
明治三十九年十二月、明治天皇、大正天皇の御短刀の御用を命ぜられる。
年月日不詳 澄宮殿下の御守刀の御用を命ぜられ、鍛えて奉納す。
大正八年(一九一九)大字大柿に建碑。
大正十五年(一九二六)九十七才で逝去。
註 *3 諸 陵助 足立正聲 = 足立正声氏[まさなし]は因幡二十二士の生残りの一人。明治となり、内務宮内省の官につき諸陵部では頭になったが、助は、この明治十九年当時の正しい官位かどうか?本居豊穎に師事し、国学に造詣深かった。のち男爵に列す。
(伊佐田靖之 校註)
〔『宮本包則刀剣展』(p. 2, p. 3, p. 4-5, p. 6, p. 7, p. 8) 〕
宮本包則の年譜には伊勢神宮の宝剣鍛造にかかわる記事が、明治元年 (1868) および明治 19 年と、明治 21 年・明治 39 年(明治 42 年造営)に見える。その間、明治 21 年には、
同二十一年二月(一八八八)皇子明宮(今皇太子)同齋場に行啓あり、鍛冶術を覧たまう。乃ち短刀(長さ八寸五分)を作り奉る。其の御賞として羽織地を賜う。
とあり、その 3 年後、明治天皇の「行幸のとき」の記事として、
同二十四年(一八九一)四月二十日車駕上野公園内美術協会に行幸のとき、同館前仮工場に於て鍛冶術の御覧を給う。因て相州傳、備前傳の焼刀法を短刀に施し、又、特に叡旨を奉じ長さ二尺三寸の太刀の焼刀をも作る。即日金五円の恩賞あり。翁時に年六十二、真に古来未曽有の光栄と謂う可し。
と記録されている。宮本包則は、明治期の皇太子と天皇の両者に刀鍛冶を披露したということになる。―― が、実は年譜に書かれた年に不自然な点がある。連続する、次の三つの記録である。
これらの三条は、いずれも「明治二十年(一八八七)」の間違いではなかろうかと思われるのである。
この年には、日置兼次との共同作業が連続して行なわれているので、日置兼次の年譜を参照することで、歴史の時間に迫ることができよう。
◎ 幸いなことに、鳥取県立公文書館の保存資料に、明治 40 年 3 月に県に提出された〝日置兼次の自筆と思われる履歴書〟があり、それを複写することができた。(公文書館の出納番号:000219900595 - 2 行啓関係)
―― その、明治 20 年までの記載をここに引用する。
日置兼次が鳥取県に提出した「履歴書」より抜粋
鳥取市籔片原町十四番地
東京市下谷区下谷二長町五十一番地寄留
刀工兼先十二代孫兼次
士族
日 置 仁 平
天保十一年六月八日生
一 鳥取藩主池田候ノ刀鍛治ヲ祖先ヨリ代々相勤ム
一 安政三年ヨリ同五年迠三年間 備前國長船住横山祐包ニ就キ刀剣鍛冶ヲ修行
一 安政六年ヨリ文久二年迠四年間 江戸赤坂住横山祐包ニ就キ更ニ鍛鍊法ヲ研究ス
一 文久六年八月 父鳥取藩刀工廣次郎兼先ノ跡ヲ継ク
一 明治十九年五月 内務省造神宮鍛治御用被仰付宮本包則ト共ニ 御太刀六十六口 御鉾四十二本 及御鏃三千八百余本ヲ鍛フ
一 明治二十年二月廾八日 造神宮鍛工場ヘ
明宮殿下御入被遊 鍛鍊法及焼刄等御覧被遊 其莭焼入レタル短刀一口 高辻宮内書記官ヲ以テ傳献 依之御書付及御羽織地ヲ拜領ス
一 同年 宮本包則ト両人内務省ノ命ヲ以テ伊勢皇太神宮明治四十年 御造營豫備ノ料トシテ 御太刀 御鉾ヲ鍛フ
一 同年 宮本包則 石堂一光ト共ニ 宮内省圖書寮ノ命ニヨリ正倉院ノ御宝剣ヲ模造ス
〔以上 日置兼次が鳥取県に提出した「履歴書」より抜粋〕
〖※ 引用注:「依之御書付及御羽織地ヲ拜領ス」の個所には、文字の中央を貫いて朱線が引いてある。〗
―― すなわち一読して同内容の記録が、明治 20 年の出来事として記述されていることがわかる。
今後の研究で、宮本包則と日置兼次の歴史的時間は、一致を見ることと期待する。
○ ここで参照すべき資料は『大正天皇実録』となる。大正天皇 ―― 嘉仁(よしひと)皇太子 ―― は、明治天皇の第三皇子で、明宮(はるのみや)と呼ばれた。
明治二十年 宝算九歳
〔一月〕二十九日、午後零時三十分御出門、靖国神社に御参拝、尋いで遊就館にて陳列品を御巡覧、偕行社・中山忠能邸・日比谷大神宮に御立寄あり、四時還宮あらせらる。此の後、二月二十八日・三月二十八日・七月五日・同月十八日・九月六日にも靖国神社・遊就館・偕行社に御成の事あり。就中、二月二十八日には神宮宝剣鍛錬の状を御覧あらせらる。又侯爵中山忠能邸にも屢〻御立寄あり。時には邦芳王を御同伴あらせられ、邸内に於て御相手等と共に撃剣等の遊戯に興ぜらるる事あり。御立寄に当り日比谷大神宮に御参拝の事も亦尠からず。〔○明宮勤務日記・高辻修長日記・明宮御用掛日記・官報〕
〔『大正天皇実録』 補訂版 第一「大正天皇実録 巻三」(pp. 85-86) 〕
ここに、「就中、二月二十八日には神宮宝剣鍛錬の状を御覧あらせらる。」と記録されている。
念のため明治二十一年の記録(一月~二月)も確認してみたけれど、そこに「靖国神社に御参拝」の記載は見あたらなかった。
◉ 大正天皇は即位以前に、日置兼次の刀鍛冶を二度観覧したということになろう。数え年 9 歳の明治 20 年 2 月には東京の靖国神社で。明治 40 年 5 月には皇太子として行啓した先の鳥取市久松山麓扇邸の屋敷で。
雑誌に連載された伝記を一冊にした書『因州刀工 日置兼次の伝記』ではまず「まえがき」において、その内容は日置兼次が残した控書などの原本をもととする記録であることが語られる。そして廃刀令後の刀匠の生活が、「兼次は幸いに文筆の素養があつたので、明治九年から鳥取県庁の雇いとなつて庶務課に勤務していた。」(p. 3) と描かれ、明治十八年に突如、天命が下る。
鳥取県令山田信道から内務省神宮庁の命を伝えて来た。/ 伊勢神宮宝剣鍛造御用之儀 / と云う通達である。それについて神宮庁から示された御太刀、御小刀、御鉾、御鏃等の製作目論見書及び仕訳書を差出せよとある。(p. 3)
―― この翌年からの記述を「まえがき」に続いて、抜粋紹介していこう。
ま え が き
明治十八年内務省神宮庁の命に依つて、因幡の刀工日置仁平兼次と、伯耆の刀工宮本志賀彦包則の二人が、伊勢神宮の宝剣・太刀・小刀・鉾・柳葉鏃・斧形鏃など合計三千八百余本と云う大製作を完遂しているが、二人とも鳥取県人であり共に備前長船の刀工横山祐包の弟子であるのも、何か奇しき因縁である。
今この両工が、此の大量製作をなし遂げた経程を見て、如何に当時刀剣一本に要する鋼の量目、炭の量目、又は人件費等の諸費用と其の苦心、或は神宮庁との文書往復等を順を追つて記して見る。そして其の後の兼次が、明治四十三年七十一才で去るまでの兼次の処世を追記する。此の文献資料は日置仁平兼次の自筆の控書が主で、最も信用出来るものであり曽て一度も世に発表されたことのない文献であるが、十八、九年前其の散逸寸前に故あつて私の手に入り保存して居る。其の原本や、私が集収して居る文献等を整理編纂したもので、従つて私の憶則や、根拠のないことは決して記載していない。若冠十六才で日置氏をつぎ、十七才で祐包の門に内り刀匠の道にはげみ、青年三十九才で明治維新となり失業し、爾後十数年間貧苦と失意の生活を余儀なくされていたが、此の神宮宝剣鍛造を機に、再び脚光を浴びる兼次の生涯と、其の後、東京に於ける活躍等であるが、もし御希望の方へは手許に集収している原本文献をいつでも御覧に入れる。
………………
柳葉鏃及び斧形鏃の合計三千六百九十二本、これに要する鋼の量目二百五十八貫四百四十匁、古鍬が八十八貫六百匁、木炭・七千三百八十四貫、人件三千四百四十人と云う延人員である。
さて前年十一月命を受け一切の公職を辞した兼次は、宮本包則と合議を重ねて、以上の如き見積書を作成した。そして文書の事務は兼次が当つているが長船祐包の同門先輩の故であろうか、包則を先順位として、十九年五月十日付でこの見積書を提出している。
今般御達の趣に依り御太刀御鉾御鏃等員数の半数宛両名にて請負代価積書心得書遵奉別紙の通り調製可仕候に付進達仕り候也
明治十九年五月十日
伯耆国粂郡倉吉湊町二百三番地
平民 宮本志賀彦
因幡国邑美郡今町二丁目五四六
士族 日置 仁平
内務省造神宮掛御中
一応これで製作品の見積書は出来たが、これに附帯書類がいる。第一に家系図、履歴書、鍛錬法書類を添えて提出せねばならない。その時の家系図なるものは非常に明細に記されている。……
………………
鍛鍊法取調書
品位 品目 鍛錬法
極最上 御太刀 板目鍛四方張本捲造
最 上 御太刀 板目鍛四方張本捲造
並 作 御太刀 板目鍛二枚合本据造
御 鉾 板目鍛三枚合本据造
御小刀 板目鍛本捲造
御 鏃 板目鍛丸捲造
右之通
日置仁平兼次
宮本志賀彦包則
以上の知く目論見書一通、刀工履歴一通及び鍛錬法など一切の書式を上申したのが、明治十九年五月十日である。去る十八年十一月命を受けてから、この上申書を出すまでに約六ケ月かかつている。その間内務省神宮職と日置兼次との間に幾多の往復交渉が重ねられて、時には多少の変更もあり、交通音信の不便な時代とて愈々の決定までに仲々日時を要している。それが一々県令山田信道の手を経て上申また下達となると、いう埓があくとも見えない。兼次は遂に私自身が東京に上り、主務省と直接談し合うと決心したが、突然上京しても主務省の都合が分らぬから、私が上京することを主務省へ移諜してくれと県令へ上申している。
………………
いよいよ本契約請書が明治十九年八月十六日附で出来ている。八拾銭の印紙まで貼用してあるから間違いない。十九年五月十日附で申達している見積書と、多少員数に増減したものがあるのは、何か神宮職の指示に依つたものであろう。参考のために一応材料人件等を集計して見ると、
鋼量目 七百〇弍貫百九拾匁
古鍬 弍百七拾参貫九百匁
木炭 弍万〇五百五拾貫
鍛工人件 六千八百九拾六
研鞘人件 四千四百三十三
右の表を一覧して如何に大事業か想像されよう。おそらく古今の刀匠を通じ、これだけの大量製作を成し遂げた刀匠はあるまいと思う。しかも入念製作で数打ち製作ではない。
以上のような経過でいよいよ九段靖国神社境内で着手したのが、明治十九年十月十五日である。工場の場所は遊就館の池の端の相撲場のあつた処である。兼次は当時鳥取市出身の杉山栄造と云う人が富士見町にいたので、その家に仮寓して通勤していた。杉山栄造と云う人は農商務省の官吏であつた。これは兼次の第四女太田垣よね氏の直話である。
前述の如く明治十九年十月十五日、いよいよ着手の式典が挙げられた。兼次は祝詞を奏し演説をしている。……
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兎にも角にもこれから愈々仕事に着手したのだが、これ程にも交渉を重ねて取りかかつた仕事に着工後二ケ月余もたつてから、まだ手落ちがあつた。刀工の方では引刄研ぎの都合であつたものが、本研ぎ刄附と云うことが分つた。これについてさらに賃増しの請求である。
御研上賃増額の儀に付願
私儀
神宮宝剣御用命目下製作中に在之候処 御研上の儀は前以て別段御沙汰無之に付従前の通り悉皆引刄研の心得にて代価積り立進達仕候 然る処御太刀は刄付本研上に可相成旨出京の上拝承仕り候 就ては別紙仕訳書の通り夫々増賃を要し候 処、右は全く見込外の分に付差引金百九円五十銭研上賃の増賃として別段下渡し被下度此段奉願候也
明治十九年十二月十日
宮本志賀彦
日置 仁平
造神宮御掛 御中
この工事半ばの明治二十年春二月二十八日、時の皇太子殿下の行啓があつた。鍛錬方御見学のため靖国神社の鍛錬場へならせられ、包則兼次は謹んで八寸五分の短刀を造り奉献している。これに対して東宮殿下から御沙汰があつた。翌三月十四日のことである。
短刀一口 因幡兼光十二代日置兼次作
明宮殿下於鍛冶所御覧被遊候一口御伝献相成早速入御覧候処御満足に被思召候因而此段申入候也
明治二十年三月十四日
明宮御用掛宮中顧問官 土方久元
高辻宮内書記官殿
右の文書が土方久元から高辻子爵へ、高辻子爵から兼次へと伝達された。
短刀一口伝献致候処土方御用掛より別紙被差送且羽織地被下候間則送進候也
明治二十年三月二十六日
高辻修長(花押)
日置兼次殿
こうして幾多の曲折をへて契約期限の満一ケ年、即ち明治二十年十一月に無事完納している。兼次の手記に、「首尾よく相勤め皆納す」とある。流石にホッとした事であろう。
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その後の兼次
⑰ 皇太子の御前鍛刀
明治四十年五月、皇太子殿下が山陰地方に行啓になった。御宿泊所であった鳥取城内の仁風閣現在の科学博物館の庭上で、御前鍛刀の光栄に浴した。
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㉓ 兼次の終焉と遺族
兼次は明治四十一年鳥取に墓参帰省している。当時の模様を兼次の四女太田垣よね氏は語られたが、元気であったらまた来るから、と東京に帰って行ったが、これが兼次の最後の郷里訪問であった。明治四十三年二月八日、東京下谷二長町の宗伯爵邸において波乱の生涯を終った。享年七十一才である。~~。
〔『因州刀工 日置兼次の伝記』(p. 1, pp. 12-13, pp. 16-17, pp. 26-27, pp. 28-30, p. 48, p. 61) 〕
以上で「〈印賀鋼〉最終伝説 / 因伯刀匠伝」を終わる。
※ 「現在」というのは、2018 年 9 月 26 日。
以下、引用・参照文献の情報