調査に行くと、一人で、村なかを歩くのが習慣でした。ちょうど、消毒用噴霧器を背負い、家路を行く農婦をみかけました。
中国の農村には、ひとをしてうら寂しさと郷愁、時間が止まってしまったかのような感覚にさせる共通性がある気がします。
現在の大寨(山西省)の様子です。ここへ、毛沢東も周恩来も行き、人民公社の成功例として全国に宣伝したのでした。ただの段々畑に植えた小麦が、10アール当たり1トンも穫れたと宣伝されたものです。とてもとても、そんなことが・・・・。
以下、時間を見ながら、数えきれない数の写真から選んで、徐々に足していきます。 ©高橋五郎(すべての写真)
中国人は脂肪豚肉が好物
あるスーパー地階の食肉売り場。こうした売り方もありますが、最近では日本のようなパック売りも一般的です。日本人と違い、たっぷりの脂肪がない豚肉は好まれません。実際、トロリと美味しいのです。
ニセモノイチゴも大人気
日本のイチゴは大人気ですから、現地栽培・現地収穫イチゴがスーパーで販売されます。銘柄は「あきひめ」とありますが、もちろんニセモノです。味はかなり酸っぱいです。
高層ビルは地方にも
高さ200メートル以上の高層ビルですが、いまや、中国に750棟、アメリカには200棟という大差がついてしまいました。
地方都市にもたくさんの高層ビルが、文字通り林立しています。
この写真は、宿泊先だったある地方のホテルの自室から撮ったものです。
売り場を占領する日本産の食品
中国へ行くと、かならず、と言っていいほど私はスーパーの食料品売り場へ直行します。
これで、その地方の生活ぶりがある程度、うかがえるのです。
最近は、安全と思われている日本産の加工食品や調味料が人気です。つゆ類も大人気ですが、麵類のスープ、チャーハンの出汁と味付け、その他、何にでも使います。
このことと必ずしも直結するとは断言できないのですが、中国人は、我われ日本人が中国人を敬遠するほどには日本人を敬遠せず、嫌いでもないと、現地で思うことが多いです。
初夏のまちの様子ー道で、収穫直後のトウモロコシを乾燥
初夏、最初に収穫するトウモロコシは脱穀し、農家はすぐに、街じゅうの道路にまいて乾燥させるのです。ところによっては、トウモロコシは秋に収穫され、それが終わると越冬の小麦を撒くのです。
この時期、農家も非農家も収穫第一なことを心得ているので、自転車も遠慮がちに道端の隅っこを通ります。
夕方になると、いっせいに、おおきなホウキとミノ(おおきなチリ取りのような形の農具)を持ち出して、手際よくリアカーに載せて家路を急ぐのです。 2006年6月2日のこと、どこで撮ったか、忘れました。
やはり、上海は美しく、遊子の心躍らせる
上海が、国際都市であることは誰しも認めるところ。すごい都会だが落ち着いていて、通りを一歩中に分け入ると、そこは都会っ子がご飯を炊き、寝て、近所付き合いで毎日を送る生活空間。
そんなブラ歩きに、上海はぴったり。じろじろ見られることもなく、自分のスタイルとペースで時を刻める。昔ながらの喫茶店があったりして、ゆっくりと濃いコーヒーを飲むに都合がいい。
これが北京だと、ただ騒がしく、スイカやウリのフリ売り農家のリヤカーが傍若無人に道を独り占めする。数か所の省と自治区をのぞき、中国はほとんど行った。共通しているのは、ひとのことはどうでもいい、という無関心。だから、中国はマイペースで歩ける。
2005年頃の天津の裏通り 大学の200名の学生を南開大学に引率。ひと月、南開大学で寝泊まり、学生は南開大学で勉強なので昼はまったく自由な時間帯。
方々を歩きました。日本租界は隅から隅まで。食べ物は、なんでもおいしいし、安いし、量が多い。
街角では、革命前の手書きの書き物から文革時の互いの批判文書まで。一件、数元で売っていました。私は、毛沢東バッジ集めが趣味でしたから、あちこちの露店を覗いては珍しいものを探したものです。正面を向いたものはなく、右向き、つまり左の顔のものが普通ですが、たまに逆向きがあったりしてね。
杭州市西湖付近に集中するブランドショップ
杭州市はしゃれた街である。西湖の近くの通りには、しゃれたブランドショップが立ち並ぶ。そのうちの一軒に入ると、店員は寄ってくるでもなし、展示品の紹介をするでもなし。ただブラブラしているだけにしか映らない。
中に入るなり違和感が襲った。とにかく商品が雑然と転がっているだけで、高級品を売るブティックの中とは思えないのだ。とはいえ、商品に興味があるでもなし、こちらはただの野次馬かひやかしにすぎない。そのあたり、店員は私の姿格好から、相手にしないでおこう、私が店にはるなり、そう決めていたのかもしれない。
真贋も見分けられない自分だが、どうみても、ほんもののような気がしない。直観というべきか。
杭州、浙江大学発べンチャ―企業群は先端技術ばかり
杭州の浙江大学は、先端技術開発の頭脳集団である。巨大な数棟のビルにある大学発ベンチャーは一見、透明なビル群の一室に研究室か事務所をかまえ、中には数名の若手が、パソコンと格闘するすがたが見える。
浙江大学の教授であるある友人は、とても有能で垢抜けした人物で品位も十分。この人物は、競争のはげしい中国の大学で優れた業績を挙げ、みんなからその能力を認められたから悠然とかまえ、自信が身体中からみなぎる。こうした人物が、後継者育成をかねて起業を奨励、その受け皿を準備する。莫大な資金が必要なのだが、政府と大企業が気前よく出す。
とても日本はかなわんな、と出るのはため息ばかりだった。もひとつ、浙江大学のキャンパスの広さときたらない。中国の大学はキャンパスの広さで競争し合うところがあるが、この点でも、浙江大学は中国一の広さ、ともかく、端から端まで、電車で二駅はあろうと思われる。実際、歩いてみたが途中であきらめて引き返した。
瀋陽にある「九・一八」歴史博物館
瀋陽「九・一八」歴史博物館は、1931年9月18日に発生した満州事変(中国名「九一八事変」)の歴史を伝える博物館です。けっこう大きな建物で、見終わるのに2時間以上かかった気がします。
満州事変の発端となった柳条湖事件の現場近くにあって、1991年に開設、1999年に拡張されましたが、私が行ったのは拡張後の2000年でした。
館内には、日本軍による中国東北部の占領、満州国の成立と植民地支配、中国人民の抗日運動などに関する写真、文書、実物資料がたくさん展示されています。中国では、日本の侵略と抗日戦争の歴史を後世に伝える重要な愛国主義教育施設と位置づけられています。
展示物は日本人の目で見ると、展示構造の都合から人工的に造ったものを除き、真実・本物です。眼をそむけたくなるような旧日本軍将校・兵士の蛮行に胸が詰まる想いがしますが、出口近くに展示された当時首相だった橋本龍太郎氏が訪問時に書いた「日中友好」の想いを込めた毛筆書が、一瞬ですがほっとさせてくれます。
九・一八記念館の宣言文
写真ではよく見えませんが、中国語と日本語で書いてあります。
要約すると、こうなります。
· 1931年9月18日を中国の「国恥の日」と位置づけている。
· 日本による中国侵略が14年間続いたと記している。
· 中国人民の抗日戦争と犠牲について述べている。
· 中国人民が、この日を永遠に忘れないという趣旨の言葉で結んでいる。
大連はロシア人の行楽地
日露戦争まで、大連はダーリニ。哈爾浜もそうですが、旧ロシア街が残る大連には、夏にもなるとロシア人がたくさん訪れるそうです。一番の目当ては海水浴だそうな。
上品そうなロシア人の御婦人がつれだって歩いていたので、つい写真を撮りました。とても中国とは思えないのですが、1905年の日露戦争以降、ダーリニは大連というまちになったのでした。大連は、私の好きな都市のひとつです。
大連駅
旧南満州鉄道(満鉄)の大連駅を撮りました。ロシア時代の線路は広軌(1.524M)でしたが、日本は一時、広軌を狭軌(現在のJRと同じ1.067M)にしたのですが、1908年以降、標準軌(1.435M=新幹線と同じ)にしました。撮影は2000年8月。
電子部品組み立て工場で働く若い女性
2000年頃の工場で働く若い中国人女性の姿です。みんな素朴でまじめそうな目をしていました。
まだ、目と手先で電子部品をチェックしていた時代があったのです。
モニターに映るなにかの信号を見逃すまいと、神経を集中して、作業に打ち込んでいる様子が伝わってきていたものです。(場所は忘れました)
黙々と作業する女性従業員
整然とした工場内で、しずかに黙々と作業しつづける女性従業員たちの姿です。
みんな地方のむらむらからやってきた、いまでいう「農民工」たちです。
昭和30年代、いなかから都会にやってきた日本の若者たちの生き写しと思ったものです。このころ、中国のGDPは日本よりもはるかに下でしたが、彼女たちのがんばりも、その後の日本越えにつながったのだと思います。
いまはロボットに代わったが、以前は女性が不可欠
上の写真の企業とは別ですが、こちらでも、列をなして女性従業員がもくもくと働いています。年齢層にやや幅がありますね。背中の丸み具合でだいたい見当がつきそうです。
この工場のレイアウトは中国の日系企業の場合とほぼ同じスタイル。部品をかごにいれて移動させる。2026年のいまは、こんな工場のレイアウトはありません。そもそも、ひとがいなくなり、ほぼ製造ラインといわれるロボットに代わられてしまっています。