近代日本キリスト教美術資料集
Resource Guide for Christian Art in Modern Japan
Resource Guide for Christian Art in Modern Japan
定方塊石(耀慶、大塊)
Kaiseki (Yōkei, Taikai) SADAKATA, 1882-1966
日本画によるキリストの絵を描いたメソジストの画家である。
時期や作品によって異なる雅号「塊石」、「耀慶」、「大塊」が使われているが、本ページでは、彼の母校の関西学院関連の文献で主に用いられている「塊石」を用いる。引用文中ではそれぞれの表記のままである。
Kaiseki Sadakata was a Methodist artist who painted Jesus Christ in the Japanese style.
He used several art names, including Kaiseki (Kwaiseki), Yōkei, and Taikai, depending on the period or the work.
定方塊石《平和の基督》
1930年
図版出典:YOKEI SADAKATA: "COME UNTO ME," Daniel Johnson Fleming, Each with His Own Brush: Contemporary Christian Art in Asia and Africa, New York: Friendship Press, 1938, p. 44.
定方塊石《人の生くるはパンのみに由るにあらず》
1934年頃
図版出典:YOKEI SADAKATA: THE FIRST TEMPTATION, Daniel Johnson Fleming, Each with His Own Brush: Contemporary Christian Art in Asia and Africa, New York: Friendship Press, 1938, p. 45.
※備考
本サイトで、題名を《人の生くるはパンのみに由るにあらず》としている作品は、作品の現存は未詳であり、現時点では出版物への掲載によってのみ知られるが、掲載媒体によって《キリスト》、《第一の誘惑》、《荒野のキリスト》など異なる題名になっている。本サイトで、《人の生くるはパンのみの由るにあらず》としている理由は、次の通りである。
まず、この作品は、西洋のカトリック関係の出版物に掲載されていることから、カトリック美術協会を通じて西洋に伝わった可能性がある。1934年の第三回カトリック美術展には、定方が《人の生くるはパンのみに由るに非ず》という作品を出したという記録がみえる(『日本カトリック新聞』1934年6月10日3面)。
次に、1939年の書籍『Neue christliche Malerei in Japan(日本の新しいキリスト教絵画)』において、図版の左下方に見える毛筆による文が不鮮明ながら「人の生くるはパンのみに由るにあらず」のように見える。
また、異なる題名の一つ「第一の誘惑」は、荒れ野で悪魔の誘惑を受けたイエスが、「人の生くるはパンのみに由るにあらず」と答えたエピソードである。
なお、『日本カトリック新聞』の文中では「…非ず」になっているが、『Neue christliche Malerei in Japan』の図版では「…あらず」のように見え、定方がしばしば引用に用いる文語訳聖書の該当箇所の表記は「…あらず」である。
以上を考え合わせて、この作品が1934年第三回カトリック美術展出品作で《人の生くるはパンのみに由るにあらず》であろうと暫定的に判断した次第であるが、確定するには更なる資料の発見が待たれる。
現在、定方塊石に関する先行研究で最も詳しいと思われるものは次のものである。
・伊藤笙子、井上琢智「シリーズ関西学院の人びと 一七 定方末七郎(塊石)」『関西学院史紀要』16号、2010年、p.183-200.
2026年には、岡山県立美術館での展覧会「美と祈り 近現代日本美術にみるキリスト教」(2026年1月9日~3月1日)で大きく紹介され、同館の『美術館NEWS』および展覧会図録にて解説されている。
・橋村直樹(学芸課長)「近現代岡山の美術家とキリスト教―定方塊石の場合」『美術館NEWS』第148号、岡山県立美術館、2025年4月、n.p.
・『美と祈り 近現代日本美術にみるキリスト教』(展覧会図録)、岡山県立美術館、2026年、pp.26, 134-137, 166
定方塊石の人生については次のものに詳しい。
・藤原謹一「定方大塊」『聖徒のあしあと 香登教会八十周年記念』日本イエス・キリスト教団香登教会、1976年、pp.49-68
・定方耀慶「自伝」『昨日・今日・明日―京南・京北教会創立七十五周年を記念して―」日本キリスト教団京北教会、1984年、pp.14-22
定方塊石の文章
・定方塊石「御聖像を完成するまで」『教界時報』1931年4月10日、p.7
・定方耀慶「日本のキリストを」『日本カトリック新聞』1934年6月10日3面
・定方耀慶「アダムス様は日本画基督の生みの母」『連帯時報』17(7)、1937年7月(故アリス・ペテー・アダムス女史追悼号)、p.24-25(目次では「日本画基督の生みの母アダムス女史」となっている。※なお、同文は次のものにも収録(挿絵が異なる)→『社会福祉法人岡山博愛会一〇〇年史』岡山博愛会、1991年、pp.381-382)
インタビュー記事
・近藤啓二「基督の画家 定方耀慶先生を訪ふ」『日本カトリック新聞』1933年3月12日4面
・「個人訪問記(2) 画家 定方耀慶氏」『日本メソヂスト時報』1938年7月8日、p.9
・「個人訪問記(2) 画家 定方耀慶氏 (承前)」『日本メソヂスト時報』1938年7月15日、p.5
次の文献にも紹介がある。
・「定方塊石」『関西学院の美術家―知られざる神戸モダニズム』神戸市立小磯記念美術館、2013年、p.47
・竹中正夫「定方大塊」『日本キリスト教歴史人名辞典』教文館、2020年、p.340
・竹中正夫「定方大塊」『美と真実 近代日本の美術とキリスト教』新教出版社、2006年、p.281-282
・竹中正夫「重荷を負うもの、我にきたれ」『聖書のことば 現代日本美術とともに』創元社、1966年、p.122-123
・竹中正夫「絵のなかの聖書の世界⑦ 日本画家のイエス像」『レゴー』第16号(1988初冬)、同志社大学宗教部、1988年、表紙裏
定方の作品が取り上げられている論文。
・David Morgan "The Circulation of Images in Mission History," The Sacred Gaze: Religious Visual Culture in Theory and Practice, Berkeley and Los Angeles: University of California Press, 2005, pp.147-187.
そのほかのもの(海外での掲載など)については、後述する。
定方が日本画でキリストを描くようになる背景には、絵の師匠からの励ましや、欧米や聖地への巡歴の中での探求があった。
彼の言葉をたどると、いかに彼が、「世界共通」のキリストを「日本特有」の表現と結び付けるに至ったかがみえてくる。
定方は、自身のキリストの絵について、1931年に次のように記している。
御聖像を完成するまで
定方塊石
私が主イエスを描きたいと云ふ望みを起したのは、今から卅年前の事であります。
絵に志して、当時師事してゐた仏画の巨勢小石先生から
「宗教画は最も大切なものでありあらゆる画の王座に位するものである。君はクリスチャンだから、将来は基督の絵を描くやうに努力すべきだ。」
と訓へられた時、私の心には最初の決心がついたのであります。同時に母校関西学院の教育が、一層その念を深めしめたのであります。
凡そ文明と芸術とは常に併行して進むものたる事は歴史の認むる処でありますが、芸術殊に絵画の傾向、下向に向ふ時は社会、家庭、国家も知らず知らずの内に之に伴ふ恐れがありまして、今日、基督の必要は、確に日本の絵画上にもあるのであります。
けれども、基督を画くと云ふ事は実に容易らなぬ事業でありまして、私は過去に於て、何回か基督を描かんと努めたのでありますが、どうも満足なものが出来なかつたのであります。
其内に自分の恩人知己は次ぎ次ぎと他界せられ、今は早や一刻の躊躇も出来ぬ時となりましたので、東京進出を期とし、多くの試練と戦ひつゝ祈り祈つて筆を取り、遂に れを完成したのであります。
此の「平和の基督」はマタイ伝十一章廿八節にある
「すべて労するもの重荷を負ふ者、我に来れ、我なんぢらを息ません」
と云ふ御聖句を画題として、拙き筆に精魂の限りをこめて製したものであります。
この基督を描く為には、過去廿五年の準備が費されて居ります。私が多年巨勢先生から仏画を研究したのも、又欧米三年半の巡礼旅行も皆これが為でありまして、基督の名画と聞けば何処でも、むさぼる様にして調べて廻りました。丁度欧州に着いた時、計らずも独逸オバルマルガウに於て、十年一度の基督劇が開催されるのに際会し、親しくこれを観る事が出来た幸運を無上に喜んだ事もあります。又、或時は聖地に巡歴してユダヤ人の研究も重ね、しかして基督は唯ユダヤ人の筋だけで描いたのではいけない、元来ユダヤ人が東洋と西洋を含んだものであるから、基督を描くには源に返つて世界中のあらゆるものを含んだ、世界共通の救主として御顔貌も世界共通のものでなければならぬ事を痛感して、其心を持つて執筆しました。
要するに、どこまでも西洋の模倣を避けて、我等が独特のものとする為に、私は日本特有の筆法を持つて頗る古典的な表現法により、我等の救主としての基督を表したのであります。しかし時代は昔の筆法其まゝたる事をゆるしませんから、研究せる泰西の画法をも融合して描きました。其中、最も注意をはらつたのは御顔でありまして、泰西名画の筆は固より、今日の科学を以て承認し得る確実なる基督の遺跡等をも種々研究を重ね、又実際に自分の魂からほとばしり出づる感激と霊感とによつて描き顕はしたのであります。
一生を神に捧げて、他人から何と云はれようとも、基督を画いて死にたいと云ふ私の希望は、こゝにその目的の一端に達し得たのであります私は今日まで多くの人々に助けられ又神が御導き下さつて、拙いながらもこゝに一幅の画としてこれを表す事をゆるされたのは、何とも申しつくせぬ神の御恵と感謝して居ります
この原画は兵庫県西ノ宮市外関西学院に寄贈し納まつて居るのでありますが、知友の求むるまゝにコロタイプ版にして広く頒つ事に致しました。
出典:定方塊石「御聖像を完成するまで」『教界時報』1931年4月10日、p.7.
定方は、自身はメソジストであったが、教派をこえた交流をもっており、カトリック美術協会の賛助員でもあり、1933年には第二回カトリック美術展に賛助出品した。
※出品作品名は、カトリック美術協会のページの展覧会の項で、第二回展、第三回展、第四回展に「定方耀慶」の名で確認できる
出品にあたり、カトリック美術協会の近藤啓二によるインタビューで自身の人生と画業について語っている。
その中から特にキリスト教美術に関する部分を抜粋して以下に紹介する。
「実は第一回のカト美協会展を拝見し意外にも感じ又嬉しかつたのは日本でこんな立派な宗教画家の団体があろうとは少しも知らなかつたからで自分もご承知の通り教会はメソジストの方ですが皆さんと同じ神様を信仰し同じく芸術の道に精進して神様の御栄えを表はし御國を伝へんとキリストを描くものですがまあ各派からあがめられる神様はそれだけ偉大なんですね……」
「岡山は美作の久世の町で明治十五年に生れました。既にその頃ペテーという米国の宣教師(組合教会)が居られ盛んに伝道しておられまして。―さよう六歳の年に日曜学校で教へられることとなると同時に絵画も亦勉強し始めました。それから土地の小学校を卒業しペテーさんの和塾にはいりますと二十八日目にその塾がつぶれてしまひました。“ONWARD AND UPWARD”(ますます向上進歩する様に)と励まされ今度は神戸の関西学院へ入れてもらひました。
絵も引続き描きましたが如何にしてもよき師匠が無い。そこで時の院長吉岡美国氏に「せめて夏休みの期間だけでも東京へいつて橋本雅邦先生について教はりたいものですが」と相談すると吉岡氏は「お前さんは苦学の身で東京へ上るなんぞは到底覚束ないそれよりも京都で自分の心当りをたづねてあげようからお待ちなさい」と親切にいつてくれました。
そこで学院の裏手の摩耶山へ友人と登り共に祈り独り谷間に降り黙想して何気なく聖書を繙きますと目にはいったのがマカ伝(マルコ)十一章二十三節の「我誠に汝等に告ぐ人若しこの山に移りて海に入れと云ふともその云ふ所必ずなるべしと信じて心に疑はずばその如くなるべし」との御言葉じやありませんか。―今更の如く教へられる気がしまして学院の裏門をくぐると小使さんが飛んで来て院長が御呼びだと云ふ御部屋へ行くと京都の話が纏つたから今晩にも出発してよいと申される、そこへ舎監が餞別に参円五拾銭下さる―全く夢心地でしたよ。それから京都へ来てかねて照会されてあつた仏師巨勢小石先生に師事する事になりました(巨勢小石先生は京都で華族学校や今の工芸学校の前身の画学校で教鞭をとられ東京に美術学校が創立せらるるや聘されて芳崖、雅邦と共に最初の日本画家の教授でまれにみる謹厳な人格者、画聖とうたはれた采女正巨勢金岡の第三十八代目にあたられる)」
「夏休みの二ヶ月はまたたく間に終はりました。その時師匠は「絵画には花鳥動物山水人物あり人物の中にも歴史画美人画などあれどその中宗教画を以て第一となす芸術家たるもの須くこの境地に到るべく自分は仏画なれどもお前は信念のままにキリストを描けよ」とかんでふくんだような慈言御鞭撻……まあ思へば今日のこの私の絵もその折に培つておいたもの謂はば三十年来の希望の結晶で御座います」
「大正十一年六月関西学院の旧友から宗教画家たるもの聖地を踏まずしてあるべからずと勧められ急に思ひ立つて外遊を致しました。まづ仏蘭西で八ヶ月米国で二ヶ年後又渡欧して十ヶ国を行脚して憧れの聖地パレスチナでは主キリストの御足跡をたづね三年程でかへりました。」
「上京しましていよいよ先にも申上げた聖画を思ひ立ち一年程かかつて仕上げたのがこの「平和のキリスト」で御座います(関西学院蔵)次が最後の晩餐(本郷春木町中央会堂蔵)で第三枚目の大作は只今執筆中カト美協会展に間に合へばよいがと存じます。」
出典:近藤啓二「基督の画家 定方耀慶先生を訪ふ」『日本カトリック新聞』1933年3月12日4面
※記事内では漢字にルビがあるが、ところどころ誤りがある。例えば、関西学院(誤:くわんさいがくいん、正:くわんせいがくいん)、巨勢小石(誤:こせこいし、正:こせしょうせき)など。おそらく、著者の近藤によるものではなく、植字のときに誤ったのであろう。
定方は、1934年の第三回カトリック美術展にも出品し、次の文を『日本カトリック新聞』に寄稿している。
日本のキリストを
定方耀慶
私は日本画で聖像を絵く事に一代を捧げて居るのであります。本年の出品は『人の生くるはパンのみに由るに非ず』と云ふ御言を題とし選んだので有りますが人間は最初パラダイスを失ふて以来古今東西共パンの為には働かなくてはならぬ事と成つた其事は、ともすれば人間をしてパンと金と慾心に身を奪はれしめ遂には亡に至らしむる事が多い事は日毎に見る真に悲しむ可き事実であります。
殊に現代は先づパンの為に働いて居る者が多いので主イエスの『人の生くるはパンのみに由るに非ず』との御言は特に深く考ふ可き御言では有りますまいか? 今日我等が神の御声を聞くに鈍いのも此パンが大なる妨げと成つて居るのでは無いでしようか? パンの誘惑は頗る強い誘惑で人間の力だけでは打勝ち難い、主イエスの此御言に従ふに非ずして如何でか征服し得んやと思ふので有ります。
其御言を賜つた時のイエス様の御姿は荘厳極り無きものと思ふので有ります其御心持を幾分でも顕はしたいと務めて謹製したのが此度の出品画で有りました私は常に思ふイエス様を全く我らのイエス様とし尊めたい、直訳的の基督ではなく我等日本の基督として尊めたい、今後の日本を救う救主はイエスで有ると云ふ事を日本全体が早く認むるに至らん事を祈つて止まないので有ります。即ちイエスは我国民のもの我国民はイエスの者日本国民は上より下に至る迄エホバ神のものでなくてはならぬので有ります
其意味に於て私は聖像を絵くに当り常に純粋な日本画で御姿を顕す事を務めて居るので有ります
今一ツの出品画は『我に来れ』と万人を呼ばるゝ基督、最も平和な御気持の基督、最も明るい基督、人を引付けずには止まれない基督の面影の幾分を顕すつもりで描いた御聖像で有りました。
出典:定方耀慶「日本のキリストを」『日本カトリック新聞』1934年6月10日3面
1938年には、メソジストの雑誌に次のように語っている。
個人訪問記(2) 定方耀慶氏
暴雨の去つた翌夕、うつとうしい五月の雨模様の空を仰ぎ乍ら、駒込千駄木町に「基督を画く人」定方耀慶先生の門を叩いた。………。
『さあ何からお話し致しませうか。ま兎に角お話する前に一つお見せするものがあります』
さう言つて先生は壁にあつた大きなつひ立てのやうなものを取りのけると、そこに一枚のキリストの画像がかけてあつた。
『これは今から八年前に私が始めて画いて世に問ふた基督の画です。これには面白い話があるのです。御覧なさい。この画の縁の方が皆焼けて居りませう。これは数年前根岸の共励館が火災に遭つて一切が灰に帰した時、その灰の中から拾ひ出したものなのです。不思議な事でせう。全部焼けてしまつたのに、たつた一葉の紙片である此の「基督の画」が縁が少しこげただけで画面には少しもきづがつかなかつたのです。私はお客が来られると何時でもこの話をするんですよ』
成る程不思議な話である。縁がこげて居るので、反つて画面を面白く引き立たせて居る位である。
『今晩は一つ私がどうして「基督を画く」と言ふ決心をするに到つたか、と言ふやうな事をお話し致しませうか。これはまだ誰にもあまり話した事はありませんが世間の方々はよく私が「基督を画く」と言ふ事を聖なるものに対する冒涜だ、偶像崇拝的だ、神の子の姿が人の手で画けるものか、と盛んに非難いたします。これは破壊主義ですね。けれども私は一生を賭して矢張り画かうと決心してゐます私だつてそれ位の事は十分知つて居ります。然し私は今までの長い経験からこれは神の御旨だと確信して居るのですよ。」と言つて先生は口をつぐまれた。傍から奥様が「まあお茶を一つ」と茶菓をすゝめて下さる。仲々蒸し暑い晩になつて来た。先生は盛んに団扇を使はれ乍ら更に話をすゝめられる。
『私は小学校を卒えた十四の時、志を立て画を以て身を立てやうと決心し、色々と手をつくしたが、途が開けない。致方なく人の世話する儘に或る医者の家に住み込んで医学を修める事になりましたそして色々旅の支度をし、あちこち別れの挨拶をすませ、明朝出発という晩に私のところへ一通の手紙が舞ひ込んで来ました。その手紙は画を修業する途が開けたからすぐ来る様に、との知人からの便りでありました。私の父は即座に「医者になる事はやめて画をやれ。これはお前の第一志望だ。男子が一度決心した事はさう軽々と変更するわけにはゆかぬ」と言はれたものです。これですべては決りました。私は当時SSの生徒でありましたから、これは神の御旨だと信じて感謝に堪えませんでした。』先生は感慨深さうに四十有余年の昔、十四歳の少年時代を回顧された。
『それから私は関西学院に普通科に入学、苦学することになりました。然しこゝはミツシヨン・スクールであり、今までしひたげられた私は、こゝで世人に愛され、幾分の尊敬さへうけてまるで天国のやうでした。たゞ一つ不満であつた事は関学では私の志望である日本画の勉強が出きないと言ふ事でした。然し此処でも私は不思議な神の摂理の中に置かれたのです。入学翌年の夏休み直前の事でした私達十二三名の学生は学院の裏手に聳ゆる摩耶山に祈りのために登つて行きました。一行の中には、今の釘宮監督もまじつて居りました。銘々は分れて一人一人好きな場所で熱祷いたしました。私はひゞきをたよりに、滝の下に下りて行つて「どうか私によき画の師匠を与へて下さい」と祈りました。私は前々から此の夏休みを利用して画の勉強をしたいと思ひ吉岡院長に先生を探して下さいと頼んで置いたのでした。祈りつゝ私は聖書を開きますと、
「誠に汝らに告ぐ、人もし此の山に「移りて海に入れ」と言ふとも、其の言ふところ必ず成るべしと信じて、心に疑はずば、その如く成るべし」
との聖言を見出しました。私は此の時程切実にキリストの言葉を身近に聞いた事はありませんでした。私は我が願ひは聞かれたと勇躍して下山したのです。ところがどうでせう。下山すると同時に私は吉岡院長より画の師匠が見つかつた。早速来いと言つて居られるから直ちに出発する様にの言葉をいたゞいた。更に驚くべき事には、京都までの旅費に窮して居た私に今の広島女学院長日[野]原善輔氏の手を通して神は必要なものを備へて居て下さつたのです。当時苦学して居た私は、仲間の日野原氏の病気の時徹夜看病してあげた事がありましたが、日野原氏はその時のお礼だよ、とて三円五十銭を私にくれたのでした。すべてが神によつて備へられました。私は喜び勇んで京都の師匠巨勢小石先生の許へと出発しました。」
(次号へつゞく)
出典:「個人訪問記(2) 定方耀慶氏」『日本メソヂスト時報』1938年7月8日、p.9.
『小石先生、それは此の家内の父なのです。それからこれとあれが先生の画いたものです』さう言つて先生は床の間と欄間を指さゝれた。床の間には二羽の蝶が舞ふて居た。気品のある画である事は素人の記者にも感じられる。
『小石先生を師として与へられたと言ふ事は亦不思議な神の摂理でありました私は元来基督を画きたいと念願して居りましたが、先生は仏画をなさる方で、私に仏画の手本などを下さいました。始めは少しいやな気持が致しましたが、修業が進むにつれてその非なる事を覚りました。と言ふのは、日本画を研究するには仏画によらなければ完く不可能なのです更にまた日本には数多くの画の師匠はありますけれど、如何なる大家と雖も宗教画家としての道を拓いてくれる人はありませんでした。けれども小石先生は美術学校の創立当時の教授でもあられましたが非常に博識俊敏、西洋画にも関心のある立流な先生であつて、人を見抜く力がありました。バプテスマのヨハネがキリストを一目で見抜いた様に、先生は私を見るとすぐに「お前はキリスト信者だから基督画家になつた方が好い」と言はれたものです。斯うして私の進むべき道は常に不思議な神の手によつて拓かれて行きました。
先生の話によると師匠巨勢小石は桓武天皇の御代に於ける有名な画家巨勢金岡の血統で三十三代、画統では三十八代に当るさうである。先生はアブラハムの血統とキリストの関係と、仏画家巨勢の血統とキリスト画家たるご自身の関係とを思ひ並べて考へて居られた。面白い比較であると記者は思ふた。先生は言はれる。
『汝等の義学者パリサイ人に勝らずばと基督は言はれたが、画でも同じですよ矢張り腕ですよ。私の希望が如何に高遠であつても、腕がにぶくては駄目ですからね。いくら大学を出ても力がなければ力士だつて成功は出きないでせう。腕です。私もしつかりしなければならないと思つてゐます。ところで一つこれを御覧下さい。』さう言て開いて見せたのは高さ六尺幅八尺程の大作である。桃山時代の美人画家、美人又兵衛事岩佐又兵衛の原図によつたものである。その美麗精密而も言ふに言はれぬ気品驚嘆の外はない。
『基督画家の私がこんな絵を画くかと言ふかも知れませんが、実は師匠に教へられたのでです。私は此の五人の遊女の絵を写した時には、実にキリストの前に在るの敬虔と熱誠をこめて画いたのです。之は遊女の姿では有りますが、又兵衛の大傑作で有り色彩の稽古の為にやらなくてはならぬ機会で有つた為祈り祈つて執筆致しました。』
奥様も傍から色々絵具に就いて或は桃山時代の風俗に就いて説明して下さる。
『此の画は二十六年前に画いたもので今まで全く世に出なかつたのですが、今年画いた「神庭の瀧」……あなたも御覧になつたでせう。あれと交換して私の手許にもどしたのです。あなたが殆んど最初にこれを見る方なんですよ』と言はれる。記者はたゞおどろきをもつて美麗な画面を見入るばかりであつた。最後に先生は又一幅の画を持つて来られた。
『これはどうです。円山応挙の神品です。小石先生の鑑定でまちがひはありません。此の葉げいとうの勢はどうです。此の実物の花と比べてごらんなさい。』さう言つて先生は床の間の花を指す。『実物がまけますよ。画もこうなると道楽や娯楽ではありません。神的な気韻さへ感じられるではありませんか。今後これだけのものは仲々画けますまい。』
私は残暑の熱の中を勢よく伸び上る葉けいとうの三茎をあかず眺め入つた。先生は更に仏画の気品、キリスト教と美術の事など奥様と代る代る語られた。……
「電車通りまで送つてあげませう」さう言つて先生は雨傘を持つて門を開いて下さつた。
出典:「個人訪問記(2) 画家 定方耀慶氏 (承前)」『日本メソヂスト時報』1938年7月15日、p.5.
「日本のキリスト」の姿を探求した定方の作品は、日本国内だけでなく展示や印刷物を通じて海外にも紹介された。
海外では、日本画の技法とキリスト教との融合が評価される一方で、作品の「仏教的」に見える要素が過度に注目されることによって、時には画家の意図とは異なって否定的な受け取られ方をしてしまう場合もあったように見受けられる。
以下に、フランス、アメリカ、バチカン、ドイツの事例を紹介する。
いつから彼の作品が海外に紹介されていたかは未詳であるが、1923年の滞欧中に、フランスでパリの「アメリカ婦人クラブ」でキリストの絵を展示したという新聞記事が『ニューヨーク・ヘラルド』紙パリ版に確認できる。
A painting of Christ by a Japanese Christian who studied for twenty years under the tuition of a Buddhist master is an interesting addition to the world of art. It is on exhibition at the American Women's Club of Paris, as indicated in THE NEW YORK HERALD a few days ago. The artist, Mr. Kwaiseki Sadakata, is an ardent Christian, who at the age of fourteen entered Kwansei Gakuin, a Methodist Mission school in Kobe. Having become imbued with Christ's teachings, he determined at the age of sixteen that it was his life mission to serve his Master through art. He struggled against poverty to attain the technique of Japanese painting, and strangely enough, he chose to become the pupil of Kose Shoseki, whose ancestor founded the Kose school of Buddhist painting soon after the capital of Japan was removed from Nara to Kyoto about one thousand years ago. At present, Mr. Sadakata is perfecting his technique in Paris by studying proportion and perspective.
出典:"ROUND THE STUDIOS" The New York Herald, Paris, Sunday, April 29, 1923, p.2.
(上記の日本語訳)
仏画の師のもとで二十年にわたり修業した日本人キリスト教徒によるキリストの絵が、美術界に一異彩を加えている。この作品は、数日前『ニューヨーク・ヘラルド』紙[パリ版]が伝えたとおり、パリのアメリカ婦人クラブに展示されている。作者の定方塊石氏は熱心なキリスト教徒で、十四歳のときに神戸のメソジストのミッションスクールである関西学院に入学した。彼は、キリストの教えに深く感化され、十六歳のとき、芸術を通して主に仕えることを生涯の使命と定めた。彼は貧しさと闘いながら日本画の技法を身につけ、不思議なことに、巨勢小石の弟子となることを選んだ。小石の先祖は、千年前に日本の都が奈良から京都に移された直後、仏画の巨勢派を創始した。現在、定方氏は、パリにおいて比例や遠近法を学び、画技に磨きをかけている。
1931年、アメリカの雑誌『Asia: Journal of the American Asiatic Association』(1931年12月号)の記事「東洋絵画における聖書主題」において、《平和の基督》の図版が掲載され、次のような説明文が付けられている。
"You are a Christian; study Buddha first, and then you may paint Jesus," the famous Japanese Buddhistic painter Kosei [sic] told Kaiseki Sadakata. For long years Mr. Sadakata studied with Kosei; then he journeyed abroad to see western paintings of Christ. After his return to Japan he painted this picture.
出典:"Biblical Themes in Eastern Painting" Asia: Journal of the American Asiatic Association, December 1931, pp.761-765 (p. 765)
(上記の日本語訳)
「お前はキリスト教徒だ、まず仏陀を学んでからイエスを描きなさい」。著名な日本の仏画師の巨勢は、そう定方塊石に言った。何年にもわたり定方氏は巨勢の元で学び、それから西洋のキリストの絵を見るために外国を旅した。日本への帰国後、彼はこの絵を描いた。
1935年、イタリア人カトリック宣教師で、「現地の様式による宣教美術」運動の提唱者であり、キリスト教美術の権威であったチェルソ・コスタンティーニは、『バチカン画報』クリスマス号で日本のキリスト教美術を紹介する特集のなかで、次のように書いている(なお、定方の図版は載せていない)。
Sadaka [sic]. È un pittore ricco di sensibilità. Ma il Cristo che egli espose alla III mostra non mi persuade. Richiama troppo al pensiero Budda. Bisogna cristianizzare l'arte giapponese; non giapponizzare o, peggio, buddificare l'arte cristiana. Il pensiero cristiano deve prevalere assolutamente sulla forma; in un movimento di reazione si va facilmente agli eccessi: ma poi bisogna ritornare al giusto senso della misura. Bisognerà tenere sempre presente che le figure di Cristo e della Vergine e dei Santi devono signoreggiare il linguaggio artistico, devono cioè affermare, chiara ed inconfondibile, la loro personalità.
出典:Celso Costantini, «Il problema dell’Arte Cristiana nel Giappone», L’illustrazione vaticana, 6(24), 1935, pp.1354-1360 (pp.1359-1360).
(上記の日本語訳)
サダカ[タ]。彼は非常に感受性に富んだ画家である。しかし、彼が第三回展に出品したキリスト像は、私を納得させるものではない。それはあまりにも仏陀を想起させる。必要なのは、日本美術を「キリスト教化」することであって、キリスト教美術を「日本化」したり、ましてや「仏教化」したりすることではない。キリスト教的思想は、形態に対して絶対的に優位でなければならない。反動的な動きの中では、容易に過剰へと走りがちであるが、その後には正しい節度の感覚へと立ち返らねばならない。常に心に留めておくべきことは、キリスト、聖母、そして諸聖人の姿が造形言語を支配しなければならない、すなわち、その人格を明確かつ紛れのない形で主張しなければならない、ということである。
※訳注:「第三回展」とは、1934年の第三回カトリック美術展のことである。このとき定方は、《人の生くるはパンのみに由るにあらず》を出品している。コスタンティーニは、図版を載せていないが、おそらくここで指しているのは《人の生くるはパンのみに由るにあらず》のことであろう。
なお、コスタンティーニは、1940年にバチカンで発行された著書『宣教におけるキリスト教美術―宣教師のための美術の手引 』においても、定方のキリストについて上記と類似した内容を記述している(ここでも、該当作品の図版は載せていない)。
参照:Celso Costantini, L’arte cristiana nelle missioni: manuale d’arte per i missionari, Città del Vaticano: Tipografia Poliglotta Vaticana, 1940, p.175.
1938年、アメリカの長老派(プロテスタント)の宣教学者ダニエル・ジョンソン・フレミングは、アジアとアフリカのキリスト教美術を紹介する 著作『それぞれの絵筆で』 で、定方の作品二点の図版と解説を載せている。
(日本語と英語とで題名の異同があるが、図版の一つ目は《平和の基督》、二つ目は《人の生くるはパンのみに由るにあらず》である)
各作品について、フレミングは次のように述べる。
YOKEI SADAKATA: "COME UNTO ME"
In this picture there is the suggestion of a Japanese face, and the robe is closely related to that of a Buddhist priest; yet there is a manifest attempt by the artist to produce something universal. In the Palm of each hand appear lines delineating a cross. Mr. Sadakata is an outstanding artist and a devout Methodist. He feels that painting in the Christian tradition is a form of worship, and that when he paints on Sunday he is receiving the support of the worshipping Christian of the world.
YOKEI SADAKATA: THE FIRST TEMPTATION
A large problem in the naturalization of Christianity ― far larger than expression in art ― is illustrated by this picture. Opinion will doubtless be divided. Some will highly approve, not alone because of the artistic merit of the picture, but because it is a representation of Jesus in the dress, posture and spirit of the highest a convert has known in Buddhism. Others may say that this is a precise illustration of the danger of syncretism. Jesus did not separate himself from the world in passive meditation; he did not attempt to eliminate all desire as did Buddha; he came not to be ministered unto, but to minister. Such critics would say that this picture is definitely in the axis of Buddhism, not in the axis of Christianity, and therefore is a type of picture not to be encouraged in the indigenous church.
出典:Daniel Johnson Fleming, Each with His Own Brush: Contemporary Christian Art in Asia and Africa, New York: Friendship Press, 1938, pp. 44-45.
(上記の日本語訳)
定方耀慶《我に来たれ》
この絵には日本人の顔立ちを思わせる要素があり、また衣は仏教の僧侶の法衣にきわめて近い。しかし、画家が普遍的なものを生み出そうとしている明確な意図が認められる。両手の掌には、それぞれ十字架を描く線が現れている。定方氏は傑出した芸術家であり、敬虔なメソジストである。彼にとってキリスト教の伝統に基づいて描くことは礼拝のひとつのかたちであり、日曜日に絵を描くときには、世界中で礼拝するキリスト教徒たちに支えられていると感じるのである。
定方耀慶《第一の誘惑》
この絵は、キリスト教の現地化における大きな問題――芸術表現の問題をはるかに超える大きな問題――を示している。意見は間違いなく分かれるだろう。ある者は、この絵の芸術的価値ゆえだけでなく、改宗者が仏教において親しんできた着衣、姿勢、至高の精神をまとったイエスの表現であるという理由から、これを高く評価するであろう。他の者は、これはまさにシンクレティズムの危険性を示す典型例だと言うだろう。イエスは受動的な瞑想によって世から自らを切り離したのではなく、仏陀のようにすべての欲を消し去ろうとしたわけでもない。イエスは仕えられるためではなく、仕えるために来たのである。このような批評家たちは、この絵は明らかにキリスト教の軸ではなく仏教の軸に立っており、したがって現地の教会において奨励されるタイプの絵画ではない、と言うであろう。
YOKEI SADAKATA: "COME UNTO ME"
Daniel Johnson Fleming, Each with His Own Brush: Contemporary Christian Art in Asia and Africa, New York: Friendship Press, 1938, p. 44.
YOKEI SADAKATA: THE FIRST TEMPTATION
Daniel Johnson Fleming, Each with His Own Brush: Contemporary Christian Art in Asia and Africa, New York: Friendship Press, 1938, p. 45.
1939年、ドイツのアーヘン宣教博物館(カトリック)のゼップ・シュラーは、著書『日本の新しいキリスト教絵画』で、定方の作品《人の生くるはパンのみに由るにあらず》の図版を掲載し、次のように書いている。
So zeigte Sadakata in seinem „Christus in der Waste“ einen beachtenswerten Versuch zur Schaffung des japanischen Bibelbildes. Wenn auch äußerlich die Yoga-Haltung des sitzenden Buddha in diesem Christusbild übernommen scheint, so ist die Darstellung doch unbedingt neu und christlich empfunden und gestaltet. Man erkennt bei näherer Betrachtung vielleicht in der Arbeit den evangelischen Maler, der hier ein charakteristisches und erfreuliches Bild der werdenden evangelisch-japanischen Malerei zeigt.
出典:Sepp Schüller, Neue christliche Malerei in Japan, Freiburg im Breisgau: Verlag Herder, 1939, S. 45-46, 98.
(上記の日本語訳)
たとえば定方は、その《荒野のキリスト》において、日本の聖書絵画を創出しようとする注目すべき試みを示した。たしかに外見上は、このキリスト像には座像の仏陀に見られるヨガの姿勢が取り入れられているように見えるが、その表現はあくまで新しく、キリスト教的な感覚と造形に基づいている。さらに注意深く見るならば、この作品の中に福音的な画家の姿を認めることができ、ここには生成しつつある福音的な日本の絵画の特徴的で喜ばしい一例が示されているのである。
1947年にアメリカで出版された、シンシア・パール・モースの『世界の素晴らしい聖母像』には、定方の《THE BIRTH OF JESUS》(イエスの誕生)という作品が掲載されている。この作品では、飼葉桶に横たわる幼子イエスを見守る聖母マリアと五人の天使たちが描かれている。掲載図版は白黒であるが、文中では、聖母は緋色の長衣と青い外衣を着ており、幼子イエスは金髪であり、天から黄色の光が差していると説明されている。
同書における解説では、本作品に描かれた天使たちと聖母と幼子イエスの描写に、西洋の影響が色濃いことが指摘されている。著者は、日本は西洋からキリスト教が伝わってからまだ日が浅く、この画家に限らず、多くの国で画家たちが、天使を、金髪の巻き毛、白い肌、青い目で描くことが当然のようになっていると述べている。
著者は、この作品が、東洋的であるより西洋の影響を受けていることを否定的にとらえているようであるが、それでも、神が天使たちを通して幼子イエスを見守っていることが作品を通してはっきりと表わされており、画家が伝えようとしているメッセージが明確であるとして評価している。
参照:Cynthia Pearl Maus, The World's Great Madonnas : An Anthology of Pictures, Poetry, Music, and Stories Centering in the Life of the Madonna and Her Son, New York : Harper, 1947, pp.409-411
THE BIRTH oF JESUS
Kwaiseki Sadakata
Cynthia Pearl Maus, The World's Great Madonnas : An Anthology of Pictures, Poetry, Music, and Stories Centering in the Life of the Madonna and Her Son, New York : Harper, 1947, p. 410
1960年にアメリカで出版された、シンシア・パール・モースの『教会と美術』には、定方の《THE THREE SAINTS》(三聖図)という作品が掲載されている。
この作品では、中央のキリストの左右に孔子と釈迦が描かれ、三人が手を取り合っている場面となっている。
伝統的な「三聖」の画題では、孔子、釈迦、老子を描くところを、本作品ではキリストに置きかえたのであろう。
(例えば、同様にキリストを加えた三聖に、下村観山 《三聖之図》1909年、横浜美術館蔵がある。図版はこちら)
モースは、本作品について、三人の宗教指導者が手を取り合い、ともに人類を精神的・道徳的な高みへと導こうとしていることを表現しているようだと解釈している。
また、描かれている孔子と釈迦は日本人の容貌を思わせる一方で、キリストの顔は西洋的であると指摘している。
さらに、定方が敬虔なメソジストであることに触れた上で、彼が伝統的な技法や様式を使って、キリスト教による新しい価値観や思想を表現していることについて、全世界がひとつのキリスト教共同体となるために非常に役立つものであると評価している。
参照:Cynthia Pearl Maus, The Church and the Fine Arts : An Anthology of Pictures, Poetry, Music, and Stories Portraying the Growth and Development of the Church Through the Centuries, New York : Harper, 1960, pp. 711-712.
THE THREE SAINTS
Kwaiseki Sadakata
Cynthia Pearl Maus, The Church and the Fine Arts : An Anthology of Pictures, Poetry, Music, and Stories Portraying the Growth and Development of the Church Through the Centuries, New York : Harper, 1960, p.712.
1979年、アメリカの神学者ウィリアム・ディアネスは、『アジアのキリスト教美術』において、定方の《キリスト》を紹介しているが、残念なことに、作者名を長谷川路可と取り違えている。(掲載されている図版は、定方の《人の生くるはパンのみに由るにあらず》である)
彼もまた、この作品を仏陀と結び付けている。そして、フレミングと同様に、仏教的であることを問題視している。
Jesus is here represented in the dress, posture and spirit of the Buddha, or, what amounts to the same thing, the highest stage a Buddhist convert can reach. Now it is important to note that the Buddha is not often represented in Asian art in his human form, which is felt to be substantially irrelevant to the religious imagination. Of the three forms of the Buddha the Sambhogakaya, the glorious state, is most suitable for representation (Pharma, the third form, is ineffable and thus impossible to depict). This is the form that is most often represented on Buddhist icons by means of canonized symbolic characteristics such as posture, dress, hair and so forth. What is to be shown in other words, is not the historical Buddha but the one in whom the Buddha principle is realized, an event potentially found at any number of particular past and future times. The conclusion is hard to avoid for one who understands Buddhist symbolism, that Christ is here pictured as one in whom the Buddha (or "Christ") principle is realized or perfected. It is clear that the uniqueness of the work of Christ in history is seriously compromised; the normative element is not his life and work but the realization of the Buddhist ideal which Christ is seen to embody.
出典:William A. Dyrness, Christian Art in Asia, Amsterdam: Rodopi, 1979 (pp.47-48)
(上記の日本語訳)
ここではイエスが、衣装・姿勢・精神において仏陀の姿、あるいは同じことだが、仏教に改宗した者が到達しうる最高の境地として表現されている。ここで重要なのは、仏陀がアジア美術において人間としての姿で表されることはあまり多くなく、宗教的な考え方においては仏陀を人間として表すことは実質的に不適切だと感じられている点である。仏陀の三身のうち、最も表現に適しているのは輝かしい境地である報身(サンボーガカーヤ)である(第三の形態である法身は表現しがたいものであり、したがって描写不可能である)。この報身こそが、姿勢、衣服、髪型などの正典化された象徴的特徴によって、仏教の図像に最も頻繁に表される形態である。言い換えれば、ここで示されているのは歴史上の仏陀ではなく、仏陀の原理が成就された存在であり、その出来事は過去や未来のさまざまな時点において起こりうるものなのである。仏教のシンボリズムを理解する者にとって、ここでキリストが、仏陀(あるいは「キリスト」)の原理が成就または完成された存在として描かれている、という結論を避けることは難しい。歴史におけるキリストの業の唯一性が著しく損なわれていることは明らかである。ここでは、規範となる要素はキリストの生涯と業ではなく、仏教的理想の実現をキリストが体現しているとみなされているのである。
近年では、アメリカの宗教学者のデイヴィッド・モーガンが、宗教と物質文化を論じる2005年の著書の中で取り上げ、フレミングから引用するかたちで《第一の誘惑》(人の生くるはパンのみに由るにあらず)の図版を掲載している。
モーガンもまた、定方の作品を仏陀と関連付け、高徳院の阿弥陀如来坐像(鎌倉の大仏)の写真を載せて類似性を指摘している。
参照:David Morgan "The Circulation of Images in Mission History," The Sacred Gaze: Religious Visual Culture in Theory and Practice, Berkeley and Los Angeles: University of California Press, 2005, pp.147-187.
以上のように、西洋の論者は、コスタンティーニも、フレミングも、シュラーも、ディアネスも、モーガンも、定方の作品に描かれたキリストと「仏陀」との類似性を指摘している。しかし、日本美術史の文脈から見れば、この図像は、釈迦如来や阿弥陀如来というよりも、達磨大師に近いのではないだろうか。
例えば、明兆の《達磨図》(室町時代、京都・東福寺)と多くの共通点を有するが、図像の着想源や参照元については、更なる検証の余地があるだろう。
ただ、定方のキリストの絵が、西洋人にとって、漠然とした「仏陀」のイメージをもって見られ、仏教的要素の是非が議論の的になったという事実は、作品の受容を考えるうえで重要な点といえる。
本記事の更新情報
2025年12月13日作成
2025年12月27日更新
2026年2月28日更新