天井にシーリングライトがある。
中に何匹かハエがいる。
死んで澱のように積もっているのもいる。
まだ生きてグルグルと歩き回っているのもいる。
それが、ある意味、私の思考のすべてだった。
私は1週間前に会社を解雇された。
それからずっと、私の頭の中を二つの感情が占めている。
一つは、会社への憤懣である。
新卒入社した会社から逃げるように転職したのは、ハローワークから斡旋された日本語学校だった。
初めこそ「教務職」という言葉に心躍らせていたが、エクセルに直接数字を手打ちするような旧態依然としたオペレーションや自席の机からゴキブリがカサカサと這い出てくる職場の不衛生さに、すぐに幻滅させられた。
決定打は、直属の上司だった。
見たところ40~50代ということもあり、以前から多少価値観が古いところがあるなとは思っていた。
しかし、素行の悪い学生を精神病者呼ばわりしたり、私に対してパワハラまがいの指導をしてくるようになると、もう我慢がならなかった。
私は本部の総務部へ、この件を相談した。
中立的な立場から、公平に事をとりなしてくれると期待した。
だが、総務部は古株の職員である上司をえこひいきした。
あまつさえ、異分子を排斥することで事を収めようと、私を解雇したのだ。
転職からおよそ3か月。あっけない幕引きだった。
もう一つは、自責の念である。
私は学生時代から、クラスや部活といったコミュニティにうまくなじめなかった。
どうも過度に正義感が強いところがあり、少しでも不公正だと感じると、声高く訴え出るという悪癖があった。
自分では正しいことをしているつもりだったが、周囲からは気に入らないことに文句をつけて、コミュニティの和を乱す不届き者と映ったことだろう。
そして、今回もその悪癖が発動した結果、職場から排斥される憂き目にあったのではないかと思ったのだ。
世の中の大半の人間は、多少の不満や思うところがあろうと、我慢している。それは普通の社会人としてできて当然のことだ。
それができない私には、人間として根本的な欠陥があるのではないだろうか?
憤懣と自責がウロボロスの環を成し、頭の中を回っていた。
どちらも私の主観的な感情。
どれだけ考えても、栓なきことだった。
もう一度、天井を見上げた。
生き残りのハエが、さっきよりも弱ってきていた。
脚は動いているが、その場でじたばたするだけで座標は動いてない。
そして、脚さえ動かなくなり、死んだ。
同時に思索の環も、プツンと音を立てて擦り切れた気がした。
私は衝動的に、玄関を出ていた。
鍵はかけた、と思う。
ダウンジャケットのポケットに財布と鍵だけ突っ込んで、最寄り駅までの道を歩く。
西の空から太陽の切れ端が、網膜をかすめる。
分厚いからっ風が吹いて、毛根を撫でる。
駅の方面からは、勤め人の波が押し寄せてくる。
彼らは背広を着て、身ぎれいにしている。
私は着古したスウェットを着ている。
彼らは一日の課業を果たして、誇らしげにしている。
私には今や割り当てられるべき課業すらない。
サーチライトを縫うように、咎める目線をかわしながら駅へ向かった。
池袋行きの普通電車はガラガラで、川越行きの急行はすし詰めだった。
座ることもできたが、なんとなく居心地が悪くて立っていた。
向かいの電車に乗っている彼らと私、どこで人生を分かったのだろう?
車窓に集合住宅に張り付けられた、誰が見るのかわからないような広告を投影しながら、電車は池袋へ向かう。
日はいつの間にか沈み、工場排水のような紺色が空を覆っていた。
池袋駅で埼京線に乗り換えて、新宿駅で降りた。
改札を通り、東口から地上に出る。
靖国通り(つまり北)へ歩いていくと、種々雑多な人種を目にする。
日本人、外国人、勤め人、水商売、大学生、ホームレス。
多彩な絵の具がぐちゃぐちゃに混ざって灰色になっている。
新宿はそんな街だった。
靖国通りへ出たら右折し、区役所の向かいのミスドまで向かう。
ちなみに通りを挟んだ向かいのDUGというジャズバーは、村上春樹の小説に登場したことでも有名なのだが、話が本筋から逸れそうなのでこれ以上は言及しないことにする。
ミスドの脇に四季の路という小径がある。
ちょうどミスドのあるブロックを左下から右上へと対角線を引くように貫いている。
正式名称は、新宿遊歩道公園というらしい。
公園といっても、広場も遊具もない。
小径に沿って植え込みがあるのと、公衆トイレが敷設されているだけだ。
こんなものを公園と称する街で育つから、東京の人間はみんな思いやりに乏しいのに違いない。
この小径の真ん中あたりは、丁字路になっている。
一画目がこの小径、そこから右側に突き出た二画目は熊手のように道が分かれ、二階建ての長屋が何棟も並んでいる。
そう、私がやってきたのは、ゴールデン街という飲み屋街だった。
ゴールデン街は、国際色豊かな場所だ。
長屋と長屋の間を行きかうのも、大方外国人。
ネオンの看板を背景に記念撮影したり、ツアーガイドの解説に熱心に聞き入ったりしている。
丁字路の交差点では相変わらずキャッチーが、「Hey!Brother!」「調子はどう?」などと声をかけている。
お人好しな私は一度声をかけられて、のこのことついていったことがあるが、歌舞伎町のぼったくりキャバクラに連れて行かれそうになった。
そんな苦い教訓を思い出して、キャッチーとは目を合わせないようにして、足早に突っ切った。
さて、ゴールデン街で難しいのは店選びである。
熊手の部分を波縫いのように歩きながら、一階と二階、それぞれの店を一軒一軒見て回る。
ゴールデン街には何十、下手をすれば百にも及ぶ飲み屋がひしめき合っている。
そして、訪日観光客に人気の観光地ということもあって、客の方も尋常な数ではない。
そんなわけでどの店も、それぞれ熱心に呼び込みをしている。
一階の店はガラス張りになっていたり、わざと戸を開けっ放しにしたりして、一見客でも入りやすい雰囲気を演出している。
二階の店はネオンの看板を通路にせり出させ、登り階段の手前には「Welcome!Charge free!」などと張り紙を出してある。
しかし、どの店も同じような手で呼び込みをしているせいで、かえってそれぞれの違いがわからなくなってしまっている。
一応、何かしらのコンセプトを掲げて運営している店もあるが、そのコンセプトを徹底できているのはほとんどないといってよいだろう。
このように一度視界に入れば、膨大な情報量が一挙に眼から脳へと押し寄せてくる。
飲み歩きに慣れた人でも、この中から良い店を見分けるのは至難の業だろう(そもそも良い店なるものが存在するのかという別の疑問もあるが)。
私も歩き回って品定めの真似事をしてみたものの、ついぞここが良いだろうという当てをつけることはできなかった。
しかたないので、割に落ち着いた区画の二階にある、ジャズバーに入ることにした。
特段、ジャズに思い入れはない。
ただ、奇を衒ったコンセプトバーを引き当てるくらいなら、ジャズバーを選んでおけば地雷を踏まずに済むと判断したまでだ。
およそバリアフリーという概念とはかけ離れた急峻な階段を上がり、古めかしい戸を開けて店内に入った。
私の当てはおおよそ外れていなかった。
戸を開けて右手にカウンター席が5席ほど、左手には申し訳程度のテーブル席があった。
マックで見るような正方形の机を、パイプ椅子1脚ずつで挟んだものだ。
まあ、団体客が長居をすることはよほどないから、あれで事足りるのだろう。
カウンターの後ろの棚には、ウィスキーやブランデーなんかのボトルが所狭しと並べられている。
脇の冷蔵庫は結露で中が見えないが、おそらくビールや日本酒を冷やしているのだろう。
レコードがないかと期待したが、音楽はパソコンから流しているようだ。
まあ、今日日ジャズバーでもレコードで音楽を流している店は少ないし、私は音の良し悪しが聞き分けられるほど音楽通ではないので、それは大した問題ではなかった。
「いらっしゃいませ。」
派手な青髪と黄色の瞳が目に入った。
女?
いや、女性がジャズバーを営んでいるのは珍しいことではない。
だが、目の前の女性はジャズバーのママというよりは、コンセプトカフェのキャストといった方がまだ説得力があるような容貌をしていた。
襟や袖に柄の刺繍の入ったシルエットの大きな白いシャツに、黒く股下の長いフレアパンツ、右耳にはイヤーカフと、中性的な服装。
肌は身につけているシャツと同じくらい白い。
ファンデーションではない。
夜職で日に当たらないから白いのだろうか。
チラシやらパンフレットやらが並べてある一画にキャストのシフト表を探したが、それらしきものは見当たらない。
この私と同い年くらいの女性が、本当に、この店のママらしい。
頭の中で情報の処理ができたところで、私はいそいそとカニ歩きでカウンター席の一番奥に縋りついた。
彼女はイケてる格好で自分のビジネスを営んでいる。
私はダサい格好で無為徒食の生活を送っている。
温い濁色の安心感に、冷や水を浴びせられた気分だ。
席に着くと無言でメニューとお通しを差し出された。
チャージ料千円で柿ピーとポテトチップス、ゴールデン街の相場では標準的なお通しだ。
メニューのラインナップもゴールデン街水準。
ここはクオリティにこだわる酒飲みが来るようなところではない。
「すみません。日本酒を・・・」
言い差したところで、腹が減っていることに気づいた。
怪訝な顔をされるのも嫌なので、とっさに目についたフードを注文した。
「それと、ピザトーストを。」
かえって奇天烈な取り合わせになってしまった。
ママは短く返事をして、調理に取り掛かった。
ピザトーストができるまで、日本酒をチビチビやりながら、柄にもなくジャズに耳を傾けた。
優しいというには、あまりに哀しいトランペットの音色だった。
ただ、この擦り傷だらけの心を、どこかで休めたいだけなのに。
いつまで続くのだろうか。
パソコンの画面に映るアルバムジャケットを見た。
きっとこのトランペット奏者なのだろう。
しわだらけの老人で、目を閉じ眉を八の字にひそめて、トランペットに息を吹き込んでいる。
ああ、この老人はいつか安息の地を見つけられたのだろうか。
それとも、ずっと痛みに裏打ちされた優しさを奏で続けたのだろうか。
2,3曲流れたところで、ピザトーストができた。
思えば温かい食事など、何ケ月ぶりだろう。
食パンにチーズを乗せてトーストしただけのものに、こうもぬくもりを感じるとは。
私は四等分に切り分けられたそれを、パンの耳の軽快な硬さを、チーズの伸びやかな柔らかさを、一番開けやすい記憶の引き出しにきちんと収まるようゆっくり味わった。
ピザトーストの皿を下げてもらい、また日本酒をチビチビやり始めた。
ママは音楽に聞き入りながら、時々スネアを叩くようにタバコの灰を灰皿に落とした。
沈黙は苦ではなかった。
ジャズが空白を埋めてくれるというのではない。
ただ、この店全体に、物語ることを無理強いしない雰囲気があった。
綺麗な人だと思った。
顔立ちが整っているというのではない。
もちろん美人ではあるが、それ以上にしたたかさに縁どられた優美さがあった。
使い古されたエピソードだが、ミケランジェロは自分が石を加工するのではなく、石のあるべき形を掘り当てているだけだと語ったそうだ。
私と同じくらいの時間しか生きていないはずなのに、既にあるべき形に彫像されているという印象を受けた。
突然、出入り口の鈴が鳴り、3,4人の団体客がづかづかと入店してきた。
外国人観光客と見るや端正な彫像は一挙に破顔し、旋律のすべてを半音上げたような声で出迎えた。
「ハウメニーピーポー?スリー?フォー?オゥケイ、オゥケイ。ディス、シート、トゥック。ウェルカム、ウェルカム。サンキュー!ディス、イズ、メニュー。ドゥー、ユー、ウォント、ワット、ドリンク?・・・」
す、すごい。
時制に語順、言語を言語たらしめている体系が、悉く崩壊している。
それでも、かろうじてコミュニケーションが成立し、注文がとれているのにはかえって感心する。
外国人の団体は、ウィスキーなんかの飲みなれたものと、対照的に物珍しさからかおでんを注文していた。
冷蔵庫から取り出されたのは、おでんの具材一式がつゆと一緒にパック詰めされたもの。
黄色い丸印を見れば、日本人ならその品質に察しが付くだろう。
アコギな商いとは思わない。
くどいようだが、ここではこれがスタンダードだ。
片手鍋にパックの中身をぶちまけ、火にかけている間、ママはてきぱきとドリンクを供しながら団体客と話していた。
会話の内容は、出身国は?とか旅行でどこ行ったの?とか凡庸なものだ。
単に情報を行き来させるだけで、創造的な思索を惹起しない会話など、有閑マダムの井戸端会議と同じくらい低俗で無意味なものだ、と孤高を貫きたい自分がいる。
何の益にもならないこだわりを捨て、勇気を出して話しかけ、素直に会話に加わることができればどれだけ楽しいだろう、と指をくわえた子供のような自分がいる。
どちらも本当の自分だ。
けれど、就活の面接なんかで「私は一人でいたいと同時に、集団にも加わりたい人間です。」などと言おうものなら、人間性が一貫していないとして、即不採用だろう。
考えてみれば妙な話だ。
以前読んだ本によればDNAの9割以上は、具体的にどんな働きをしているのかわかっていないのだという。
言ってみれば、人間はその設計図のほとんどが読み解けない、メカニズムがブラックボックス化している機械だ。
それなのに、社会や組織は人間に言動が首尾一貫していて、合理的かつ予測可能であることを求める。
というよりも、そうであることを前提に運営されている。
でも、その前提の人間像と現実の人間との間には乖離があるから、あちこちで矛盾や諍いが絶えないのだと思う。
人間の驕りとは際限のないものだな、と憂いてみたが、それで何かが変わるわけでもなかった。
黙りこくっている私に気を遣ってか、外国人観光客が何回か話しかけてくれた。
失礼にならない程度に応じたが、私が会話に乗り気でないことを察すると、そっとしておいてくれた。
やがて1時間もしないうちにその団体客は、店を出て行った。
せわしないなとも思うが、彼らが日本に滞在できる日数は限られているのに対し、この界隈の飲み屋は100軒。
できるだけ多くの店を回っておきたいというのは、当然の心理だろう。
ママが団体客の座っていたあたりを片付け、店内にはまた音に包まれた沈黙が訪れた。
「何かを待ってるの?」
唐突に尋ねられた。
その顔にはつい先ほどまでのほころびは消えている。
「いえ、待ち人はいません。」
「何かを、待ってるの?」
どうやら誤答だったようだ。
この問いの本質は、この言葉によってのみ一意に定まる。
言い換えや注釈をつける余地はない。
私をまっすぐに見据えたまなざしは、そう語っていた。
私は改めて考えてみた。
しかし、足がかりがなさ過ぎる。
針飛びしたレコードみたいに、思考が一向に進まない。
とうとう時間切れになったようで、彼女はぷいと脇へ下がってしまった。
あなたこそ何を期待しているんですか。
などと訊くのはおこがましいか。
彼女は踵を返して、すぐに私の前に戻ってきた。
腕にキーボードを抱えている。
合唱団が歌いだしの音とりなんかに使うやつだ。
どういうつもりだろうと思う間もなく、彼女は歌いだした。
確かこんな歌だった。
起きることすべてに理由がある。
あなたは事もなげに言った。
それが本当なら、空のグラスに氷を鳴らすこの夜にも、理由があるの?
アリアを灰皿に溜めながら、滲んだ目で通りを見やる。
あなたのいない新宿。
ネオンの万華鏡。
また夜が更けていく。
「私は待ったよ。」
「待って、どうなったんですか?」
「待って、待って、待ち焦がれて。とうとう待てなかった。」
「だから、一人で歩き出した。」
「自分の信じる正しさを掲げて。」
「証明できましたか?」
「真実はいつも玉虫色だ。」
「でも、自分だけは真っ黒。」
「そう。世界を傷つけて、自分を傷つけて、気が付いた時には黒ずんだかさぶたに覆われている。」
「抜け出せましたか?」
「今も迷っている。」
「あなたはなぜ歌うんですか?」
「今も迷っていることを思い出すためさ。」
「私にもその迷いを自覚させようと?」
「他人の人生に深入りする趣味はない。歌は、解釈次第さ。」
会話はそこで途絶えた。
解釈次第。
そう。
世界には互いに理解しあえない人間が幾万といて、
それぞれに身勝手な解釈を照射して、
皆が皆、色形の流転する万華鏡に惑わされている。
そんな世界で信じられるのは、世界と戦って傷ついた自分の痛みだけだ。
彼女の想いはわからないが、私はひとまずそう解釈することにした。