2025年3月15日〜17日(月)、滋賀県高島市にて「CPC Spring Camp 2025:集合的予測符号化と記号創発システムに関する春の研究合宿2025」が開催された。
本合宿は招待制であり、主催者により招待された機械学習、ロボティクス、記号学、自然言語処理、科学哲学、社会学、経済学、社会心理学、進化生物学、人工生命、精神医学などの分野の研究者に加え、学術出版、科学政策シンクタンク関係者、および関連分野の大学生・大学院生からなる総勢41名のメンバーが参加した。
大規模言語モデル(LLM)が社会に大きなインパクトを与えている昨今、LLMを活用したエージェント技術や社会シミュレーションは、言語・認知・社会システムを捉えてきた諸学問領域にも新たな風を吹き込んでいる。ロボティクス分野においても、実世界タスクと自然言語を結びつける巨大な基盤モデル(Vision-Language-Action Model: VLAモデル)の登場により、言語を通じた人間とロボットの相互作用が始まった。こうした技術動向を背景に、記号・言語の社会的・認知的な動的特性を、人間と人工システムの双方において理解することの重要性が増している。本合宿の主催者(谷口忠大)らを中心に構想されてきた記号創発システム論は、LLMの登場以前から、まさにそうした学理の構築を志向してきた。
記号創発システム論の最新の展開である「集合的予測符号化(Collective Predictive Coding: CPC)」は、記号創発システムを人間の個体および集団の予測性に基づく環境適応として捉える理論枠組みであり、2024年の論文「集合的予測符号化に基づく言語と認知のダイナミクス」および「Collective Predictive Coding Hypothesis: Symbol Emergence as Decentralized Bayesian Inference」において発表された。その後、多分野の著者による『記号創発システム論』(新曜社)にて、法や倫理といった社会的規範を記号創発として考察する視座が示されたほか、AIによる科学の自動化をめぐる科学哲学との架橋や、自由エネルギー原理との数理的な接続、大規模言語モデルが持つ知識に関する示唆など、人文学、社会科学、認知科学、情報科学、工学を横断する展開を見せ始めている。
生成AI時代に新たな学術的展開につながりうるCPCを中心に置きながら、今後の各分野の探究、および社会への展開を学際的に議論する場として、CPC Spring Camp 2025が企画された。本合宿はアンカンファレンス形式を採用し、参加者全員が「何を議論すべきか」から自発的・創造的に見出し、それぞれに成果を持ち帰るという思想で設計された。以下、2日半にわたる本合宿の概要を報告する。
3月中旬にしては冷え込んだ雨天の土曜日。京都駅から電車で1時間弱、滋賀県近江高島駅からの送迎バスにて総勢40名程度の研究者・学生の一行が会場である宿泊所に到着。挨拶もそこそこに、合宿の実行委員長である谷口忠大氏によるオープニングセッションが始まった。
谷口氏のオープニングセッションでは、本合宿の目的と方針が示された。異分野の研究者による密度の高い議論の場を目指すこと。何を議論するか自体をその場で決めるオープン・スペース・テクノロジー(OST)の形式を採用すること。この場に参加している全員が、年齢や分野に関係なく、研究者以外のメンバーも含めて自由に議論する資格を持つこと。とりわけ学部生・大学院生の参加者は、将来のリーダーとしての成長する人々であること。共同研究や書籍出版など新規プロジェクトがこの合宿から多数生まれることへの期待が述べられた。
参加者には「実験的なマインドを持ってほしい」と谷口氏は呼びかけた。運営側が用意したプログラムはフレキシブルに変えていくし、参加者からの提案も歓迎する。Slackを活用し、意見やアイデアをテキストベースで共有する。記号的相互作用が集合的な学習を可能にするCPC(集合的予測符号化)を、CPC Camp自身が体現する場であってほしいと谷口氏は述べた。
谷口氏によるオープン二ングセッションと基調講演(動画公開はこちらのみ)
谷口氏による基調講演では、これまでの記号創発システム論の展開をたどりつつ、CPCの理論枠組みの概略が説明された。また、過去1年に谷口氏が異なる学術コミュニティとの共著で発表してきた4つのプレプリント論文(それぞれ、クオリア構造、世界モデル、科学哲学、ベルクソン時間論とCPCを接続する内容)の概要とともに、本合宿に参加しているメンバーと谷口氏との接点が示された。また、谷口氏はCPCのコアにある考え方として、1)外的表象と内的表象を区別し外的表象の変化を記述の対象とすること、2)集団としての予測性に基づく生成モデルとして記号/言語創発を捉えること、3)言語ゲーム(人々の記号的な相互作用)が分散的ベイズ推論として機能するという見方をとること、を挙げた。
続く林祐輔氏(AI Alignment Network、合宿副委員長)の基調講演では、CPCの数理的な解説がなされた。コミュニケーションにおける「意味」の側面を捨象することで情報理論を打ち立てたクロード・シャノンの理論を引き合いに、CPCでは「意味創発」のメカニズムを記述する点が強調された。CPCの自由エネルギー原理の取り扱いの中から、集団全体で共有する正則化項(collective regularization)が現れることや、ランジュヴァン方程式によるCPCの定式化など、物理学(確率熱力学)とのつながりも示された。
初対面、かつ出身分野が大きく異なるメンバーが議論のモードに入るためのアイスブレイクセッションが設けられた。5、6名のグループに分かれ、自己紹介や関心のあるトピックを交換するセッションを2巡行った。できるだけ共通項が少ないメンバーを集めるべく、その場でChatGPT 4oが考案した簡便なアルゴリズムに基づいてグループ分けが行われ、効果的なアイスブレイクが実現した。
夕食後は、谷口氏に対してCPCの枠組みへの疑問をぶつけるセッションが設けられた。CPCの数理モデルに関する理解の確認から、CPCという理論枠組みのステータスや射程、またCPCの中核をなす「内的表象」概念の内実など、様々な角度から論点・疑問・批判が提起され、議論が深められた。その後、小グループに分かれた個別の議論も深夜まで続いた。
2日目も雨天。朝早くから参加者による3件のパネルディスカッションから始まった。 ここでは、ゆるく関心を共有する4,5名のパネリストが、自身の研究を紹介しつつCPCと関連しうる自身の問題関心を共有していった。
Chair:吉田尚人、Panelist:長野匡隼、坂本航太郎、堀部和也、宮下太陽
人やロボットの「協力行動」のダイナミクスとその創発という関心を共有する、文化社会学、AI研究、記号創発ロボティクス、人工生命などを専門とするパネリストが議論を交わした。マルチエージェント強化学習や村社会、文化進化などの観点から記号と協力行動をどのように捉えるか。そこでカギとなる「記号圏」の概念や、LLMを用いた仮想社会の実験の可能性、またAIは人間社会にある種の「文化的侵略」を始めているなかでどう立ち向かうかといった論点が話題に上った。
Chair:上田亮、Panelist:谷口彰、藤澤逸平、山中司、日永田智絵
自然言語処理、ロボティクス、言語教育、AIの論理推論などを専門とするパネリストにより、言語創発をCPCで捉えた場合に、各分野でどのような実証研究や応用が可能かが議論された。reasoningと呼ばれるAIの能力を創発するプロセスや、感情・生命性を伴うコミュニケーション、第二言語話者が記号圏に入り込むことの言語学習における重要性。文法構造など言語が複雑化していくダイナミクスをCPCは果たして表現できるのかといった問いも提起された。
Chair: 鈴木大地、Panelist: 西田洋平、谷島貫太、平井靖史、椋本輔
発生生物学、基礎情報学、記号学、ベルクソン哲学などを専門とするパネリストにより、生命に根ざす記号過程とCPCとの接続が探られた。生物進化における原初的な記号過程に着目する重要性、意識の問題との関連性、ネオサイバネティクスから見たCPCへの疑問。「AIが錯視を起こす」という現象における生命情報の観点からの考察や、CPCの実証研究で用いられる「共同注意」の想定に関する疑問などが論点として挙げられた。
午後からは参加者が提案した議題に関して議論がしたい人が集まるオープン・スペース・テクノロジー(OST)形式の議論が行われた。それと並走する形で、これまでの議論で質問されることが多かった重要トピックについて、その専門家に解説してもらうチュートリアルが急遽組まれた。OSTと、チュートリアルのテーマは以下の通りである。
【OST】
AIと科学
CPCの工学応用の可能性
社会システム論とCPC
共同注意とインデックス(指標性)
文理融合アウトリーチ&ファンディング
文法構造の創発
CPCとデモクラシー
記号圏とトラスト、コミュニティ形成
【チュートリアルセッション】
谷口忠大「CPCと市場メカニズムの類似と差異」
平井靖史「System 0/1/2/3のランドスケープ」
林祐輔「自由エネルギー原理の式変形とempowerment」
OSTは4グループ×2セッション行われ、セッションの終わりに各グループの議論内容が共有された。
夜は言語獲得の心理学を専門とする佐治伸郎氏によるチュートリアル「言語獲得における共同注意とバイアス」が行われたほか、引き続き自発的な議論がホワイトボードや宿泊部屋のラウンジにて続いた。
会期中、はじめて晴れ間が見えた最終日。3つのパネルディスカッションを経て、合宿後のアクションを話し合うラップアップセッションへ。
Chair:高木志郎、Panelist:濱田太陽、大塚淳、福島俊一、丸山隆一
科学の自動化に取り組むAI研究者、科学哲学者、学術振興にかかわるシンクタンクなど、科学の営みそのものを考える「メタサイエンス」の視座を持つパネリストにより、CPCが社会的な営みとしての科学をよりよくとらえる可能性や、今後のAI科学におけるその役割についての議論がなされた。「科学のモデルとしてのCPC」の考え方を科学計量学と接続していく方向性や、実際にAI科学のためのシステムを作ることによる実践との連携の可能性にも言及された。
Chair: 林祐輔、Panelist:山下祐一、鈴木雅大、加藤隆文、佐治伸郎
パース的記号論、プラグマティズム、AI・ロボティクスの世界モデル、言語発達の心理学、精神医学などを専門とするパネリストにより、それぞれの分野から見たCPCと接点のある話題共有がなされた。人間の意味理解の前提には、何かが実在するという想定や、「ものには名前がある」という洞察など根本的な想定の創発がそもそも必要であること、AI・ロボティクスの分野で用いられる世界モデルの学習において「時間の抽象化」という考え方が今後重要になっていくだろうといった数々の興味深い論点が提起された。
Chair: 上野裕太郎、Panelist:山木良輔、進藤稜真、水鳥翔伍、久保田はな、廣瀬百葉
二日目の時点で、参加していた学部生・大学院生からの発言が相対的に少ないと感じられたことから、主催者の発案で急遽「若手パネル」が組まれた。社会学、現象学、AI研究、心理学などを専門に研究を行う大学院生らが、CPCが宗教を含む規範に絡む記号創発を射程に入れることがどのようにできるのかといった挑戦的なテーマについて議論した。
合宿の締めくくりとなるセッションが、委員長・谷口氏の司会で行なわれた。この時点で、合宿期間用のSlackには800近いメッセージが登録されているほか、2日間の議論で参加者の脳内には議論の記憶がふんだんに残っている。しかしこのままだと参加者は合宿で様々な知覚(perception)を得たのみであり、忘却されていくだろう。CPCが依拠する「能動的推論」の考え方でいえば、それが行動(action)に結びついてこそこの合宿の意義がある。このように谷口氏は説明したうえで、Slackと参加者の記憶に蓄積した議論の痕跡を今一度掘り返してほしいと呼びかけた。
具体的には、「○○さんとxxのプロジェクトを進めたい」というメモをSlack上に明示的に書き出す時間が取られた。40人ほどの参加者は各数件ずつ、人によっては10件以上のプロジェクト案を記載した。共同研究の話もあれば、単著・共著の書籍出版構想も含まれていた。そのうえで、書き出されたメモに基づき、それぞれが次回のミーティングなどの具体的な行程を話し合う1時間程度のフリーディスカッションが設けられた。多くの学会では、当日の議論が盛り上がってもその後の実現に至らないアイデアが少なくない。今回はそうした事態を回避し、なるべく多くのアイデアを実際に動かそうという意志が、参加メンバーに共有されていた。そうした各々の「アクション」を通して、CPC Camp 2025という「集合知(システム3)」による能動的推論を発揮してほしいと谷口氏は呼びかけ、合宿は閉会となった。
本合宿では、記号創発システム論と集合的予測符号化(CPC)がもつ理論的・応用的可能性が、学際的な観点から多角的に検討された。人間の言語や社会システム、科学共同体に至るまで、記号が生まれ共有されるプロセスを「分散的ベイズ推論」として説明しうるという発想は、文理を超えた多くの分野から興味の対象になりえ、活発な議論の的になりうることが改めて実感された。
一方で、こうした広がりゆえにCPC枠組みの課題や今後の発展の余地も多く見えてきた。一例を挙げれば、CPCの先駆的な実証パラダイムである「共同注意を伴う名づけゲーム」という設定をどこまで緩和できるのかという点、あるいは異なる記号圏をもつ集団における記号創発をどうモデルに取り込むかという点などである。こうした多数の理論への疑問、改善の余地はテークノートされ、今後の発展に取り込まれ、場合によっては体系の修正につながっていくことになるだろう。
また、今回の合宿では必ずしもメンバーがCPCというフレームワークに納得し、自身の研究に取り込むことが奨励されたわけではない。CPCという概念を旗印に行われた今回の議論から、自身の探究に持ち帰れるものがあればよいというスタンスである。CPCという問題設定によって、はじめて出会う異分野の研究者に共通の語彙が生まれ、その中から互いの関心の接点が生じたとすれば、主催者の意図が果たされたことになるはずである。
合宿期間は、レクチャースタイルの時間も含めSlack上で議論が飛び交い、参加者が「受動的」になるタイミングがなかった。食事中も風呂場でも議論が続き、それがSlackで共有され、そこに他の参加者が加わっていくというループのなかで、数十の対話が並列に走りながらも、それが会議全体で半透明化されているような感覚も覚えた。ここまでの密度の学際的議論は初体験だったという声や、それぞれに収穫があったとの声が聞かれた。
CPC Camp 2025が集合的な知性を活性化する仕掛けとして機能したとすれば、その要因は、「コミュニケーション場のデザイン」を研究対象にもしてきた主催者の即興的な会議運営とともに、積極的に対話し何かを持ち帰ろうという参加者たちのオープンマインドに尽きる。もちろん、各参加者がどれほど収穫を得たかはそれぞれだろうし、本合宿の価値は今後の(運営メンバーも含む)参加者のアクションがどれほど実を結んでいくかで定まるものだろう。
本合宿は、科研費やムーンショット型研究開発事業などの国の予算で支えられたほか、合宿に参加していない事務スタッフの協力のもと実現した。今回は日時やリソースの都合上、40人規模の招待制イベントとなったが、記号創発システム論/CPCの今後の展開がより広く共有されていくとともに、本合宿の会議運営の経験も、一つの学術コミュニケーションのやり方の例として共有・還元されていくことを期待したい。
合宿企画・主催:CPC Spring Camp 2025 実行委員(委員長:谷口忠大、副委員長:林祐輔、委員:片岩拓也、田島潤、運営補助:久保田はな)
本レポート文章:丸山隆一(記号創発アウトリーチチーム)
写真撮影:杉山滉平(記号創発アウトリーチチーム)ほか
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